カンティレを出て二日目の朝、街道を外れた。
ラリサが先頭で地図を広げ、ルセが横から覗き込んでいる。俺は少し後ろで荷物の紐を締め直していた。
「ここから山道に入ります! 水紋の谷まで、あと五日ぐらいですね!」
「五日か。道は荒れてる?」
「うーん、去年通った人の話だと、途中に崩れてる場所があるかもしれないって。でもまあ、何とかなりますよ!」
「ラリサ、何とかなるって言う時だいたい何ともならないよね」
「ひどいですフェズさん! 何ともなったこともいっぱいありますよ!」
ルセが地図を指でなぞりながら笑った。
「この山道、あたしも初めてだけど、途中に水場がいくつかあるはず。野営地は川沿いで探した方がいいね」
「さすがルセさん、旅慣れてますね!」
「半年も歩いてりゃ嫌でも覚えるよ。フェズ、あんたは? 山道の経験は?」
「・・・ほとんどない」
「だと思った」
ルセが肩をすくめた。馬鹿にしている口調ではない。ただ事実を確認しただけの響き方だ。
「まあ、歩けば覚える。あたしも最初はひどかったし」
「ルセさんもですか?」
「当然でしょ。誰だって最初はあるよ。あたしなんか初日に靴の紐を結ばないまま半日歩いて、足の皮がべろべろに剥けたからね」
「・・・それはひどい」
「でしょ? だから準備は大事なの」
ルセが自分の足元を指さした。革の短靴。紐がきっちり結ばれている。使い込まれているが、手入れは行き届いていた。
山道は石と木の根が入り混じった細い道だった。両側から木が迫ってきて、時おり枝を払いながら進む。街道とは違って足場が悪い。俺は何度か石に躓きかけたが、ルセは淀みなく歩いていく。
道の読み方が上手い。足の置き場を無意識に選んでいる。体の使い方に無駄がない。剣を振る時と同じだ。
ラリサとルセが前を歩いている。二人の背中を見ながら、俺は自分の足元に目を落とした。
「ねえフェズ、あんたの精霊ってさ」
ルセが歩きながら振り返った。
「ん?」
「概念系って、共鳴するとどうなるの? 音楽の精霊でしょ。音が出るの?」
「・・・音というか、衝撃波みたいなものかな。カルンと共鳴して、音の力を使える」
「衝撃波? 地味じゃない?」
「・・・地味かもしれない」
カルンが俺の肩の上でぷくっと膨らんだ。怒っている。地味と言われたのが気に入らないらしい。
「あ、ごめんごめん。怒った?」
ルセがカルンに手を振った。カルンはぷいっと横を向いた。ルセが「うわ、めっちゃ分かりやすい」と笑っている。
「カルンの力は地味じゃないよ。まだ上手く使えてないだけで」
「へえ。じゃあ使えるようになったら強いの?」
「・・・たぶん」
「たぶんか」
ルセが前を向いた。少し歩いて、ぽつりと言った。
「あたしのピカは光の精霊だけど、戦闘じゃほぼ役に立たないよ。暗いとこで光る以外は」
ピカがルセの頭の上で抗議するようにぴかぴか点滅した。
「だからあたしは剣で戦う。精霊の力に頼れないなら、自分の力で何とかするしかない。あんたも似たようなもんでしょ」
「・・・うん。そうだと思う」
似たようなもの、か。でもルセは自分の力だけで風の祠をクリアしている。俺はまだ一つも——。
考えかけて、やめた。比べても仕方ない。分かっている。
分かっているのに。
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夕暮れ時、川沿いの開けた場所で野営の準備を始めた。
ルセが薪を集め、ラリサが火を起こし、俺が水を汲む。役割分担は自然に決まっていた。三日も一緒にいると、何となく各自のやり方が見えてくる。
「フェズさん、水汲むの上手になりましたね! 最初は革袋の口を絞るのも下手だったのに!」
「・・・ラリサ、褒めてるのか貶してるのか分からない」
「褒めてます! 成長です!」
ルセが薪を組みながら、俺たちのやり取りを聞いている。口元が笑っていた。
火が起きると、ルセが装備の点検を始めた。剣を鞘から抜き、刃を布で丁寧に拭く。それから水筒の残量を確認し、地図を広げて翌日のルートを指でなぞる。
几帳面だ。毎晩こうしている。カンティレを出てからずっと。
「ルセ、毎晩やってるよね、それ」
「当然でしょ。準備を怠る奴が祠で生き残れるわけないじゃん」
ルセの目が剣の刃に落ちている。火の光が金属に反射して、橙色が揺れていた。
「装備の状態が分からないまま戦いになったら、それだけで死ぬよ。あたしの師匠がそう言ってた。『戦う前に勝負は決まってる』って」
「いい師匠だね」
「まあね。厳しかったけど」
ルセが剣を鞘に戻した。それからピカの様子を見る。光の精霊は木の枝に止まって、ぼんやり光っていた。満足そうだ。
「フェズさんもやったらどうですか、装備の点検! ラリサもやってますよ!」
「ラリサがやってるの、点検っていうか適当に振り回してるだけじゃ・・・」
「失礼な! ちゃんとやってます! こう、ぐわってやって、びゅって確認するんです!」
「何も分からない」
ルセが吹き出した。
「あんたら本当に漫才だね」
「漫才じゃないです!!」
夜の山道は静かだった。虫の声と、近くの川の水音。火の爆ぜる音。カルンが焚き火の近くでうとうとしている。光が穏やかに明滅していた。
ピカがカルンの隣に来て、ちょこんと止まった。二つの光が並んでいる。ルセの精霊とフェズの精霊。金色と淡い白。
「カルン、ピカと仲良くなったの?」
カルンが目を開けて、ピカの方をちらっと見た。別に仲良くない、という顔をしている。でも離れない。
「つれないね」
ルセが笑った。
穏やかな夜だった。
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翌日の昼過ぎだった。
山道の途中、空から影が落ちた。
「——伏せて!」
ルセの声が飛んだ。反射で体を低くした瞬間、頭の上を何かが通り過ぎた。風圧で髪が乱れる。
鳥だ。翼を広げると二メートルはある。体が半透明の水で出来ていて、翼の先端が鋭い氷の刃になっている。
黒い斑点が全身に浮いていた。目が濁っている。黒斑病の精霊だ。
「中型か・・・! さっきのより大きいね!」
ルセが剣を抜いた。構えが速い。もう戦闘の体勢に入っている。
鳥型の精霊が旋回して戻ってきた。急降下。氷の翼が空気を切り裂く。
ルセが横に跳んで躱した。地面に氷の刃が突き刺さり、土が弾ける。硬い。あの翼に当たったら切り裂かれる。
「こいつ、飛んでるから厄介だよ!」
ルセが叫びながら剣を振った。精霊が翼で弾く。飛びながらの攻撃は当てにくい。ルセの剣が届く距離に降りてこない。
「ラリサ、風で落とせる?」
「やってみます!」
ラリサが手を翳した。嵐の精霊が主人の指示に応えて突風を起こす。鳥型の精霊がバランスを崩した——が、すぐに体勢を立て直す。
「効きが悪いです! 体が水だから、風で押しにくい!」
空中に留まった精霊がまた急降下してくる。ルセが剣で斬りつけるが、精霊はすぐに上昇して射程の外に逃げる。
一撃離脱。飛べる相手に地上から対処するのは難しい。ルセの剣が届かない。ラリサの風も決定打にならない。
俺は山道を見た。
岩場と木が入り混じる地形。左手に崖がある。崖の張り出しが低い場所がある。あそこの下に追い込めば——天井が低い。飛べない。
「ルセ!」
声が出ていた。考えるより先に。
「あの崖の張り出し——左の! あの下に追い込んで! 天井が低いから飛べなくなる!」
ルセが一瞬こっちを見た。何言ってんだ、という顔。でも崖の張り出しに目を向けて、すぐに理解した。
「——なるほどね!」
ルセが走った。剣を振りながら精霊の左側を塞ぐ。精霊が右に逃げようとする。
「ラリサ、右側を風で押して!」
「はい!」
ラリサの突風が精霊の右側を塞いだ。逃げ場がない。精霊が崖の張り出しの下に向かって飛ぶ。
低い天井。翼が岩にぶつかった。バランスが崩れる。飛べない。地面に落ちかけた精霊が暴れる。
ルセが踏み込んだ。狭い空間で剣を振る。翼を斬る。精霊の動きが鈍る。
俺も駆けた。横から回り込んで、精霊の退路を塞ぐ。剣を構える。精霊がこっちに向かってきた。水の塊が突っ込んでくる。
躱した。ぎりぎりだった。でも足は止まっていない。精霊が通り過ぎた隙に、背中から斬りつける——浅い。水の体に刃が食い込むが、致命傷にはならない。
「フェズ、押さえてて!」
ルセの声。精霊が振り返ろうとした瞬間、ルセが正面から踏み込んだ。一太刀。胴体を斬り裂く。
精霊がよろめいた。でもまだ動いている。
「ラリサさん!」
ラリサが張り出しの外から手を突き出した。表情は落ち着いていた。ルセと俺が肩で息をしている横で、ラリサだけが呼吸を乱していない。
嵐の精霊が唸った。
空気が変わった。それまでの風とは質が違う。狭い空間に圧縮された突風が、精霊の体を真上から叩き潰した。
岩が軋んだ。水が弾けて、黒い斑点が四方に散った。地面にめり込むような衝撃。精霊の形が崩れて、そのまま動かなくなった。
一発だった。
ルセと二人がかりで追い込んで、何度も斬りつけて、それでも倒しきれなかった相手を——ラリサが一発で終わらせた。
三人とも、肩で息をしていた。——いや、二人だ。ラリサだけは平気な顔をしている。
「・・・倒した」
俺の声が掠れていた。
ルセが剣の水気を払った。それからラリサの方を一瞬見て、小さく息を吐いた。さっき「この中で一番強いでしょ」と言ったのは軽口じゃなかったらしい。
それからこっちを向いた。さっきまでと少し違う目だった。
「へえ。あんた、そういう戦い方するんだ」
「え?」
「地形を見て、追い込む場所を探して、そこに誘導する。正面から斬るんじゃなくて、環境を使うタイプだね」
ルセの声に驚きがあった。馬鹿にしている響きはない。
「フェズさんはこういうのが得意なんです! トルニオ師匠にも環境を使えって教わって——」
「ラリサ、いいから・・・」
「よくないです! もっと自信持ってください!」
ルセが腕を組んだ。
「まあ、悪くなかったよ。あの張り出しに気づいたのはあんただし。あたし一人だったら上から斬ろうとして手間取ってたかも」
ルセが親指でラリサの方を示した。
「まあ、結局一番頼りになったのはあっちだけどね」
ラリサが「えへへ」と照れくさそうに笑った。本人に自覚はない。あれだけのことをやっておいて、嵐の精霊の頭を撫でて「よくやったね」と声をかけている。
そう言ってから、ルセは少し考えて付け足した。
「でも、一人で仕留めるにはまだ足りないね。追い込んだ後の火力が弱い」
「・・・分かってる」
分かっている。追い込み方は見えた。でも最後の一撃は、ルセの剣とラリサの嵐があったから仕留められた。俺一人だったら、追い込んでも倒しきれなかっただろう。
——というか、ラリサ一人でよかったんじゃないか。あの一発を見たら、追い込みも何もいらなかった気がする。
嬉しい、と思った。ルセに認めてもらえた部分がある。
でもそれと同時に、自分の足りない部分がくっきりと見えた。
カルンが俺の肩で小さく光った。よくやった、という光の揺れ方。
「・・・ありがとう、カルン」
---
それから先に進むほど、山道の様子が変わっていった。
最初は気づかなかった。だが歩くうちに、おかしいと感じるようになった。
木が枯れている。
葉が落ちたのではなく、幹の途中から黒ずんでいる。樹皮に黒い染みが広がり、触ると脆くぼろぼろ崩れた。
「・・・また黒斑病の痕跡か」
「カンティレの手前でも見ましたけど、こっちの方がずっとひどいですね」
ラリサの声が低い。いつもの明るさが薄れている。
水場があった。山道の脇を流れる細い川。水が濁っていた。黒っぽい澱みが溜まり、底の石が見えない。
「この川、昨日は透き通ってたのに」
ルセが水面を覗き込んだ。眉を寄せている。
「精霊の気配も薄いね。さっきまでそこら中にいたのに、ここだけいない」
ルセの言う通りだった。山道に入ってから、小さな精霊があちこちにいた。木の葉に止まる光の粒や、川面を漂う水の揺らめき。それが、ここにはない。精霊たちが避けている。
ラリサが立ち止まった。
枯れた木の幹を見つめている。黒い染みが手のひらほどの大きさに広がっていた。それが何本もの木に、点々と続いている。
「こんなに酷いのは・・・見たことないです」
ラリサの声が小さかった。呟きに近い。
「最近あちこちで聞くよ。黒斑病の精霊が増えてるって」
ルセが腕を組んだ。
「カンティレでも噂になってたし、あたしが風の祠にいた時も、道中で何匹か見た。でもここまで環境が荒れてるのは初めてだな。何か起きてるんじゃない?」
ルセがラリサの方を見た。ルセは勘がいい。ラリサの変化に気づいている。
ラリサが口を開きかけた。何かを言おうとして——口をつぐんだ。
数秒の沈黙。
「・・・分からないです。でも、気をつけた方がいいのは確かです」
笑顔が戻った。でもさっきまでのラリサとは少し違っていた。目が笑っていない。
俺はラリサの横顔を見ていた。
カンティレの手前で黒い染みを見つけた時の、あの曇った表情。あの時も、何か言いかけてやめていた。
ラリサは何か知っている。あるいは、何か考えている。でも俺たちには話していない。
聞きたい。でも、聞いていいのか分からなかった。ラリサがまだ話す気がないのなら、踏み込むべきじゃない。
カルンが俺の肩にしがみついた。いつもより強く。
周囲を見回すと、カルンの光がわずかに不安定になっていた。明滅のリズムが乱れている。周りの精霊たちの異変を感じ取っているのかもしれない。
「・・・大丈夫だよ、カルン」
カルンが俺の首筋にすり寄った。怖い、と言っている。
俺はカルンの頭を指先で撫でた。小さな体が少しだけ和らいだ。
「先に進みましょう」
ラリサが歩き出した。背中がいつもより小さく見えた。
三人で山道を登る。黒ずんだ木々の間を抜けて、水紋の谷を目指す。
残り二、三日。
谷は近い。でもラリサの顔に浮かぶ影が、俺の胸にひっかかっていた。