歌姫と共に   作:ぶるうず

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巡祠者

朝食の前だった。

 

市場の準備が始まったばかりの広場に、悲鳴が上がった。

 

「精霊だ! 暴れてる!」

 

宿の窓から首を出すと、石畳の広場に人が散っていくのが見えた。朝市の荷台が倒れ、果物が地面に転がっている。その中心に——水で出来た犬のようなものがいた。

 

犬ほどの大きさ。体の表面に黒い斑点がびっしり浮いていて、目にあたる部分が濁った光を放っている。黒斑病の精霊だ。口から水の飛沫を撒き散らしながら、広場を暴れ回っている。

 

「フェズさん!」

 

ラリサが隣の部屋から飛び出してきた。寝起きのまま、髪がぼさぼさだ。嵐の精霊が主人の周りを忙しなく回っている。

 

「行きましょう!」

 

「うん——」

 

剣を掴んで階段を駆け下りようとした時、宿の入口から広場が見えた。

 

誰かが、もう動いていた。

 

少女だった。

 

茶色い短髪。革の胸当てに、使い込まれた片手剣。背丈は俺と同じぐらいか、少し低いぐらい。年も同じぐらいに見える。

 

広場の真ん中で、少女が剣を構えていた。

 

黒斑病の精霊が突進した。水の塊が地面を削りながら突っ込んでくる。町の人なら逃げるしかない速さだ。

 

少女は逃げなかった。

 

半歩、横にずれた。それだけだった。精霊の突進が空を切る。少女は体の軸がぶれていない。足の運びに無駄がない。ずれた半歩が、そのまま斬撃の踏み込みになっている。

 

剣が閃いた。

 

横薙ぎ。精霊の胴体を正面から斬り裂いた。水の体に刃が食い込み、黒い斑点ごと両断する。飛沫が散って、石畳が濡れた。

 

一太刀。

 

精霊が崩れた。水が石畳の上に広がって、黒い斑点が薄れていく。もう動かない。

 

俺は宿の入口に立ったまま、動けなかった。

 

強い。

 

純粋にそう思った。速いだけじゃない。判断が速い。体の使い方に無駄がない。精霊の動きを読んで、最短の動作で仕留めている。正面からぶつかって、正面からねじ伏せる強さ。

 

ラリサとは違う。ラリサの強さは嵐みたいなものだ。精霊の力も剣の腕も、全部が桁外れで、見ているこっちが呆然とする。この子はそうじゃない。もっと地に足のついた、一歩一歩を積み上げた強さ。——でも、俺にはない種類の強さだ。

 

少女が剣を振って、精霊の体液を払った。しぶきが石畳に散る。それから広場の人たちの方を向いて、にかっと笑った。

 

「もう大丈夫! 怪我した人いない?」

 

声が明るい。今しがた精霊を斬ったばかりなのに、表情に殺気も緊張もない。町の人たちがおそるおそる戻ってきた。果物売りのおじさんが荷台を起こしながら「助かった」と頭を下げている。

 

「いいっていいって! 巡祠者なんだから、これぐらい当然でしょ!」

 

少女が手をひらひら振った。剣を鞘に戻す動作も滑らかだ。

 

巡祠者。

 

この子も、巡祠者なのか。

 

「・・・すごいな」

 

思わず声が漏れた。

 

ラリサが隣に来ていた。目を丸くしている。

 

「あの子、一人でやりましたね・・・」

 

「うん」

 

「しかも速い。あの大きさなら一人で十分ですけど、動きがすごく綺麗でした」

 

ラリサの声にはどこか楽しげな響きがあった。一緒に戦おうとしていたわけじゃない。最初から余裕を持って見ていた、という口ぶり。

 

少女が広場を見回した。精霊の残骸を確認している。それから——こっちを見た。

 

正確には、俺の肩の上を見た。

 

カルンだ。カルンが俺の肩の上で身を乗り出していた。少女の戦いに見入っていたらしく、光がちかちか弾んでいる。

 

少女が歩いてきた。近づくと、目が茶色いのが分かった。明るい茶色。日に焼けた肌。活発そうな顔立ちだ。

 

「へえ、珍しい精霊。あんた巡祠者?」

 

開口一番がそれだった。

 

「・・・うん」

 

「ふうん」

 

少女が俺を上から下まで見た。値踏みするような目つき。遠慮がない。

 

「巡祠者にしてはちょっと頼りなくない?」

 

「——」

 

返す言葉がなかった。事実だからだ。

 

「この子は強いですよ! 見た目と違って!」

 

ラリサが横から割り込んだ。腕を振って力説している。嵐の精霊まで主人に同調して風を起こしていた。

 

「・・・ラリサ、そのフォロー、フォローになってない」

 

「え? なんでですか?」

 

「見た目は頼りないって認めてるじゃん」

 

ラリサが口をぱくぱくさせた。しまった、という顔をしている。

 

少女が噴き出した。

 

「あはは! 面白いね、あんたら」

 

笑い方に悪意がなかった。からかっているのでも馬鹿にしているのでもない。ただ、面白いと思ったことを面白いと言っているだけの笑い方だった。

 

「あたし、ルセ。あんたは?」

 

「フェズ。こっちはラリサ」

 

「で、その精霊は?」

 

カルンを見ている。カルンが俺の肩の上でルセの方をちらちら見ていた。初対面の人間への警戒。でも以前ほどは怯えていない。ルセの雰囲気が開けっぴろげだからか。

 

「カルン」

 

「カルンか。変わった見た目だね。何の精霊? 水でも風でもなさそうだけど」

 

「・・・音楽の精霊」

 

「音楽?」

 

ルセの眉が上がった。驚いている。

 

「概念系じゃん。珍しいね。あたし、初めて見たかも」

 

ルセの肩の横で、小さな光の球がくるくる回っていた。ルセの精霊だ。光の精霊。拳ぐらいの大きさで、ルセの周囲を忙しなく飛び回っている。カルンとは違って、ずっと動き続けている。落ち着きがない。

 

「ルセの精霊は光の精霊?」

 

「そ。こいつはピカ。大した力はないけど、暗いとこで便利だよ」

 

ピカと呼ばれた光の精霊が、名前に反応したのかぴかっと一際強く光った。ルセが「眩しい」と手で目を庇う。

 

「あんたも巡祠者なんだよね。どこの祠を目指してるの?」

 

「水の祠。水紋の谷」

 

「ふうん——あたしもだよ」

 

ルセが目を細めた。

 

「じゃあ水紋の谷まで一緒に行かない? どうせ同じ方向でしょ」

 

唐突だった。出会って数分でこの距離感。

 

ラリサが即座に反応した。

 

「いいですね! 人数が多い方が安全ですし!」

 

ラリサは歓迎らしい。確かに道中で黒斑病の精霊が増えているなら、戦力は多い方がいい。ルセの腕前はさっき見た通りだ。断る理由がない。

 

・・・断る理由はないんだけど。

 

さっきの戦いが頭にこびりついている。あの動き。あの判断力。一太刀で精霊を仕留めた正確さ。俺にはできない。

 

「フェズさん?」

 

ラリサが覗き込んできた。

 

「・・・うん。一緒に行こう」

 

「決まりね!」

 

ルセが手を叩いた。

 

「あ、そうだ。あんたら、最近の道の様子は聞いた? 谷の手前、黒斑病の精霊が増えてるって噂だよ」

 

「昨夜、宿の主人にも言われました」

 

「だよね。あたしも街道沿いの巡祠者から聞いた。中型のやつも出るらしい。さっきのは小型だったけど、先に行くほど面倒なのが出てくるかもね」

 

ルセが腕を組んだ。さっきまでの軽い口調が、少しだけ引き締まっている。

 

ラリサが黙った。昨日の街道脇の黒い染みを思い出したのか、表情がわずかに曇る。でもすぐに「大丈夫です! 三人いれば怖くないですよ!」と声を上げた。

 

「そうだね。じゃ、支度しよ。朝市で食料買い足して、すぐ出発でいい?」

 

「うん。それでいいよ」

 

「フェズ、反応薄いね。もっとこう、盛り上がんないの?」

 

「・・・こういう性格なんだ」

 

「ふうん」

 

ルセがじっと俺の顔を見た。探るような目ではない。ただ面白がっている。

 

「まあいいや。行こ行こ」

 

ルセが先に歩き出した。広場の朝市に向かって、迷いのない足取りで。ピカがルセの頭の上をくるくる回りながらついていく。

 

ラリサが俺の横に並んだ。

 

「いい子そうですね、ルセさん」

 

「・・・そうかな。生意気だと思ったけど」

 

「フェズさん、そういうとこありますよね。第一印象に慎重すぎるんですよ」

 

「慎重なのは悪いことじゃないだろ」

 

「それはそうですけど! でもラリサは好きですよ、ああいう真っ直ぐな感じ!」

 

ラリサが駆けていった。ルセに追いついて、何か話しかけている。ルセが振り返って笑った。二人の間に壁がない。ラリサはいつもこうだ。初対面でも三分で打ち解ける。

 

俺は少し遅れて歩いた。

 

カルンが肩の上から俺の顔を覗き込んでいた。どうしたの、と聞くような光の揺れ方。

 

「・・・大丈夫。行こう」

 

---

 

カンティレを出た。

 

三人と精霊たちが街道を歩いている。ラリサとルセが前を歩いて、俺が少し後ろについている。

 

「ルセさん、祠巡りはいつから?」

 

「んー、半年ぐらい前かな。あたしの故郷は王都の方だから、こっちまで来るのに時間かかったんだよね」

 

「王都! 遠いですね!」

 

「でしょ? でも水の祠がまだだったから、先にこっちを片付けようと思って」

 

「まだ、ってことは他の祠はもう行ったんですか?」

 

「ひとつだけね。風の祠。あれはまあ、何とかなった」

 

さらっと言った。風の祠を「何とかなった」で済ませている。

 

「すごいですね! ラリサはもう全部回っちゃったんで、懐かしいです!」

 

「全部? 覇者ってこと?」

 

ルセの声が少しだけ変わった。さっきまでの軽い調子に、初めて本気の驚きが混じった。

 

ラリサが照れくさそうに頭を掻いた。「まあ、一応!」

 

一応って。世界で十数人しかいないんだけど。

 

ルセがラリサをまじまじと見て、それから肩をすくめた。

 

「へえ。見えないね」

 

「よく言われます!」

 

ルセが笑って、こっちを振り返った。

 

「じゃあフェズは? いくつ取ったの?」

 

「・・・まだ、ひとつも」

 

「ゼロ?」

 

ルセが振り返った。驚いている、というより意外そうな顔。

 

「巡祠者なのにゼロ? じゃあ水の祠が初めて?」

 

「・・・うん」

 

「へえ」

 

ルセが少し黙った。何か考えている。

 

「それでよくこの街道に出たね。黒斑病の精霊が増えてるって分かってて」

 

「行くしかないから」

 

「ふうん」

 

ルセが前を向いた。しばらく歩いて、ぽつりと言った。

 

「あんたの精霊、音楽の、だっけ。概念系って珍しいよね。狙われない?」

 

足が一瞬止まりかけた。

 

カルンが俺の肩でわずかに身を固くした。反射。狙われた記憶が体に染みついている。

 

「・・・うん。だから強くなりたい」

 

声が小さくなった。自分でも分かっていた。

 

ルセが歩きながら、ちらりと肩越しにこっちを見た。さっきまでの軽い表情が少し変わっていた。真剣、というほどでもない。ただ、ふざけた顔ではなかった。

 

「ふうん。なら、まあ頑張りな」

 

それだけだった。

 

励ましでもなく、同情でもなく、否定でもない。「そうなんだ」という事実の受け止め方。そこに余計なものを乗せない言い方。

 

ラリサが振り返った。

 

「フェズさんは頑張ってますよ! トルニオ師匠のところでたくさん鍛えたんですから!」

 

「ラリサ、余計なこと言わなくていい・・・」

 

「余計じゃないです! 事実です!」

 

ルセが笑った。今度は声を出して。

 

「あんたらって、ずっとこんな感じなの?」

 

「こんな感じって?」

 

「漫才」

 

「漫才じゃないです!」

 

ラリサが力いっぱい否定した。嵐の精霊がラリサの気持ちを代弁するように突風を起こして、ルセの髪が盛大になびいた。

 

「うわ、すごい風。あんたの精霊、嵐なの? 強くない?」

 

「えへへ。嵐の精霊です。すごいでしょ!」

 

「すごいね。覇者で嵐の精霊持ちって、そりゃこの中で一番強いでしょ」

 

ラリサが照れくさそうに笑った。「まあ、戦闘だけならそうかもですけど!」

 

三人で歩いている。ラリサとルセが話すテンポが合っている。二人とも行動派で、思ったことをすぐ口に出す。話題がぽんぽん飛ぶ。

 

俺は少し後ろを歩いていた。ルセの背中を見ている。

 

さっきの広場の光景が消えない。あの一太刀。あの判断。あの身のこなし。

 

ルセは俺と同じぐらいの歳だ。同じ巡祠者だ。でも、もう祠印をひとつ持っている。あの戦い方を見れば分かる。ルセは強い。俺とは違う。

 

ラリサほどじゃない。ラリサは別格だ。覇者で、嵐の精霊持ちで、さっきの精霊なら指一本で片づけただろう。でも——ルセは精霊の力に頼らず、自分の剣だけであれをやった。

 

風の祠を「何とかなった」と言える強さ。黒斑病の精霊を一太刀で仕留める正確さ。

 

俺にはまだ、そのどちらもない。

 

カルンが俺の肩から頬にすり寄ってきた。光が温かい。大丈夫? と聞いている。

 

「・・・うん。大丈夫」

 

大丈夫。焦っているだけだ。ラリサは遠すぎて焦りにすらならない。でもルセは——同じ歳で、同じ道を歩いている。だから目の前の差が刺さる。

 

分かっているのに、胸の底に小さな棘が刺さっている。

 

三人の旅が始まった。水紋の谷まで、あと七日。ルセの背中を追いかけながら、俺は自分の手のひらを握った。

 

——まだ何も証明していない手だった。

 

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