プロローグ
石を水に投げれば、波紋は同心円を描く。
しかし波紋は、投げた石のことを知らない。
クワ・トイネの沿岸で起きた接触の報告は、この世界の複数の方向へ、それぞれ異なる速度で広がっていった。
第一章 「ずいかく」艦上・対策室(転移から三日後・早朝)
視点:海江田 ひまり
天叢雲が送ってくる映像を、海江田は夜通し解析し続けた。
成層圏から見下ろす異世界の地形は、一日ごとに輪郭が鮮明になっていた。アルゴスが地形データを蓄積し、海岸線を引き、城壁都市の位置を記録し、街道と思われる道筋を推定する。それはゆっくりと、しかし確実に、「地図のない世界」に地図を描く作業だった。
三日間で、海江田はいくつかのことを把握していた。
日本の東方に広がる大陸。その沿岸に、少なくとも三つの国家と思われる勢力が存在する。それぞれ旗の意匠が異なる。最初の接触地点に現れたオルソン守備隊長の旗は、都市の上にも翻っており、国家の中心に近い組織だと推定できる。
問題は、丘の上で観察していた別の旗だ。
「アルゴス、接触当日に確認したロデニア旗章と、過去三日間の天叢雲映像に映った旗章の照合を完了しているか」
〔完了しています。南方約二百キロの城壁都市に同一旗章を確認。ロデニア王国の拠点と推定されます。また、東方の山岳地帯を越えた先に、別の旗章を持つ大規模な城塞都市が確認されています〕
「別の旗章というのは」
〔接触当日には確認されていない旗章です。規模と立地から、この地域で最大規模の勢力の可能性があります〕
海江田はデータを記録した。
それから、もう一つの情報に目を向けた。
接触当日の丘の上。ロデニアの旗を掲げた別動隊。あの人間たちは今どこにいるのか。
「接触地点から南方への街道上に、移動する集団を確認できるか」
〔確認できます。騎馬五騎が南方に向けて移動中。速度から推定すると、接触翌日に南方都市に到着する計算です〕
報告を持ち帰っている。
予想の範囲内だった。しかしロデニアが何を持ち帰り、何を本国に報告するかによって、次の展開が変わる。
海江田は報告書に書き加えた。「ロデニア王国への監視を継続。南方拠点への使者の到着後、当該都市の動向を重点的に監視すること」。
ドアが開いた。
深町が入ってきた。珍しく、書類を持っていた。
「一佐、周辺国の情報整理ができました」
「座ってください」
深町が椅子に座った。書類を広げる。手書きだった。
「俺なりにまとめたんですが」深町は言った。「天叢雲の映像と、オルソン守備隊長との会話で出てきた地名や国名を整理しました」
「続けてください」
「まずクワ・トイネ。オルソン殿が守備隊長を務めている国です。北方国境守備隊という役職名から、北に別の何かがあると読めます。規模は大きくなさそうですが、外交的には動ける組織を持っている」
「根拠は」
「オルソン殿が馬から降りた判断が速かった。自分の権限の範囲を正確に把握している人間の判断速度です。そういう人間を育てられる国は、組織として動ける」
海江田は少し考えた。現場人間の観察眼だと思った。アルゴスでは測れない種類の分析だ。
「続けてください」
「次にロデニア。接触当日に丘の上にいた連中の旗です。天叢雲の映像で、南方の城壁都市に同じ旗を確認できました。クワ・トイネの南隣、という位置関係です。動かなかったということは、敵対の意思はまだない。ただし動向を見ていたということは、関心はある」
「その通りです。先ほどの解析で、使者が南方に向かっているのを確認しました」
深町が頷いた。「やっぱり。それからもう一つ、東の山の向こうに大きな国がある。旗はまだ確認できていないですが、規模が大きい。オルソン殿の会話の中で一度だけ、不自然に言葉が止まった瞬間がありました。何かを言いかけて、やめた」
「気づいていましたか」
「はい。アルゴスに確認したら、該当箇所で音声の間が〇・七秒長かったと言われました」
海江田は端末を見た。自分も同じ箇所にフラグを立てていた。
「……深町三佐、あなたは情報将校に向いています」
「向いてないです」と深町は即座に言った。「計算が嫌いなんで。でも現場で人の顔を読むのは得意です」
「それが情報将校の基礎です」
深町が少し困った顔をした。
第二章 クワ・トイネ公国・王都クワ・タウン(転移から五日後)
視点:水無瀬 千鶴
クワ・タウンへの訪問は、五日目に実現した。
オルソン守備隊長からの返書が届いたのは転移から三日後。内容は簡潔だった。「公国主陛下が、日本国使節の王都訪問を歓迎する。五日後に参られたい」。
馬車での移動だった。
クワ・トイネの外交官が案内役として同行し、深町の先遣小隊が護衛についた。街道の両側に草原が広がり、農地が続いた。農民が作業の手を止めて、馬車を見た。
水無瀬は窓の外を見ながら、頭の中で整理を続けた。
今日の目標は三つ。第一に、公国主との関係構築。第二に、周辺国の情報収集。第三に、条約交渉の入口を開くこと。
欲張りすぎないことが肝心だ。一度に全部取ろうとした外交交渉が、いくつ失敗したか。水無瀬は数えたことがある。
王都は思ったより大きかった。
石造りの城壁が太陽を受けて白く光っている。城門をくぐると石畳の大通りが続き、両側に建物が並んでいた。人が多い。市場の賑わいがある。
城門をくぐった瞬間、大通りに人が集まり始めた。
日本人が来た。
その事実が、この街全体に伝わっているようだった。静かな凝視だ。子供が親の手を握りしめている。老人が手をひさしにして目を細めている。
先頭の馬車から朝倉の声が聞こえた。「写真撮っていいですか」。
護衛の一人が小声で確認を求めてきた。
「いいです」と水無瀬は答えた。「ただし艦隊の映像は控えるよう伝えてください」
第三章 クワ・タウン・首相府(同日・午後)
視点:水無瀬 千鶴
公国主アルワーニ二世との謁見は、短かった。
礼儀上の挨拶と、互いの状況確認。アルワーニは二十八歳で、玉座に座った姿は堂々としていたが、目の中に若さがあった。経験ではなく意志で補っている目だと、水無瀬は見た。
本題は謁見の翌時間、首相府の会議室だった。
カナタ首相が入ってきた。四十代前半。文官の服装だが、背筋が真っすぐで、目に迷いがない。
「水無瀬副長官補、率直に話しましょう」
カナタが席につくなり、そう言った。水無瀬はこの人を評価した。外交辞令を重ねる人間ではない。
「ぜひ」
「日本は、我が国に何を求めますか」
水無瀬は答えを一拍だけ吟味した。
「三つあります。第一に、平和。争いたくありません。第二に、情報。この世界の構造を、我々はまだ何も知らない。第三に、互恵です。一方的に与えることも、奪うことも望んでいません」
「互恵の具体的な内容は」
「我々には技術があります。農業、医療、建設、輸送。提供できるものは多い。見返りに、貴国が持つものをいただきたい。農産物、あるいはこの世界の知識」
カナタが少し間を置いた。
「一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「日本は、安全保障の協力を考えていますか」
水無瀬は顔を変えなかった。しかし頭の中で、その問いの重みを量った。
カナタは遠回しに言っていない。「パーパルディアから守ってほしい」という意味だ。
「現時点では、軍事同盟の約束をする立場にありません。ただ」
「ただ」
「情報の共有はできます。周辺の動向を把握し、貴国に提供することは可能です。それが抑止力になるかどうかは、使い方次第です」
カナタが頷いた。不満ではなさそうだった。
「水無瀬副長官補、あなたは正直な方だ」
「嘘は長続きしません」
「同感です」カナタは少し笑った。「では、条約の草案を作る作業に入りましょう。今日一日かけて」
第四章 クワ・タウン・会議室(同日・午後〜夕刻)
視点:水無瀬 千鶴
交渉は四時間かかった。
倉田とアルゴスが翻訳を担い、言葉のズレをその都度補正しながら進んだ。アルゴスが「意味不確定」とフラグを立てた語彙が二時間で十四箇所。そのたびに確認を取り、言い換え、記録した。
仮決定した条約の内容は三点だ。
**第一条:友好・不可侵。**両国は互いを敵対国と見なさない。領域への侵犯を行わない。
**第二条:情報共有の枠組み設置。**両国が把握した周辺情勢を、定期的に交換する。
**第三条:経済・技術協力の継続協議。**農業技術、医療技術、建設技術の共有を協議する。食料の安定供給について交渉する。
軍事同盟は含まない。
「第三条の「建設技術」とは、具体的に何を指しますか」とカナタが聞いた。
「港湾施設の整備から始めたいと考えています」と水無瀬は答えた。「我々の艦船が接岸できる港が、現時点では存在しません。整備すれば物資の往来が容易になり、双方に利益があります」
「その費用は」
「日本が負担します。先行投資です」
カナタが眉を上げた。
「……先行投資、ですか。我が国への信頼の証として?」
「そうです」
「もし関係が悪化した場合は」
「リスクは日本が負います。それが「先行投資」の意味です」
カナタが書記官と小声で話した。それから水無瀬を見た。
「医療の支援も含めていただけますか。我が国の南部に、治癒魔法では対処できない感染症が広がっています」
水無瀬は深町を見た。深町が頷いた。「沖がいます」と小声で言った。
「医療チームの派遣を、優先事項として検討します」と水無瀬は答えた。
カナタが、初めて表情を緩めた。
交渉が終わったのは夕方だった。条約は「仮決定」の段階だ。署名は次回の正式会合で行う。
会議室を出た廊下で、水無瀬はイヤホンに向かって言った。
「海江田一佐、条約の仮決定が成立しました。内容を送ります」
「受信しました」と海江田の声が返ってきた。「一点確認です。クイラについては」
「これから話します」
第五章 クワ・タウン・カナタ首相室(同日・夕刻)
視点:水無瀬 千鶴
条約交渉が終わった後、水無瀬はカナタに時間を求めた。
「もう一つ、お話ししたいことがあります」
「どうぞ」とカナタは言った。
「クイラ王国について、お聞きしたいことがあります」
カナタの表情が、かすかに変わった。警戒ではない。むしろ、予期していたような顔だった。
「……どこで聞きましたか」
「天叢雲の映像解析で、東方に大規模な国家の存在を確認しました。旗章の詳細はまだですが、規模から見てこの地域の重要国家と判断しています」
「資源大国です」とカナタは言った。「鉄鉱石、魔石、希少な鉱物。クイラが持つ資源は、この地域で随一です」
「日本にとっても、関心のある国です」
「わかっています」カナタは少し間を置いた。「我が国を通じて接触を図りたい、ということですか」
「お願いできますか」
カナタが考え込んだ。
「クイラは慎重な国です。急に接触すれば、警戒されます。我が国が保証人になれれば、話が早くなるかもしれない」
「それを期待しています」
「ただし」カナタが続けた。「一つ、知っておいてほしいことがあります」
「何ですか」
「ロウリアのことです」
水無瀬は表情を変えなかった。しかし頭の中で、その名前を重要事項に分類した。
「聞かせてください」
「ロウリア王国はクイラの西に隣接しています。亜人の廃絶を国是とする国です。クイラは南部に亜人の集落を多く抱えており、長年ロウリアからの圧力を受けています」
「その圧力は、今も続いていますか」
「最近、強まっています」カナタの声が低くなった。「日本が来てから、急いでいるように見える」
水無瀬はその言葉の意味を考えた。
日本が来たことで、ロウリアが急いでいる。
「急いでいる、というのは」
「クイラと日本が組む前に、何かをしようとしているのかもしれません。正確なことはわかりませんが」
水無瀬はイヤホンに向かって、極めて小声で言った。
「海江田一佐、聞いていますか」
「聞いています」と即座に返ってきた。「ロウリア王国。把握しました。天叢雲の監視範囲を拡大します」
第六章 「ずいかく」艦上(同日・夜)
視点:海江田 ひまり
カナタ首相との会話の内容を整理しながら、海江田はアルゴスに命令を送り続けた。
「天叢雲の光学センサーを西方に向ける。クイラ王国と推定される地域の西側、ロウリア王国の可能性がある地域を優先的に」
〔了解。ただし天叢雲の監視範囲は限定的です。全方位の同時監視は困難です〕
「クイラを優先。その西側境界を次点で」
〔了解しました〕
海江田は報告書の作成と並行して、アルゴスの解析結果が積み上がっていくのを見た。
接触当日の映像。丘の上のロデニア別動隊の旗章。それと、その日以降に天叢雲が捉えた旗章の一覧。
照合が完了した。
〔接触当日に確認されたロデニア王国の旗章と、南方都市の旗章が一致しました。一致率九十七パーセント。同一国家の旗章と断定できます〕
〔また、新たに西方の城塞都市群に異なる旗章を確認しました。接触当日の映像と照合したところ──〕
海江田は画面を見た。
〔接触当日に丘の上に存在したロデニア別動隊の背後、より遠方に、一瞬だけ映り込んでいた旗章と、西方城塞都市群の旗章が部分的に一致します。一致率六十八パーセント。同一国家の可能性があります〕
六十八パーセント。断定はできない。しかし無視できる数字でもない。
「その西方城塞都市群の規模は」
〔確認できる城壁の長さから推定して、クワ・タウンの三倍以上の規模です。後背地に農地と思われる区画が広大に広がっています〕
三倍以上。
カナタが「亜人廃絶を国是とする」と言った国の規模が、クワ・タウンの三倍だ。
海江田は水無瀬への通信を送った。
「水無瀬副長官補。接触当日の映像を再解析しました。ロデニア別動隊の背後に一瞬映り込んでいた旗章が、西方の大規模城塞都市の旗章と一致する可能性があります。一致率六十八パーセント。カナタ首相に確認を取れますか」
少し間があってから、水無瀬の声が返ってきた。
「確認しました。ロウリア王国の旗章で間違いないそうです。接触当日、ロデニアの後ろにもいた、ということですね」
「はい。ロデニアの観察者と、ロウリアの観察者が、同時にあの沿岸を見ていた可能性があります」
「……それは」水無瀬の声が少し変わった。「両方に、最初から情報が渡っているということですか」
「速度の差はあるかもしれませんが、方向は同じです」
沈黙があった。
「わかりました。一佐、ロウリアの動向を最優先で監視してください」
「既に開始しています」
第七章 クワ・タウン(翌日・朝)
視点:朝倉 灯
朝の市場を歩きながら、灯は今日も手帳を開いていた。
昨日の王都訪問の記録を整理しながら、市場の声に耳を傾ける。これが灯のやり方だ。会議室の言葉より、市場の言葉の方が、本当のことを教えてくれることがある。
パンを売る老人が、隣の店主に言っていた。「日本の人間が来たそうだ。どんな連中だ」「さあ、騎士団長が出迎えに行ったから、よほどの客らしい」「怖い顔してるか」「聞いた話じゃ、普通の顔らしい」。
布を売る女性が、灯を見て声をかけてきた。倉田が翻訳した。「あなた日本人?」「そうです」「どこから来たの」「遠いところです」「船で来たの」「はい」「船に乗ったことない。どんな感じ」。
灯はしばらく女性と話した。倉田が笑いながら翻訳し続けた。
市場を半周したところで、深町が来た。
「朝倉さん、一緒に歩いていいですか」
「どうぞ」
二人で市場を歩いた。深町は灯とは反対の方向を見ながら歩いていた。人の動き、路地の配置、出入口の位置を確認している。
「護衛ですか」と灯は聞いた。
「習慣です」と深町は言った。「現場に出たら自然とそうなる」
「三佐は、この状況をどう見ていますか。軍人として」
深町が少し考えた。
「まだわかることの方が少ないです。ただ」
「ただ」
「ロデニアとロウリアが両方、最初の接触を見ていた。それは気になります」
「なぜ気になるんですか」
「興味を持っているのか、警戒しているのか、どちらかによって次の動きが全然違う。そこがまだ読めない」
灯は手帳に書いた。
市場の端まで来た時、子供が二人、深町に近づいてきた。深町の装備品を指さして、何か言っている。
深町がしゃがんだ。子供と目線を合わせた。倉田がいないから言葉は半分しか通じないが、深町は笑顔で何か答えた。子供が笑った。
灯はシャッターを切った。
後で聞いたら、深町は「重い」と言ったらしい。装備品が重い、という意味で。子供はそれを聞いて「持てる?」と言って、深町の腕に手を置いた。
それだけの会話だった。でもそれだけで、子供は満足して走り去った。
第八章 クワ・タウン・カナタ首相室(同日・午前)
視点:水無瀬 千鶴
「クイラへの仲介をお願いしたいと思います」
水無瀬が切り出すと、カナタは少し間を置いてから頷いた。
「承知しました。ただし、急かさないでください。クイラは判断が慎重な国です」
「わかっています。まず我が国の存在を知らせることから始めてください」
「それはできます。ちょうど、クイラとの定期的な外交連絡があります。その場で伝えましょう」
「ありがとうございます」水無瀬は続けた。「カナタ首相、もう一つ確認させてください」
「ロウリアのことですか」
「はい。我々の解析で、接触当日の沿岸にロウリアの旗章が確認されました。ロデニアの後ろに、もう一組いた可能性があります」
カナタが眉をひそめた。
「……それは、初耳です。ロデニアだけかと思っていました」
「我々の画像解析の精度では確定できませんが、可能性として把握しておく必要があります」
「ロウリアがなぜそこに」カナタが独り言のように言った。「彼らの国境は、あの沿岸からずっと西です。わざわざ来るとしたら……」
「日本に関心がある、あるいは、クワ・トイネと日本の接触を監視したかった」
「どちらにせよ、いい話ではありませんね」
「はい」水無瀬は続けた。「カナタ首相、ロウリアの国境付近の現状を教えていただけますか。最近の動向で、変化はありますか」
カナタがしばらく考えた後、言った。
「増えています」
「兵力が」
「はい。国境の向こうで、ここ二週間で兵の動きが多くなっています。我が国の国境守備隊からの報告です」
「二週間前というのは」
「日本が来る前から、少しずつ。日本が来てから、明らかに速くなっています」
水無瀬は海江田の言葉を思い出した。「日本が来てから、急いでいる」。
カナタも同じことを感じていた。
「カナタ首相、一点だけ率直に聞かせてください」
「どうぞ」
「ロウリアが圧力をかけているのは、思想的な理由だけだと思いますか」
カナタが水無瀬を見た。
「……どういう意味ですか」
「亜人の廃絶を掲げている。しかし本当の目的が別にある可能性はないですか。例えば、土地や資源の確保」
カナタが少し黙った。
「……クイラの南部に、鉄鉱石の鉱脈があります。未開発のものが。ロウリアが以前から関心を持っていたという話は、聞いたことがあります」
水無瀬は手帳にメモを取った。
「わかりました。引き続き情報の共有をお願いします」
第九章 「ずいかく」艦上(同日・夜)
視点:海江田 ひまり
報告書を整理しながら、海江田は今日得た情報を頭の中で体系化した。
把握できたこと。
クワ・トイネ:友好的。条約仮決定。カナタ首相は信頼できる人間と判断できる。クイラへの仲介を依頼済み。
クイラ:資源大国。日本にとって戦略的に重要。接触はこれから。
ロデニア:南隣の国。観察者を送り込んでいた。動向は不明。敵対の意思はまだ確認できない。
ロウリア:西方の大国。亜人廃絶を国是とする。接触当日に観察者がいた可能性。日本来訪後に国境での動きが活発化。クイラ南部の鉱脈に関心を持つ可能性。
最後の項目が問題だった。
ロウリアが急いでいる。理由は何か。日本とクイラが組む前に動きたい、という解釈が最も自然だ。しかし何を「動く」とするのか。
「アルゴス、ロウリア国境付近の最新映像を確認しろ。天叢雲の角度を調整して、できる限り詳細を」
〔調整中です〕
画面に映像が流れた。
山岳地帯の向こう、広大な平原に城塞都市が見える。そして──
〔城塞都市の東側に、野営と思われる集団を確認しました。規模は推定で歩兵一千から二千、騎馬数百〕
海江田は数字を見た。
演習か。それとも展開か。
「補給部隊の有無を確認しろ」
〔後方に輜重と思われる集団があります。規模から推定して、短期の野営ではなく長期展開の準備と見ることができます〕
長期展開。
海江田はすぐに水無瀬への通信を送った。
「水無瀬副長官補。ロウリア国境東側に、推定一千から二千の歩兵と騎馬が長期展開していることを確認しました。現時点では国境を越えていませんが、動向を継続監視します」
少し間があってから返事が来た。
「……わかりました。カナタ首相に、この情報を共有します。我々が情報を持っている、ということを示す意味も含めて」
「それは有効だと思います」
「一佐、もう一つ」
「はい」
「深町三佐に明日の準備を伝えてください。クイラへの仲介が動き始めた場合、いつでも動けるようにしておいてほしい」
「了解しました」
通信が切れた。
海江田はアルゴスのモニターを見た。
複数のデータが同時に更新されていく。ロウリアの兵力。ロデニアの使者の動向。クイラの方角に動く影。天叢雲が送り続ける映像。
根を張る時間と、嵐が近づく時間が、同じ速度で進んでいた。
エピローグ 「あさひ」艦上(深夜)
視点:深町 はやと
甲板に出て海を見ていると、三島曹長が来た。
「隊長、眠れないんですか」
「考えごとをしてた」
「何を」
「ロウリアのことです」と深町は言った。「亜人を廃絶しようとしている国が、俺たちが来てから動きを速めた」
「因果関係がある、ということですか」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも」
深町は海を見た。
「クイラの南部に亜人の集落がある。その近くに鉱脈がある。ロウリアはその両方に関心があるかもしれない。俺たちが来て、急かされている」
「つまり」
「俺たちが来たことで、どこかの誰かが追い詰められているかもしれない、ということです」
三島が少し黙った。
「それは、俺たちのせいですか」
「違う」と深町は即座に言った。「俺たちが来たのは意図してのことじゃない。でも、俺たちがいることで動く人間がいる。それは事実として受け止めないといけない」
「……難しいですね」
「ああ」深町は月を見た。「だから、動ける準備をしておかないといけない。何かが起きてから考えてたら遅い」
三島が頷いた。
「隊長、一つ聞いていいですか」
「何だ」
「海江田一佐は、今夜も眠らないと思いますか」
深町は少し笑った。
「眠らないと思う。あの人は深海で暮らしてきた人だから、暗いところで働くのが得意なんだと思う」
「俺たちは」
「俺たちは昼間に動く人間だ」深町は言った。「だから今は寝ろ。明日動くために」
三島が敬礼して戻っていった。
深町はもう少し甲板に残った。
月が二つある空の下で、この世界の夜が深まっていった。
【第三話・了】