井芹仁菜の兄になりました、助けてください   作:占地

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エピローグ 蛇足な話

 実家のリビングで、缶ビールやチューハイの空き缶がいくつかテーブルに並んでいた。

 あの日、多摩川の河川敷で泥だらけになってから数年。仁菜も二十歳を迎え、こうして兄妹三人でお酒を飲める日が来るとは、記憶の底から這い上がってきたばかりのあの頃の私には想像もできなかった。

 

 姉さんはすでに結婚して家を出ており、今日は久しぶりの帰省だ。(ちなみに旦那さんは長旅の疲れと、うちの父の接待に耐えきれず、隣の客間で早々に寝潰れている)

 

 アルコールが入って少し頬を赤らめた姉さんが、横でチューハイをちびちびと飲んでいる仁菜を見て、ふと思い出したように口を開いた。

 

「仁菜はね、私の膝枕が好きなの」

 

「へぇ」

 

 私が相槌を打つと、仁菜が顔を真っ赤にして勢いよく身を乗り出した。

 

「好きじゃない! お、お姉ちゃんが無理やりやらせてくるんじゃん!」

 

「その割には、いつも素直に寝転がってたじゃない」

 

「そうなのか」

 

「そうじゃない! お兄ちゃんは黙ってて!」

 

 威嚇する猫のようにシャーッと牙を剥く仁菜。私は慌てて口をつぐんで降参のポーズを取る。涼音さんはそんな私たちを見てクスクスと笑いながら、とんでもないパスを投げてきた。

 

「宗一郎もしてあげたら? 私はもう、旦那のお世話で手いっぱいなの」

 

「ふーん」

 

「お姉ちゃん、やめて。そんなことしたら、お兄ちゃんの性格の悪さが感染るから」

 

 仁菜が露骨に嫌そうな顔をする。まあ、以前の『井芹宗一郎』の性格の悪さは折り紙付きだったし、今の私も時折その片鱗を覗かせてしまうことがあるから、否定はできない。

 

「そうかもしれんな」

 

 私が素直に頷くと、仁菜は調子を狂わせたように眉をひそめた。

 

「……言い返さないと、なんか私がいじめてるみたいじゃん」

 

「あながち間違いでもなさそうだからな」

 

「ですって、仁菜」

 

「あーもう! 腰抜け!」

 

 言うが早いか、仁菜はドスンと乱暴な音を立てて、私の腿の上に頭を乗せてきた。

 言うこととやることが完全に矛盾している。ゴツンと当たった後頭部が地味に痛いが、それ以上に、彼女が私にこんな無防備な背中を預けているという事実が、ひどくくすぐったかった。

 

「おい、もう二十歳の女性なんだから、もうちょっと……」

 

「お兄ちゃんに常識を説かれても説得力ありませーん」

 

 仰向けのまま、仁菜が私の顔を見上げてべーっと舌を出す。相変わらず口の減らないボーカルだ。最近は大きな箱でライブするようになってさらに喋れるようになっている。MCの評判いいらしい。

 私は助けを求めるように視線を上げた。

 

「……姉さん」

 

 

「良いじゃない。仁菜はあんたに構ってもらいたかったのよ。大人しくしときなさい」

 

「いや、でも……流石に成人済みの兄妹としては……」

 

「申し訳なさそうな顔する暇があったら、この子のわがままに応えてあげなさい。一生恨まれ続けてやるんでしょ。それが、あなたの兄としての役目よ」

 

 姉さんが、優しく、けれど有無を言わせない長女の凄みで微笑んだ。

 そう言われてしまえば、私に反論の余地はない。あの日、一生恨み続けてやると言った彼女の言葉を、一生かけて受け止めると決めたのだから。

 

「そうか。……そうかもな」

 

 私は諦めて、膝の上の少しだけ赤い髪を、不器用な手つきでぽんぽんと軽く叩いた。仁菜は「髪が乱れる」と文句を言いながらも、満更でもなさそうに目を閉じている。

 

 平和な時間が流れる中、ふと涼音さんが自身のグラスの結露を指で拭いながら、話題の矛先をこちらへ向けてきた。

 

「で、宗一郎は良い人いないの?」

 

「え? ああ、今は大学院の研究が忙しくて……」

 

「そんなこと言ってたら、一生結婚できないわよ?」

 

 姉の痛いところを突く指摘に口ごもっていると、膝の上から容赦のない追撃が飛んできた。

 

「独身でいいでしょ、お兄ちゃんは。そっちの方が似合ってる」

 

「気になる子とかもいないの? 学生のうちに作ってた方がいいわよ。職場恋愛はなかなか難しいから」

 

 結婚生活の先輩からのリアルなアドバイスに、私は少しだけ視線を泳がせた。誤魔化すこともできたが、今のこの家族の空気に嘘を吐くのも違う気がした。

 

「いないこともない、けど」

 

「うわっ、聞きたくない。身内のそんな生々しい話」

 

 仁菜が即座に嫌悪感を露わにして顔をしかめる。しかし、その耳がぴくりと動いているのを私は見逃さなかった。

 

「あらそう? 私は気になるけど。写真とかないの? 年上? 年下?」

 

「後輩。……写真、あったっけな。あ、研究室の集合写真なら。ああ、これだ。この二列目の右端」

 

 私がスマホの画面を涼音さんに向けると、彼女は「ほうほう」と興味深そうに目を細めた。

 

「へぇ、意外。なんか、すごく明るそうな子ね。宗一郎の陰気さを中和してくれそう」

「……ふーん?」

 

 膝の上の仁菜が、首だけをぐりんと捻って画面を覗き込んできた。さっき「聞きたくない」と言っていたのはどこの誰だったか。

 

「興味ないんじゃなかったのか?」

 

「もしかしたら身内になるかもしれないんでしょ。だったら、事前にどういう女か聞いとかないと」

 

「気の早いことだな」

 

 まだ付き合ってもいないのに、姑のようなチェックを入れる妹に私は苦笑した。

 

「でも、宗一郎が自分から誰かを気になるとか言い出すなんて、本当に珍しいことじゃない。何かあったの?」

 

 姉さんの純粋な疑問。

 確かに、以前の私なら他人に対してそんな感情を抱くことすら「非合理的だ」と切り捨てていただろう。でも、今は違う。人間という不完全な生き物の面白さや、愛おしさを、私はこの数年で嫌というほど学ばせてもらった。

 

「特に、特別なことがあったわけじゃない。ただ、」

 

「ただ?」

 

「いいなと思っただけだ。よく笑うし、素直に言葉にするし。一緒にいて、悪くないって思ったんだ」

 

 私が素直な心境を口にすると、リビングに一瞬、静かな沈黙が落ちた。そして、膝の上の仁菜が、心底虫酸が走るというような、しかしどこかむず痒いものを誤魔化すような顔で言い放った。

 

「気持ちわる」

 

 その見事なまでの直球すぎる感想に、私はたまらず吹き出した。

 

「ひどいな」

 

 私は笑いながら、もう一度、彼女の頭を少しだけ乱暴に撫でた。「やめてってば」と文句を言いながらも抵抗しない妹と、それを見て楽しそうにビールを煽る姉。

 

**

 

 深夜の静寂が包み込むリビング。

 膝の上では、さっきまで威勢よく毒づいていた仁菜が、子供のような寝息を立てて深い眠りに落ちていた。アルコールと、溜め込んでいた感情を吐き出した疲れが、彼女を夢の世界へ連れ去ったのだろう。

 

 私はその重みを感じながら、向かいに座る姉さんを見つめた。

 

「あなたとこう言うふうに笑い合える日が来て、本当に良かった」

 

 姉さんは、慈しむような手つきで仁菜の頭を撫でながら、ふっと視線を私に向けた。その瞳は少し潤んでいて、照明を反射してきらきらと輝いている。

 

「え、ああ。そうだな。僕も、そう思うよ」

 

「もう、本当にあの頃は酷くて」

 

 苦笑まじりのその言葉に、私は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。今の私には、かつての自分が家族にどれほどの冷気をもたらしていたか、その記憶がはっきりとある。彼女が一人で、どれほどこの壊れかけた家を繋ぎ止めようと奔走していたか。

 

「ご、ごめん。僕は、その……本当に、酷いことをした」

 

「いいのよ。……いや、よくはないけど」

 

 姉さんは首を振り、少しだけ遠くを見るような目をした。

 

「ずっと、昔みたいに戻れたらって思ってた。でも、それも無理な話よね。私たちはどうしても歳をとっていくんだし、いつかはここを離れていくんだし。……失われた時間は、取り戻せないもの」

 

「うん。でも、姉さんが諦めずにいてくれたから、僕たちはこうしてまた向き合えたんだ。……姉さんがいてくれて、本当に良かった。ありがとう」

 

 私が真っ直ぐに感謝を伝えると、姉さんは少し照れくさそうに顔を背け、畳の上にゴロリと寝転んだ。

 

「……問題児のくせに、泣かせないでよ」

 

「はは、本心だよ。……姉さん、ここで寝ると風邪をひくよ。明日の朝、体が痛くなるし」

 

「じゃあ、布団を出してきて。あなたの部屋で雑魚寝しましょうよ。昔、三人でそうしたみたいに」

 

「ええっ? 僕が?」

 

「働きなさい、愚弟」

 

 悪戯っぽく笑いながら命じる姉の姿に、私は降参するように両手を挙げた。

 

「わかったよ。……仁菜のことは混んでくれよ」

 

「え?私にやらせるの?」

 

「頼むよ、起きた時に何言われるかわからないから…」

 

「はいはい、まあそれくらいならやってあげるわ」

 

「助かります、お姉様」

 

「うむ、苦しゅうない」

 

 私は苦笑を浮かべた。そうして立ち上がろうとしたその時、背後から、呼び止める声がした。

 

「宗一郎」

 

「何?」

 

 振り返ると、涼音さんは畳に寝転んだまま、天井を見つめて穏やかに微笑んでいた。

 

「生まれてきてくれて、ありがとう。私も、あなたがいて良かったわ」

 

 その言葉は、私の魂に深く、温かく染み渡った。

 私は、前まではいない方がマシな存在だった。いるだけで室内の温度を下げるような、そんなん存在。けれど今、私はこうして誰かに、他でもない姉さんに必要とされ、感謝されている。

 前世の記憶も、今のこの身体も、すべてが繋がってこの瞬間にあるのだと。

 

「……ああ。おやすみ、姉さん」

 

 私は夜の静けさの中、家族の幸せな重みを感じながら、押し入れへと向かった。明日になれば、また仁菜の怒鳴り声が響き、涼音さんの呆れた溜め息が漏れるだろう。

 けれど、そんな「当たり前」の騒がしさが、今の私には何よりも愛おしい宝物だった。

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