グラーヴェを出て三日目の朝だった。
目を覚ますと、空が近かった。昨日まで石壁に囲まれた宿の天井ばかり見ていたせいか、布一枚越しの空がやけに広く感じる。
「フェズさん、朝ですよ! もう日が昇ってます!」
ラリサの声が頭の上から降ってきた。テントの外で何かをがさがさやっている音がする。嵐の精霊が朝の空気をかき回しているらしく、テントの布がばたばた揺れていた。
カルンが俺の胸の上で丸くなっていた。光がゆっくりと明滅している。まだ寝ぼけているらしい。
「・・・カルン、起きて」
小さく揺すると、カルンがふわりと浮き上がった。寝起きの光がぼんやり揺れている。俺の肩にちょこんと降りてきて、目をこしこし擦る仕草をした。精霊に目蓋はないはずなのに、こういう妙に人間っぽい動作をたまにする。
テントを出ると、ラリサがもう火を起こしていた。小さな焚き火の上に鍋がかかっている。干し肉を煮込んだ汁の匂いがした。
「フェズさん、ご飯できてますよ」
「・・・ありがとう。ラリサ、いつも早いな」
「巡祠者の朝は早いものです! 師匠にそう叩き込まれましたから!」
ラリサが得意げに胸を張った。嵐の精霊が肩の上でくるくる回っている。
三日前、グラーヴェの石畳を抜けて土の道に入った時は、ただまっすぐ北西に伸びる街道が続いているだけだった。乾いた平地に背の低い草が生えていて、風が砂埃を運んでくる。それが歩くにつれて少しずつ変わってきた。
今朝の景色は、昨日までとは別物だった。
街道の左手に川が見えている。幅は三間ほど。澄んだ水が岩の間を縫うように流れていて、川沿いの土地には緑が多い。木の背が高くなって、日陰が増えた。朝の光が木の葉を透かして地面にまだらの模様を作っている。
「風景が変わってきたね」
「ですね! ここから先は川沿いの道がしばらく続きます。水紋の谷に近づくほど水が多くなるんですよ。精霊も増えてきます」
ラリサが地図を広げながら言った。指で今いる場所を示している。グラーヴェ市から伸びた街道の、だいたい三分の一ぐらいのところ。
「あと七日ぐらいですかね。途中にカンティレっていう宿場町があるんで、そこで補給しましょう」
「カンティレ・・・」
「小さい町ですけど、巡祠者がよく通るんで情報も集まるらしいですよ!」
朝食を済ませてテントを畳んだ。ラリサが荷造りの手際を見せてくれる。
「こうやって角を合わせて・・・こう、ぐわっと巻くんです!」
「ぐわっと・・・?」
「こう、ばーっと広げてからぎゅっとやるんです! 分かりません?」
「全然分からない」
ラリサが首を傾げた。本気で分からないという顔をしている。天才肌の人の説明はいつもこうだ。本人の中では完璧に筋が通っているのに、言葉にすると擬音ばかりになる。
「・・・やってみせて」
「もう! だから今やってるじゃないですか! ほら、見ててください、こう——」
ラリサが手を動かす。確かに手際はいい。でも何をどうしているのかが速すぎて追えない。
カルンが俺の肩の上でラリサの手元をじっと見ていた。光がちかちかしている。面白がっているのか、呆れているのか。
「カルン、お前は分かった?」
カルンがふるふると首を振った。分からないらしい。
「ちょっと! カルンまで!」
ラリサが頬を膨らませた。嵐の精霊が同情するように主人の頭を撫でている。
結局、テントの畳み方は三回やり直して何とか覚えた。
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街道を歩きながら、ラリサが色々なことを教えてくれた。
「野営地を選ぶ時は、まず水場が近いこと。でも川のすぐそばはだめですよ。増水したら流されますから。次に、風を遮るものがあること。岩とか、大きな木とか。あと、精霊が群れやすい場所からは離れること」
「精霊が群れやすい場所って、どうやって見分けるの?」
「空気が・・・こう、ぴりっとするんです。分かります?」
「分からない」
「えーっと・・・カルンに聞いてみてください。精霊の方が精霊の気配には敏感ですから」
カルンが俺の肩の上でこくりと頷いた。確かに、カルンは時々ふいに身を固くすることがある。あれは周囲の精霊の気配を感じ取っているのかもしれない。
「あ、それと。火の起こし方なんですけど——」
「・・・それは、もう大丈夫」
「本当ですか? 初日、フェズさん全然火つけられなかったじゃないですか」
痛いところを突かれた。グラーヴェを出た初日の夜、火打ち石を三十分叩いても火花すら散らなかった。ラリサが見かねて嵐の精霊に風を送らせてようやく火がついた。
「カルンが申し訳なさそうにしてましたよね。あの子、火の精霊じゃないから手伝えないって」
カルンが俺の肩の上で小さくなった。光が少ししゅんと暗くなる。あの時、本当に申し訳なさそうに光を揺らしていた。音楽の精霊に火起こしは頼めない。
「カルン、気にしなくていいよ。火は自分でつけられるようになったから」
カルンが顔を上げた。本当に? という顔をしている。
「・・・多分」
カルンの光がまた少し暗くなった。
「フェズさん、自信持ってください! 昨日はちゃんとつけられたじゃないですか!」
「あれは三十回ぐらい叩いてようやく——」
「つけられたならいいんです!」
ラリサの理屈はいつも大雑把だ。でも、不思議と励まされる。
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昼を過ぎた頃、街道脇の森が少し深くなった。
木々の幹が太くなり、枝が空を覆うように伸びている。陽の光が減って、空気がひんやりとしてきた。川の音が近い。水が岩を叩く音が、規則正しく響いている。
ラリサの足が止まった。
「ラリサ?」
ラリサが街道の脇を見ている。森に入ったすぐのところ、太い木の幹に——黒い染みが広がっていた。
樹皮の上を這うように、黒い斑点が散らばっている。中心に近づくほど色が濃くなって、樹皮がひび割れている。触ったら崩れそうだった。周囲の草も一部が枯れていて、地面に黒い粉のようなものが落ちている。
「これ、黒斑病の痕跡です」
ラリサの声が、少しだけ低くなった。
「・・・前もこういうの見たよね。トルニオのところにいた時に」
「ええ。グラーヴェの近くでも何回か見ました。でもこんなに頻繁には・・・」
ラリサが黒い染みに手を伸ばしかけて、止めた。触ってはいけないものだと分かっているようだった。
「ここまで来て増えてるんだ」
「・・・ですね」
ラリサの表情が曇った。いつもの明るさが少し引っ込んでいる。何か考え込んでいる。
俺が何か聞こうとした時、ラリサが顔を上げた。切り替えるような笑顔だった。
「先に進みましょう! カンティレまであと半日ぐらいです!」
歩き出した。ラリサの背中を追いかける。
何か引っかかった。ラリサが黒い染みを見た時の目。あれは「初めて見た」という目じゃなかった。もっと深い・・・何かを知っていて、何かを考えている目だった。
でも聞けなかった。ラリサが切り替えた以上、今の俺に踏み込む余裕はない。目の前の旅のことで精一杯だ。
カルンが俺の肩から離れて、ふわりと黒い染みの方に戻っていった。染みの前で止まって、じっと見ている。小さな光が不安定に揺れていた。ちかちか、ちかちか。いつもの好奇心とは違う揺れ方だ。何かを感じ取っているのだと思った。
「カルン、行くよ」
呼ぶと、カルンが振り向いた。一瞬だけ、光が暗く沈んだ。それからすぐに俺の肩に戻ってきた。
何も聞かなかった。カルンが何を感じたのか、ラリサが何を考えているのか。今は歩くことだけを考えよう。
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夕方、宿場町カンティレに着いた。
小さな町だった。石造りの建物が街道沿いに並んでいて、中央に広場がある。広場には市場が出ていて、旅商人が荷を広げている。干し肉、布、革の道具、薬草。巡祠者らしき剣を帯びた旅人もちらほら見えた。
「カンティレです! 思ったより活気ありますね!」
ラリサが目を輝かせた。旅の途中で街に入ると、ラリサはいつもこうだ。
宿を探した。街道沿いの石造りの宿屋に部屋が空いていた。一階が食堂になっていて、旅人が何人か夕食を取っている。
ラリサが宿の主人に話しかけた。情報収集はラリサの方が圧倒的にうまい。
「すみません、水紋の谷に向かってるんですけど、ここから先の道はどうですか?」
宿の主人は太い腕を組んだ中年の男で、人当たりのいい顔をしていた。
「谷ね。道自体は問題ないよ。ただ最近、谷の手前で暴れる精霊が出るって話を聞くね。気をつけな」
「暴れる精霊・・・黒斑病ですか?」
「さあ、詳しいことは分からん。ただ、あんたらみたいな巡祠者が何人か通ってったけど、みんな似たようなこと言ってたよ。道中に妙な精霊が増えてるって」
ラリサが礼を言って、俺のいるテーブルに戻ってきた。表情がまた少し硬い。
「・・・やっぱり増えてるみたいですね」
「黒斑病の精霊が?」
「多分。詳しくは分かりませんけど」
ラリサが椅子に座って、手を組んだ。考え込んでいる。嵐の精霊が心配そうに主人の頬に額を寄せた。
「ラリサ、大丈夫?」
「あ、はい! 大丈夫です! 気をつけて進めば問題ないですよ!」
切り替えが早い。でも、目の奥に何か残っている。
夕食が運ばれてきた。硬いパンと豆の煮込み、それに焼いた川魚。グラーヴェの食堂よりは質素だけど、三日ぶりのまともな食事だった。
地図を広げた。ラリサが書き込んだ印がいくつかついている。グラーヴェ市、カンティレ、そして水紋の谷。カンティレから谷まではあと七日ほど。街道を外れて山道に入る区間がある。
「途中から道が細くなります。山道に入ったら野営が続きますから、ここで食料を補充しておきましょう」
「うん。明日の朝、市場で買い足そう」
「ですね! あ、それと——」
ラリサが何か言いかけた時、テーブルの上で小さな動きがあった。
カルンが、いつの間にか食卓の端に降りていた。宿の猫——薄茶色の大きな猫が、食堂の隅からのそのそ歩いてきて、テーブルの上に飛び乗っていた。
カルンと猫が、至近距離で見つめ合っていた。
猫の方がずっと大きい。カルンの三倍ぐらいある。猫が首を傾げた。カルンも首を傾げた。猫が前足を伸ばした。カルンがぴょんと後ろに跳んだ。猫が追いかけた。カルンが逃げた。テーブルの上をちまちまと追いかけっこが始まった。
「・・・カルン」
カルンが猫の周りをくるくる飛んでいる。光がちかちか弾んでいた。楽しそうだ。三ヶ月前はラリサ以外の人間にも近づけなかったのに、今は猫と遊んでいる。
「カルン、外の世界に慣れてきましたね」
ラリサが笑った。今度は本当の笑顔だった。
「・・・うん。そうだね」
カルンが猫の頭の上にちょこんと乗った。猫が困惑した顔でじっとしている。カルンの光がぽわっと温かくなった。居心地がいいらしい。
「あの子、本当は人懐っこいんですよね。ずっと追われてたから隠してただけで」
「・・・そうかもしれない」
猫がゆっくり歩き出した。カルンを頭に乗せたまま、食堂の中を悠々と歩いている。カルンが落ちないようにしがみついていて、光がゆらゆら揺れていた。
宿の主人が「おや」と笑った。「精霊さん、うちの猫が気に入ったかい」
カルンが宿の主人の方を見て、ぺこりとお辞儀した。
「・・・行儀いいな」
「カルンは礼儀正しいんですよ。フェズさんより」
「俺だって礼儀正しいつもりなんだけど」
「つもりとできてるは違います!」
ラリサに笑われた。反論できなかった。
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夜、宿の部屋で地図を見ていた。
ラリサはもう寝ている。隣の部屋から微かに寝息が聞こえる。嵐の精霊が寝言のように小さな風を出していて、廊下がそよそよしていた。
カルンが窓の縁に座って、外を見ていた。カンティレの夜は静かだ。通りに灯りが少しだけ残っていて、遠くで犬が鳴いている。
水紋の谷まであと七日。そこに水の大精霊がいて、俺の試練が待っている。
最初の祠。最初の試練。最初の——証明。
まだ弱い。それは分かっている。トルニオの訓練で学んだことを実戦で使えるかも分からない。でも、行くしかない。
「カルン」
カルンが振り向いた。窓の外の月明かりを背にして、小さな輪郭が光っている。
「あと七日だって。頑張ろう」
カルンが小さく頷いた。光がぽわっと温かくなった。
それだけで十分だった。
窓の外に目を戻した。街道がカンティレの町を貫いて、北へ伸びている。あの道の先に、水紋の谷がある。
布団に入った。カルンが枕元に降りてきて、丸くなった。光がゆっくり明滅する。寝息の光。
目を閉じた。明日はカンティレで補給をして、また歩き出す。
旅は三日目。まだ始まったばかりだ。
——翌朝。宿場の広場で、派手な騒ぎが起きていた。