三ヶ月目の朝だった。
いつものように訓練場に向かおうとしたら、拠点の入り口でトルニオが待っていた。腕を組んで、壁にもたれている。朝の光がトルニオの横顔に影を落としていて、表情が読めない。
「フェズ」
名前を呼ばれた。トルニオが俺の名前を呼ぶのは珍しい。大抵は「来い」か「やれ」で始まる。
「・・・なに?」
「もういい」
一瞬、意味が分からなかった。
もういい。その二文字が頭の中で反響している。もういい。お前は終わりだ。もういい。出ていけ。もういい——
「見捨てるってこと・・・ですか」
声が震えた。自分でも情けないと思ったけれど、止められなかった。三ヶ月間、毎日殴られて蹴られて地面に叩きつけられて、それでも食らいついてきた。まだ足りなかったのか。まだ弱いのか。分かってる、分かってるけど——
「勘違いするな」
トルニオが壁から背を離した。腕を組んだまま、俺を真っ直ぐ見ている。
「基礎は終わったと言っている。お前に教えることはもうない」
「・・・え」
「これ以上ここにいても伸びない。お前の戦い方は型にはめるものじゃない。頭で場所を読んで、一瞬の隙を作る。そんなものは俺が教えられる範囲を超えている」
トルニオが腕を解いた。ごつい手が膝の上に落ちる。
「実戦でしか磨けないものがある。祠を巡れ。巡る中で強くなれ」
巡祠者として旅に出ろ、と言っている。
分かっていた。いつかこの日が来ることは。でも、いざ言われると胸の奥が妙に冷たい。まだ弱い。ラリサには二十回やって一回しか当てられなかった。カルンとの共鳴だって、あの旋律を再現できていない。衝撃波はまだ拡散する。
「トルニオ・・・俺、まだ全然——」
「弱いのは分かっている」
遮られた。
「だが座っていて強くなれるか」
「・・・」
返す言葉がなかった。
トルニオは俺の目を見ていた。三ヶ月前、初めてこの拠点に来た日と同じ目だ。値踏みするような、でも突き放すわけじゃない、妙に重い視線。
「最初は水の祠だ。水の大精霊が待っている。そこから始めろ」
「水の祠・・・」
「俺の祠は最後にしろ。今のお前が来ても門前払いだ」
トルニオがそう言って背を向けた。拠点の中に戻ろうとしている。
「トルニオ」
呼び止めた。何を言うべきか分からなかった。ありがとう、とか。もう少しだけ、とか。色んな言葉が喉の奥でぶつかり合って、結局何も出てこない。
トルニオが立ち止まった。振り返らない。
「死ぬなよ」
背中だけで言った。
そのまま拠点の中に消えた。戸が閉まる音がやけに大きく聞こえた。
カルンが俺の肩の上で身じろぎした。光がゆっくり揺れている。不安そうだ。俺の気持ちが伝わっているのかもしれない。
「・・・大丈夫。大丈夫だよ、カルン」
自分に言い聞かせているのか、カルンに言っているのか分からなかった。
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拠点の食堂に戻ると、ラリサがいた。
朝食の干し肉をかじりながら、こっちを見ている。嵐の精霊が肩の上でうとうとしていて、小さな風が食卓の上の皿をかたかた揺らしていた。
「フェズさん、師匠に言われましたか?」
「・・・知ってたの?」
「昨日の夜、師匠と話しました。フェズさんの基礎は十分だって。あとは実戦で磨くしかないって」
ラリサが干し肉を噛み切って、真剣な顔で俺を見た。いつもの元気な声じゃない。
「正直に言います。フェズさん、まだ弱いです」
「・・・うん。分かってる」
「でも弱いからって、ここにいてもしょうがないんですよね。師匠の言う通り、フェズさんの戦い方は型稽古じゃ伸びないです。あの地形を読む力とか、一瞬で判断する力とか、実戦でしか鍛えられないものです」
ラリサが椅子から立ち上がった。ばん、とテーブルに手をついた。嵐の精霊がびくっと目を覚ました。
「というわけで、最初の祠まで私が一緒に行きます!」
「・・・え?」
「フェズさん一人で旅に出すの、心配じゃないですか! まだ巡祠者の旅がどういうものか知らないでしょう? 道中の野営の仕方とか、精霊の出やすい場所の避け方とか、街での情報の集め方とか! 最初の祠まで私が教えますから!」
ラリサが目を輝かせている。心配しているというよりは、楽しそうだった。
「ラリサ・・・それ、本当に心配してるだけ?」
「もちろん心配してますよ! ・・・あと、ちょっとだけ旅がしたいです。師匠の手伝いばっかりで最近ぜんぜん遠出してなかったので」
正直に言った。ラリサらしい。
「でもラリサ、トルニオは・・・」
「師匠には許可もらってます! って言うか、師匠が反対しなかったから許可もらったのと同じです! 師匠って反対する時は最初の三文字で止めますから」
確かに、と思った。トルニオが「やめ——」と言い出したら、その先は聞く必要がない。止めなかったということは認めたということだ。
「水の祠まで、どれぐらいかかるの?」
「ここから北西に行った先にある水紋の谷ってところです。歩いて十日ぐらいですかね。道中に小さな街がいくつかあるから、野宿ばっかりにはならないと思います」
ラリサが食卓の上に地図を広げた。トルニオの書斎から持ってきたらしい。大陸の一部が描かれていて、グラーヴェ市が南東の端にある。
「水の祠は五つの祠の中で一番穏やかな試練だって言われてます。最初に挑むならここがいいって師匠も言ってました」
ラリサの指がグラーヴェ市から北西に線を引いた。
「で、師匠の祠——火の祠はグラーヴェにあるんですけど、これは最後にしましょう」
「・・・トルニオにも言われた。今行っても門前払いだって」
「ですです。師匠の祠は五つの中で一番厳しいって噂ですから。全部の祠を回ってから最後に挑むのが巡祠者の定番ルートです」
ラリサの指が地図の上を滑った。街道を辿って、ふと止まる。
「・・・この辺の道、英雄戦争の頃にだいぶ荒れたらしくて。七年経ってもまだ整備が追いついてない場所があるみたいです」
「英雄戦争・・・」
聞いたことはある。七年前に大陸を巻き込んだ大きな戦争。でもリトルネッロ村にいた俺にとっては、遠い世界の話だった。
「フェズさん、あんまり知らないですか?」
「名前ぐらいしか」
「ですよね、辺境の村だと実感ないかもですね。まあ、今は関係ないです。道が悪いかもってだけの話なので」
ラリサがあっさり話を切り上げて、地図を畳んだ。
「出発はいつにしますか?」
「・・・明日の朝」
言ってから、自分でも驚いた。迷わなかった。もう迷う理由がなかった。
トルニオが卒業だと言った。ラリサが一緒に来ると言った。最初の祠は決まっている。なら、早い方がいい。座っていても強くなれないのは分かっている。
カルンが俺の肩の上でぴょんと跳ねた。光がぱっと明るくなった。賛成している。
「いいですね! じゃあ今日中に荷物まとめましょう! 私、街で食料買い足してきます! フェズさんは装備の確認しておいてください!」
ラリサがもう走り出している。食堂の戸をばたんと開けて、嵐の精霊を引き連れて飛び出していった。
嵐みたいな人だ。いつも通りだけど。
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その日の夕方、荷物をまとめ終わった。
トルニオの拠点で過ごした三ヶ月分の荷物は大したものじゃなかった。剣。替えの服。水筒。火打ち石。ラリサが街で買ってきた干し肉と堅パン。あと、トルニオが黙って渡してきた革の腕当て。
「使え」
それだけ言って去っていった。新品じゃない。使い込まれた革の表面に細かい傷がある。トルニオが昔使っていたものかもしれない。
・・・不器用な人だ。
カルンが腕当ての上にちょこんと座った。革の匂いを嗅いでいる。気に入ったらしい。光がほんのり温かい。
「カルン、明日から旅だよ」
カルンが顔を上げた。小さな瞳が俺を見ている。
「水の祠を目指す。そこで大精霊に認めてもらう。認めてもらえなかったら・・・また考える」
カルンが首を傾げた。それから、小さく頷いた。
「・・・怖い?」
カルンが少し考えてから、ふるふると首を振った。怖くない。
嘘だ、と思った。カルンは外の世界が怖いはずだ。精霊ハンターに追われ続けた記憶がある。でもカルンは首を振った。怖くない、と。
俺が一緒だから、なのかもしれない。
だったら、その信頼を裏切るわけにはいかない。
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翌朝。
空が白み始めた頃に目が覚めた。カルンは俺の枕元で丸くなっていて、光が静かに明滅している。寝息みたいな光だ。
起き上がって、荷物を背負った。剣を腰に差した。カルンが目を覚まして、ふわりと浮き上がった。
「おはよう、カルン」
カルンが小さく頷いて、俺の肩に降りてきた。いつもの場所。俺の右肩の上。この三ヶ月で定位置になった場所だ。
食堂に行くと、ラリサがもう準備を終えていた。背中の荷物がパンパンに膨らんでいる。嵐の精霊が荷物の上に乗って、さっそく風で遊んでいる。
「フェズさん、おはようございます! 準備万端です!」
「・・・ラリサ、荷物多くない?」
「必要なものしか入れてませんよ! あとちょっとだけお菓子も入れました! 旅にはおやつが大事です!」
ちょっとじゃなさそうだった。でも何も言わなかった。
拠点の入り口に向かった。
朝の冷たい空気が肌に当たる。グラーヴェの街並みが遠くに見える。石造りの建物が朝日を受けて白く光っていた。三ヶ月間、毎朝見ていた景色だ。明日からはもう見られない。
一歩、踏み出した。
——足が止まった。
振り返った。
拠点の戸口に、トルニオが立っていた。
壁にもたれて、腕を組んでいる。昨日の朝と同じ姿勢だ。いつからそこにいたのか分からない。見送りに来た、とは絶対に言わない人だ。たまたま戸口にいただけだ、という顔をしている。
でも目が合った。
トルニオが小さく顎を引いた。
頷き。
たったそれだけ。言葉はない。でもそれがトルニオの精一杯だと分かった。三ヶ月間ずっと見てきたから。この人は言葉じゃなくて態度で示す人だ。叩きのめしながら毎日メニューを出し続けたのが期待の証だったように、戸口に立って見送っているのが——
「・・・行ってきます」
声が少しだけ掠れた。
トルニオは何も言わなかった。腕を組んだまま、こっちを見ている。
それでいい。この人はそういう人だ。
「フェズさん、行きましょう!」
ラリサが先を歩き始めた。嵐の精霊が朝の空気をかき回して小さな旋風を作っている。ラリサの髪がばさばさ揺れていた。
カルンが俺の肩の上で前を向いた。
光が安定している。不安も興奮もない、穏やかな光。三ヶ月前にはなかった光だ。あの頃のカルンは俺の外套の中に隠れていて、光はいつもちかちかと怯えていた。
今は違う。肩の上にちょこんと座って、まっすぐ前を見ている。俺と一緒に旅をする覚悟を決めている。そんな光だった。
歩き出した。
ラリサの隣を歩く。グラーヴェの街を抜ける。石畳が土の道に変わる。見慣れた景色が少しずつ後ろに流れていく。
知らない道に入った。
右も左も分からない。この先に何があるか知らない。でも足は止まらなかった。
俺はまだ弱い。祠の大精霊に認めてもらえるかも分からない。カルンとの共鳴だって、まだ満足に使えない。あの旋律の再現すらできていない。
でも座って強くなれないことは、もう分かっている。
「フェズさん、水紋の谷まではこの街道を北に進みます! 三日目に分岐があるんですけど、そこを左に——あ、でもその前に途中の宿場町で美味しいパン屋があるって聞いたんですよ! 寄っていきませんか?」
「・・・まだ出発して十分ぐらいなんだけど」
「いいじゃないですか! 旅は計画が大事です!」
ラリサの声が朝の空気に響いている。カルンが肩の上でラリサの方を見て、光をちかちかさせた。楽しそうだ。
巡祠者フェズの旅が始まる。
最初の祠印が待つ、水紋の谷へ——。