大変お待たせしました……58話です……。
こ、今週死ぬかと……忙殺されるかと思った……。
――血が、しぶく。
草臥れたスーツのまくられた袖、露出した手首に真一文字に赤い線が刻まれ、血管を斬られた男の顔が鋭い痛みに歪んだ。
その血は男の白いシャツ目掛け勢いよく跳ね上がり、切り裂いた少女の頬にまで飛び散って跡をつけ、どくりどくりという脈拍と共に命を床に零していく。
このまま処置もせず放っておけば、当然ながら死を免れない状況。だがその深い傷は、つけたはずの少女が放つ淡い光に癒される。
呪いの力の逆作用、すなわち反転術式。かざされた手から溢れる燐光は、男の手首に生じた致命傷を瞬く間に繋ぎ合わせ、痛みを消し、あるべき状態に再生させた。
時間にしておよそ十数秒、男の手にあった切り傷は最早その痕跡すらない。
命に関わるはずのそれを、縫合糸もなしに容易く修復して見せたその様は正しく奇跡の顕現――しかし次の瞬間、少女の“海”の術式により、その手首に再び裂傷が生じる。
少女、八百歳比名子の手によって現在開かれている痛々しい光景は、男――日車寛見が反転術式を身に着けるための、恐ろしく乱暴な修行。
すなわち、致命傷に施される反転術式の感覚を体で掴み、自らの肉体に再現できるまで反復する作業。
呪術高専の教室の片隅にてそれが始まり、今で大体何度目か。ワックスがけの良く行き届いた床は既に悲惨な事件現場ほどに血で塗れ、そこまでやってなお日車は反転術式習得の糸口すら見いだせていない。
ただひたすらに小さな教室に充満する血の匂い、そして手首が裂ける度に脳天を突き抜ける激痛にストレスが募り続け……それを少しでも紛らすために、日車は比名子にこんな話題を出した。
『……俺の「誅伏賜死」で妖怪の「五感を狂わす言葉」を没収できるのは、妖怪のソレと術師や呪霊の術式が等価であるから……だったよな』
赤くなったり肌色に戻ったり忙しない己の手首から久方ぶりに目を逸らし、日車は加害と治癒を繰り返す比名子に視線を向ける。
修行のストレスによって皺の寄った顔に長時間向き合い続け、その苦痛を与えている身として申し訳なさに苛まれ始めていた比名子は、こちらもまた彼同様顔を上げて『……はい』と応じた。
『五条先生に講義してもらったことです。妖怪は基本“術式”というものは脳に刻まれていません。その理由は、妖怪がデフォルトで五感操作の
『生物が進化の過程で不要な器官を切り捨てるのと同じ。元来備わった
『言い換えれば、それは
だからこそ、妖怪の身体機能である
「誅伏賜死」の
それを踏まえ「誅伏賜死」の話にうつるが、これが“没収”する術式は基本的に
まずあり得ないケースではあるが、術式を複数所持している術師がいたとして、その片方が機能を停止している場合、没収されるのは健在であるもう一つの術式の方だと日車は考えている。
ただ、妖怪に関しては先述の通り、五感操作の
その上、一部の妖怪にはそれ固有の呪いも存在する。例えば人魚である近江汐莉は不老不死の肉体を持っており、血肉を分け与えることでその者にまで不死性を付与できる、といった具合だ。
そして「不死身」もまた没収の対象である。反転術式習得修行を開始する直前、汐莉と、汐莉の肉によって不死性を得た美胡に「誅伏賜死」を仕掛けて検証済みだ。
『そういえばその検証結果、私まだ聞いていないです』
『……一審から三審まで近江と社に試したが、計6回全て「不死身」に適用された』
日車の渋面に苦痛によるストレス以外の色が混じり、『そうですか……』と言葉を落とす比名子の表情にも同様の影が差す。
「誅伏賜死」は現行の法律に基づき、結界内の対象が犯した罪に沿って罰を与える領域だ。それ故「誅伏賜死」は現在の裁判と同様、一審・二審・三審の3回まで行うことが出来る。
その三回のチャンス全てで「不死身」に“没収”が適用された――当たり前のことかもしれないが、「五感を狂わす言葉」や「ヒトガタの擬態術」なぞよりも「不死身」の方が厄介さも脅威度も高いということだ。
通常であれば、確実に敵対者の「不死身」を没収できるという結果は、ことを構えるにあたりこれ以上ない吉報でしかないのだが――、
『……宿儺の反転術式は、ほとんど不死身と言っていいほどの高精度なんだろう?』
『はい。ですので、彼と戦う場合は物理的な殺害以上に“魂を剥がすこと”が重要になります』
先日の対宿儺作戦会議で、汐莉も口にしていたことだ。
たとえ五条がどれほど宿儺を削っていようと、後詰めとなる高専勢力だけでは宿儺を殺し切ることはまずもって不可能。
故にこちらが取るべきは、奴が妖怪・エリカに受肉している身であることを利用し、魂の輪郭を打つ攻撃によってその癒着を引き剥がす特殊勝利――しかしそれは、「五感を狂わす言葉」を応用した呪言、その一つである「沈め」によって阻止されるのだ。
『だが、望みがないわけでもない。「宿儺の場合は脅威度は呪言の方が上」という認識がある以上、宿儺に限れば没収対象を呪言に適用できる可能性はある』
「誅伏賜死」の結界内で開かれる裁判、その裁定、取り上げる罪状、没収対象の全ては式神「ジャッジマン」のみぞ知るところだ。
ジャッジマンが起訴する罪は完全ランダムであり、それを予測することは日車ですら不可能である。が、その罪に下る判決に関しては日車の想像におおむねそぐうものとなる。
そも、ジャッジマンは日車の術式に備わる式神だ。日車があり得なくもないと思っているなら、ジャッジマンもそうなのだろう。
第一、日車の推測がまるっきり見当違いであり、汐莉と美胡に試した際に6回連続でハズレを引いただけということも考えられるのだ。
以上より、今の段階で「呪言」を没収できないとは決まったわけでは全くないのは確かだが――、
『色々と希望的観測をしても、結局「不死身」を奪ってしまう可能性の方が高い。だから今、八百歳に相談したいことがあってな』
『……何をですか?』
『――宿儺から「不死身」を没収してしまった場合、「誅伏賜死」を三審まで試してみるべきか』
夥しい鮮血が床に垂れ流れるのを後目に、日車は険しい視線を比名子に向ける。
比名子は、すぐには答えなかった。
宿儺との戦いにおいて、何を捨て、何を拾うべきなのか――日車の問いは、単なる戦術の選択ではなく、この戦いに残された僅かな勝機をどこへ賭けるかという問いだった。
日車のこの問いに対し、比名子は――、
『――戦闘を、続行すべきだと思います』
『……その根拠は?』
『不死身が宿儺の身から消えた場合、日車さんの「処刑人の剣」で問答無用で殺せるようになります』
汐莉は呪言を奪えない=勝ちの目がないと断言していたが、比名子からすればチャンスは決して無いわけではない。
宿儺の反転術式が極致であろうが何だろうが、「処刑人の剣」なら少し斬っただけで死に至らせられる。
しかしそれも、宿儺が不死身である限り何の意味も為さないには言うまでもないことだろう。けれど、「不死身」を没収してしまえるなら話は別だ。
そして、
『宿儺から確実に死刑を取るやり方――虎杖君を巻き込んで渋谷での大量虐殺の罪を問うのは、あと一回しか試せない』
東京第1結界で日車が虎杖と交戦した際、虎杖は二審まで裁判を要求していた。
その二審で問われた罪――宿儺が「伏魔御廚子」で何千もの一般人を切り刻んだ件を取り上げる場合、その扱いは三審となる。「誅伏賜死」の仕様を考えるに、確実に「処刑人の剣」を獲得できる機会は、この一度しかあり得ないのだ。
もし「呪言」を獲れなかったからとこの機会を不意にすれば、次の裁判ではジャッジマンが軽い罪を起訴してしまい、せっかく得た「処刑人の剣」が日車の手から滑り落ちる可能性が生じてしまう。
だからこそ、比名子は主張するのだ。――「不死身」を没収したならば、今度は真っ当に殺すことを狙うべきであると。
『――没収するのが「呪言」であれ「不死身」であれ、この戦いの最重要人物は日車さんです。だから――』
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「――『解』」
五条悟との決戦により削られた宿儺を打倒せんと躍りかかった11人の高専術師および妖怪、それらが全て宿儺の「動くな」の餌食になり、直後に放たれた不可視の斬撃は日車寛見の命脈を絶たんとその首筋に迫り来る――、
「――シン・陰流『簡易領域』!!」
その刃の射線上、日車の手前の空間に日下部篤也の簡易領域が展開され、「解」はそこを通過する過程で表皮を裂く程度にまで威力を減衰させられる。
さらに日下部自身が肉盾となることで日車に斬撃が届くのを阻止することを試みる。
その二重の防壁をすり抜け、受け止めきれなかった分の斬撃は、
「――っだぁ、あっぶな! 日車、無事!?」
「ああ、俺に斬撃は届いていない。助かった、社」
すんでのところで割り込んだ美胡によって体を張って防がれる。
妖怪としてヒトガタに擬態している以上それなりに整えてある顔貌、その中心に大きく十字が刻まれ、盛大に髪を切り刻まれるが、そんなことを気にしている暇は今の美胡達に存在しない。
この戦いにおいて社美胡と近江汐莉に与えられた役割は囮、そして肉の壁。
どれだけ殴られ、蹴られ、手足をもがれようと、美胡達はその役割を全うせねばならず、そしてそれを全うする能力もある。片や人魚、片やその肉を喰らった者、いずれも不死身なのだから。
(――刀の男と後ろの妖怪が「呪言」を無視して動けているのは簡易領域を張っていたせいか)
術式の付与されぬ領域を展開し、開いた領域に敵対者の術式を流し込み中和する、簡易領域を用いた防御術。
あまり知られていない事実だが、妖怪の持ちうる
両面宿儺は呪いの王としてこの世に君臨せし者。当然この事実は彼の知るところである。
――このひと月の「入れ替え修業」の結果、高専勢力の面々はその実力や基礎能力を著しく向上させている。
全員の呪力強化術をはじめ、例えば虎杖や脹相は反転術式、そして簡易領域を習得している。「呪言」を無視して日車と斬撃の間に体を挟み込んだ美胡も彼らと同じだ。
そして高専術師の中には、基礎技能以外が伸びた者もおり――、
「――芻霊呪法『簪』」
ドスの聞いた女声が宿儺の頭上から降り注ぎ、直後にその肉体に無数の釘が突き立てられる。術の名が発されたと同時、釘に帯びた呪力が鋭く尖り、宿儺の体から血をしぶかせた。
内臓にまでは届かぬとはいえ、宿儺の体に穴を開ける呪術を操った術師――釘崎野薔薇の手に光るは、ハンマーに替わる新たな得物、ネイルガン。
さながら二丁拳銃のように左右の手に握られ、巨大なマガジンに大量の釘が装填されたソレは、改造に改造を重ねることで本来の釘打ち作業の省力化という用途からあまりにもかけ離れていた。
先端を押し当てないと作動しない安全機構は取り外され、圧縮空気の充填率を極限まで上げることにより、単なる気圧工具は鋭く尖った釘を高速で射出する殺戮兵器へと姿を変える。
「比名子のアイデアから生まれた改造ネイルガン芻霊呪法! 思う存分テメェで試してやるよ!!」
歴史と伝統ある「芻霊呪法」。古来よりの姿を保つ由緒正しい術式、故に旧態依然のステレオタイプに囚われたそれが、呪いの頂点への道を駆け上がった少女の手によりブラッシュアップされる。
威力の低さ、手数の少なさ、それらが一挙に解消され、呪殺を本領とする術式は物理的な破壊力をふんだんに盛り込まれる。そうして練り上げられた現代版「芻霊呪法」から繰り出される釘は殺意に満ちた雨霰となって宿儺の体に迫る、迫る、迫る――、
「――『動くな』」
撃たれ続けていた釘の嵐、それがまたしても宿儺の「呪言」によって阻まれる。
「動くな」と声をかけられただけで釘崎の指すらも硬直し、ネイルガンの引き金を引くことすら不可能になる。あらかじめ放たれていた釘の数々は宿儺が外皮の呪力強化をより増強したことにより、体に刺さるまでもなく弾き返されてしまった。
簡易領域を習得し、縛りなしで成立させることのできる者以外は、「呪言」によって再びその場に縫い留められる。
そして武器の使用できない芻霊呪法使いなど何の興味もないとばかりに釘崎を無視し、宿儺は改めて「処刑人の剣」を持つ日車の相手をせんと向き合い――、
(上見てねぇだろ、節穴!!)
呪言により声が出せず、心の中で発される嘲弄。
瞬間、釘の雨を降らせてきた釘崎よりもはるか高空、太陽を背にして天を飛び回る女から白き輝きが放たれる。
来栖華に宿りし天使、その術式の秘奥「邪去侮の梯子」は魔の者を滅する神聖な光。不完全な受肉によって肉体強度は損ねているとはいえ出力は健在、避ける間もなく全身に白光を浴びた宿儺はたまらず日車から距離を取る。
(多少高い位置とはいえ、俺の「呪言」が聞こえないほど遠い距離ではないハズだが……、……! 耳から血! 鼓膜を破ったか!!)
宿儺の四つ目が捉えたのは、高空より宿儺を見下ろす来栖の両耳から赤い液体がしたたり落ちている様子。
なるほど、確かに「呪言」は対象の耳から音として侵食し、脳髄に届かせることで発現する呪いだ。であれば、それを受け取る器官を壊してしまえば効力が生じる道理はない。
だが、そうまでして宿儺の「呪言」を回避しようとするとは――、
「くっくっ、必死だな」
――虎杖が宿儺の正面から食らいつき、脹相がその横合いから援護を飛ばす。汐莉が不死身を生かして宿儺の意識を引きつけ、石流と釘崎から遠距離から牽制を重ね、宿儺の「呪言」で生まれた隙を来栖の「邪去侮の梯子」が白く塗り潰す。
生きた時代も心に掲げる信念もバラバラな11人。けれどそんな者達が曲がりなりにも役割分担と連携が取れているのは、連中が何を目的としているかを理解しているからだ。
「――日車の剣での決着が一番丸い! 死んでも守れ!!」
簡易領域を張りながら宿儺の正面を動き回る日下部が怒号のように指令を飛ばす。
改めて言葉にせずとも、戦場の誰もが分かっている。「処刑人の剣」さえ宿儺へ届かせることが出来れば勝負が終わる。日車が剣を振るう機会を作れなければ、ここにいる誰もがどれだけ傷つこうが意味などない。
――「邪去侮の梯子」で生じた隙を突き、虎杖が拳を叩き込む。腕で防ぐが、五条と同じ魂の輪郭を捉える技で被受肉者との同調を揺さぶられる。
「――『穿血』!!」
直後、斜め後方から脹相により血の弾丸が放たれる。本来なら余裕をもって躱せる程度の速度だが、来栖と虎杖のせいで肉体の動きが鈍ったためやむなく首を逸らして回避。
しかし完全に避けることが出来ず、頬に僅かなかすり傷を受け――魂との同調が、さらに阻害される。
(やはり五条悟以外も人魚の血を飲み、魂を剝がす術を会得しているようだな)
人魚の血肉を取り込むと、人魚とそれを喰った側の間に魂の繋がりが出来る。それを応用した裏技だ。
少なくともこの技術は、この戦場で立ちまわる者全てが得ているのだろう。
虎杖達によって剥がれかけた魂、それは即座に宿儺の「呪言」によってフラットに戻される。
故に、これらの攻撃の一つ一つはさしたる脅威ではない――だが、
「『呪言』で回復するまで、少しは隙が生じるでしょう!!」
叫び、汐莉が全力の体当たり。直後に人魚の爪を宿儺の脇腹に突き刺し、わずかながらその筋肉を穿つ。
殴られ、蹴られ、「呪言」で戻し、呪力の大砲を打ち込まれ、光に焼かれ、釘に刺され、「呪言」で戻し。
「御廚子」で切り刻み、宿儺の拳が直撃し、こちらの攻撃もまた確実に連中を削っている。――しかし、それでもなお、奴らの攻撃は止まらない。
「――ハッ!!」
その連中の猛攻の中に織り交ぜられた鹿紫雲一との拳の交差。それが数度繰り返された時、二人の間に微かな紫電が瞬く。
それを視認し、同時に自身に溜まった鹿紫雲の呪力――電荷を察知。さらに鹿紫雲が自身に向けて呪力を撃ち出そうとしている予兆を確認し、五条悟の戦いが終わってから初めて、宿儺の背にひやりとしたものが走る。
完全な状態から半分ほど呪力を消耗した今、鹿紫雲の放とうとしているソレは確実に有効打となる。故にソレを放たれる前に、宿儺は「御廚子」で鹿紫雲を妨害しようとし――その瞬間、四者四方向から更なる攻撃が飛ぶ。
猪野の持つ呪具を受けるため、左腕を上げる。
日下部の刀を躱すため、首を傾げる。
石流の「グラニテブラスト」を避けるため、体を捻る。
美胡の突進をいなすため、右足を引く。
四つの攻撃を回避するための、四つの動作。それらが同時に重なり。
その直前に喰らったいくつかの攻撃により乱された魂の同調を「呪言」で戻すのが間に合わず。
――宿儺の正面に、ほんのわずかな空白が生まれる。
「――今だッ!!」
誰の声だったのか。
それを確かめるより早く、日車は生じた空白に飛び込む。
宿儺の不死身は、「誅伏賜死」の没収により既に奪った。故に、手に握る「処刑人の剣」さえ突き刺せば、宿儺の命脈を絶つことが出来る。
瞬きはおろか、それにすら及ばない微々たる空白。それを過たず、思い切り引いた腕をあらん限りの速さで突き出し――、
「――遅い」
――直後、日車の手首から先が、剣ごと宙へ飛んだ。
--------
『――日車さんは死にたいんですか?』
反転術式を会得する修行の最中、八百歳比名子が日車に向けてこんな問いを投げかけた。
『……少し前、虎杖も同じことを聞いてきたな』
手首に生じた裂傷を見つめながら、日車はぽつりと返す。
沈み調子なその声に、『虎杖君が?』と比名子は質問を重ねた。
『君も見て分かっているように、俺は反転術式を使えない。にもかかわらず、俺が当然のように宿儺と戦うことになっているからな』
『……一応、その憂慮を解消するための、この修行ですけど……』
『……何となくだが、これでは反転術式の習得は望めない気がする。君も同じ考えじゃないのか』
痛みに慣れず渋面を晒し続ける日車の声の調子は変わらない。反転術式の白い光を傷口に当てる比名子、その目が少し伏せられる。
こうして何度も治癒を受け、それでも習得の取っ掛かりが掴めない以上、希望は薄いと比名子も察していた。
『虎杖は元の生活に戻れと言ってくれたが……無理な話だ。俺はもう、彼の目すら見れないのだから』
法を見限り、法に見限られた人間。弁護士という人の弱さに寄り添う道を選びながら、最後には人の醜さに目を閉じてしまった人間。
そんな半端者に成り下がった日車が、自らの罪に向き合い続ける虎杖を目を合わせられるはずがない。
だからこそ、こんな自分が日の下を再び歩くことなどできはしない。役割を全うして、死ぬしかない。
日車は――、
『――虎杖君の目を見れないの、私も分かります。だって、私もそうだから』
自嘲するような、慈しむような。そんな色を纏った声が、日車の前に滑り落ちる。
虚を突かれ、落としていた視線を思わず目の前の少女に向け――目に入った比名子の顔は、どこか悲しげな微笑に彩られていた。
『明るくて、朗らかで、けれど内面は繊細で、だから傷ついた人に優しく寄り添える。そんな在り方が、私にはどうしようもなく眩しく見えて』
『――――』
『その優しさはきっと、真夏の太陽みたいな肌を灼くようなものじゃない。降り積もった雪が日の光を照り返すみたいな、心をそっと包み込んでくれるような、そんな優しい眩さ』
だから比名子は、今も虎杖の目を見て話すことができない。
目の前で家族を喪った悲しさから、自分を大切に想ってくれるひとに自らを喰べることを強要し続けた罪深い自分。過去に甘え、他人を傷つけることすら承知で何もかもから逃げようとした自分。
自らの体を許可なく操った者が犯した罪すら抱え、そこから目を逸らさない虎杖。
思わず笑ってしまうほどに、二人は真逆の存在なのだから。
『……けれど、そんな私でも、今は何となく生きられる気がしてるんです』
誰かの説得が通じたとか、そんな感動的な理由ではない。第一、比名子の心は優しい説得が沁みるほど救いようがある物ではない。
比名子が今こうして、多少なりとも前を向けている気がするのは――断言してもいい。呪いの才があったからだ。
望んでも得られないほど大きな、この世界の頂点の一端に至ってしまえるほどの才覚に恵まれたこと。
その果てに黒閃を打った時、自身に訪れた全能感は、まさしく溺れるほどだった。
天上天下唯我独尊と、本気でそう感じてしまうほどの圧倒的な力への快楽は――比名子の精神を、少なからず上向きにした。
勿論その後に虎杖が寄り添ってくれたこと、髙羽の術式ありきとはいえ大笑いできたこと、それらだって大きい。
――それでも、比名子の心が軽くなったきっかけが、自らの呪いの力であったことに違いは無くて。
『――黒閃、打ってみるといいのかも』
『……黒閃を?』
『攻撃の威力が飛躍的に向上する面に目が行きがちですけど……あれを出した時、すごく元気になるんですよ。呪力の見え方も変わって、もしかしたら反転術式も使えるようになるかも』
聞くものが聞けば耳を疑うような案を、昼食の献立を決める軽さで比名子が口にする。
呪力と拳の激突のタイミングを百万分の一にするという条件を前提とした、狙っても決して出せない現象。
それを出してみろと言われても……そんな気軽にどうこう出来るものではないだろうと、日車は口を曲げる。
『――大丈夫だと思いますよ、日車さん』
先程とは打って変わって、ひどく楽観的な比名子の笑顔は、日車の目を見開かせる。
その見開いた日車の目には、比名子が何か、確信を持って提案しているように見えて――、
『――だって、日車さんの呪いの才能は、私と同じくらいあると思ってますから』
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「――う、おおおぉぉぉぉぉぉ――――!!」
――宿儺の斬撃、焼け焦げるような激痛にも怯まず、手首の飛んだ腕を勢いのまま突き出し、その腕の断面が宿儺の顔面に叩きつけられる。
瞬間飛び散ったのは、一つは当然夥しい血飛沫。
もう一つは――それを覆い隠してしまうほど、濃密な黒い稲妻。
日車と宿儺、肉体と肉体が接触したその刹那だけ、世界から音が消えたような感覚――黒閃の光が、戦場の空気を劈いた。
それは偶然だったのか、必然だったのか、日車にさえ分からない。
ただ一つ確かなのは――今この瞬間、宿儺の眼前に立っている男が、「処刑人の剣を持つだけの男」というだけではなくなったということだ。
――宿儺に叩き込んだ右手、それと反対の余った左手で、日車は吹き飛んだ手首を掴み取る。
それを絶たれた右腕に強引に押し付け――白い光がみるみるうちにそれらを繋ぎ合わせていく。
「――反転術式」
黒閃を出した者は、意識的に行う呪力の運用が呼吸の如く自然に廻る。
自分を中心に世界が回る全能感。それに身を任せ、術師は新たなステージに至る。
――それでも、ただ一度繰り出しただけで、呪いの核心たる反転術式に至るのは、どう考えても異質極まりない。
術師として覚醒して二か月弱。異常な成長速度。
手首を絶たれて術師から離れ、消えかけたはずの「処刑人の剣」は、再び煌々と光を放つ。
「――ケヒッ、クックックッ」
――五条悟に、八百歳比名子に並ぶほどの才能の原石に、宿儺は魅せられていた。