歌姫と共に   作:ぶるうず

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水紋の谷

山道を抜けた瞬間、目の前が開けた。

 

「・・・すごい」

 

声が漏れた。

 

眼下に広がる渓谷。灰色の岩壁の至る所から水が湧き出している。細い滝、太い滝、岩肌を這うように流れる清流。幾筋もの白い線が谷底へ向かって落ちていく。水しぶきが朝の光に照らされて、空気ごと輝いていた。

 

水の精霊が見える。小さな光の粒が水面をゆっくり漂っている。一つ二つではない。数え切れないほど。川の流れに沿って、あるいは滝の飛沫に混じって、谷全体が淡い光に包まれていた。

 

カルンが俺の肩から身を乗り出した。丸い目が忙しなく動いている。好奇心で光が跳ねていた。

 

「カルン、落ちるよ」

 

カルンは気にしていない。水面を漂う精霊たちをじっと見ている。仲間が大勢いる場所に来たのが嬉しいのか、光の揺れ方がいつもより柔らかい。

 

「これが水紋の谷・・・」

 

ラリサが隣で息を呑んでいた。いつもの元気な声ではない。ただ見惚れている、という感じだった。

 

ルセが崖の縁に立って、谷底を覗き込んだ。

 

「あれが水の祠か。思ったより・・・でかいね」

 

ルセの視線の先、谷底に石造りの建物が見える。水に半分沈んでいるような構造。苔むした壁に水流がぶつかって、白い泡を立てている。近くで見たらもっと大きいのだろう。ここからでも、ただの建物ではないと分かった。古い。ずっと昔からここにあるものだ。

 

「行きましょう! 早く近くで見たいです!」

 

ラリサが谷底への道を探し始めた。岩場を縫うように細い道が下に続いている。

 

「ラリサ、焦んないでよ。足場悪いんだから」

 

「大丈夫です! こう見えても身軽なんですよ!」

 

「いや、それ信用できない・・・」

 

俺はルセに同意だった。ラリサは強いが、こういう場面では油断する。案の定、三歩目で苔に足を取られてよろめいた。

 

「ほら」

 

「た、たまたまです!」

 

ルセが呆れた顔で先に立った。足の置き場を確かめながら、着実に下っていく。俺はラリサの後ろについた。万が一のための壁役だ。

 

谷底に降りるまで半刻ほどかかった。

 

降りる途中、何度か水の精霊が近づいてきた。拳ほどの水の塊が、ふわふわと浮遊している。カルンの方に寄ってきて、周りをくるくる回った。カルンが戸惑ったように光を明滅させる。

 

「カルン、人気者だね」

 

カルンがぷいっと横を向いた。照れている。分かりやすい。

 

水の精霊たちはしばらくカルンの周りを漂ってから、興味を失ったように散っていった。精霊同士の挨拶みたいなものだろうか。

 

近くで見る祠は、上から見た以上に圧倒的だった。石の壁は俺の背丈の五倍はある。表面に苔と水垢がこびりつき、長い年月を静かに物語っている。壁の隙間から水が染み出して、細い流れになって足元へ集まっていた。足元は浅い水溜まりが広がっていて、歩くたびにぱしゃぱしゃと音が鳴る。

 

空気が違う。谷底全体がひんやりとした湿気に満ちていて、吸い込むと肺の奥まで水の匂いが届く。

 

入口には石のアーチがある。アーチの上から水が流れ落ちて、薄い水のカーテンを作っている。その奥は暗い。水のカーテン越しに、かすかに光が揺れているのが見える。祠の中の水面が何かを映しているのだろうか。

 

アーチの柱に文字が刻まれていた。古い文字だ。風化して読みにくいが、ラリサが目を細めて読み始めた。

 

「えっと・・・『試練に臨む者は一人。精霊と共に入れ。他者の力は認めない』」

 

ラリサが読み上げた。

 

「一人か」

 

ルセが腕を組んだ。水のカーテンの向こうを見ている。

 

「一人ずつしか入れないってことだよね。フェズ、あんたも挑むんでしょ?」

 

「・・・うん。そのために来た」

 

「じゃあ順番決めないと。あたしが先に行っていい?」

 

ルセの声は軽い。質問の形だが、ほぼ決定事項だ。

 

「・・・問題ないよ」

 

言葉が少し詰まった。本当は自分が先に行きたい気持ちもある。でも、ルセが先に行く方が合理的だと分かっていた。ルセの方が強い。先に試練の感触を掴んでくれるなら、俺の番で何か参考になるかもしれない。

 

そう考える自分が情けないとも思ったが、今は見栄を張る場面じゃない。

 

「ありがと」

 

ルセが剣の柄に手をかけた。ピカがルセの頭上でくるくる回っている。やる気満々だ。

 

「ルセさん、気をつけてくださいね! 水の祠は中が水で覆われているらしいです! 足元がぐらぐらするとか、水流が急に変わるとか!」

 

「知ってる。カンティレで情報は集めてきた」

 

ルセが振り返った。俺を見ている。

 

「フェズ。あんたは次ね。待ってて」

 

「・・・ああ。気をつけて」

 

「心配してくれるの? 優しいじゃん」

 

軽口を叩いて、ルセが歯を見せて笑った。

 

ルセが水のカーテンに向かって歩いた。迷いのない足取り。アーチの前で一瞬立ち止まり、それから水をくぐって消えた。

 

水のカーテンが揺れて、すぐに元に戻った。向こう側は見えない。

 

静かになった。

 

谷底の水音だけが響いている。

 

---

 

待つ時間は長かった。

 

祠の前の岩に座り込んで、水の音を聞いていた。谷底は静かだ。滝の音と、岩を洗う水の流れ。時おり精霊がぽちゃんと水面を跳ねる音。それ以外は何もない。

 

ラリサは少し離れたところで水の精霊たちを眺めている。嵐の精霊が主人のそばで大人しくしていた。時々、ラリサが精霊に話しかけている。何を言っているかは聞こえないが、嵐の精霊が小さく風を起こしてラリサの髪を揺らしていた。

 

カルンが俺の膝の上にいた。祠の方をじっと見ている。時々、光が揺れる。不安なのか、緊張なのか。たぶん両方だ。

 

「カルン。ルセは大丈夫だよ」

 

カルンがこっちを向いた。心配しているのはルセのことだけではない、と言いたげだった。

 

大丈夫、なのだろうか。ルセは強い。ルセなら大丈夫だ。でも——。

 

次は俺だ。

 

水の中での試練。足場がなく、水に覆われた空間で大精霊と戦う。俺の得意な「環境を使う」戦い方が、水の中でどこまで通用するのか。昨日の鳥型の精霊との戦いでは、崖の張り出しに追い込んで対処できた。でも祠の中には岩場も木もない。水しかない。

 

あの戦い方が使えないなら、俺に何が残る。カルンとの共鳴の衝撃波。でも水の中で音がどうなるか分からない。

 

考えても仕方ない。入ってみないと分からない。分かっている。でも頭が勝手に回る。

 

「フェズさん」

 

ラリサの声がした。振り返ると、ラリサが隣に来ていた。珍しく静かな声だ。

 

「緊張してますか?」

 

「・・・してる」

 

「しますよね。でも、フェズさんなら大丈夫です」

 

「根拠は?」

 

「根拠はないです! でも、大丈夫です!」

 

「・・・それ、全然安心しない」

 

ラリサが笑った。いつもの調子だ。根拠がなくても大丈夫と言い切れるのがラリサの強さだと思う。

 

でも、すぐに笑みが消えた。

 

水面を見つめている。足元の水溜まりに映る自分の顔を見ているのか、もっと遠くを見ているのか。いつもと違うラリサだった。このところずっとそうだ。山道で黒斑病の痕跡を見るたびに曇っていた顔。何か言いかけてはやめていたあの間。

 

「フェズさん」

 

ラリサが言った。声が少し低い。

 

「試練が終わったら、話したいことがあるんです」

 

「・・・え?」

 

「今じゃなくていいです。フェズさんが祠印を取ってからで」

 

ラリサの目が真っ直ぐこっちを向いていた。明るいラリサではなく、何かを決めたラリサの顔だった。

 

「何の話?」

 

「後で。まずはフェズさんの試練が先です」

 

ラリサが笑った。今度の笑顔はいつもの明るさに近い。でも完全には戻りきっていない。

 

聞きたかった。何を話したいのか。でもラリサが「後で」と言うなら、今は聞けない。

 

「・・・分かった。終わったら聞く」

 

「はい! 約束ですよ!」

 

ラリサが指を立てた。約束の仕草。俺も同じように指を立てた。

 

カルンが二人の指を見比べて、首を傾げていた。

 

---

 

どれだけ待っただろう。

 

太陽が高い位置から少し傾きかけた頃、水のカーテンが大きく揺れた。

 

ルセが出てきた。

 

全身びしょ濡れだった。髪が額に張り付いて、息が荒い。膝が少し震えている。相当消耗したのが見て取れた。

 

でも、右手に何かを持っていた。小さな金属片。水の光を反射して、冷たく輝いている。

 

祠印だ。

 

「ルセさん! 取れたんですか!?」

 

ラリサが駆け寄った。ルセがふらつきながらも笑った。

 

「きっつかった・・・。でも取った」

 

ルセが祠印を持ち上げて見せた。疲労で腕が震えているが、顔は満足そうだ。

 

「中、どうだった?」

 

俺が聞いた。知りたかった。でもルセは首を振った。

 

「自分で確かめな。あたしが言ったら意味ないでしょ」

 

「・・・それはそうだけど」

 

「一つだけ言える。水の中で戦うのはきつい。足が取られる。呼吸が苦しい。でも——」

 

ルセが少し考えた。

 

「あいつは殺しに来てるわけじゃない。試してる。だから、最後まで諦めなければ道は見える。たぶんね」

 

ルセが座り込んだ。ピカがルセの肩でぐったりしている。精霊も疲れ切っている。光がいつもの半分くらいしかない。

 

「ルセさん、お疲れ様です! お水飲んでください!」

 

ラリサが水筒を渡した。ルセが一気に飲み干した。それから二つ目も。服から水が滴って、足元に小さな水溜まりができていた。

 

「・・・ルセ、怪我は」

 

「大丈夫。ちょっとぶつけたけど、たいしたことない」

 

ルセが左肩を動かした。痛そうだが、本人は気にしていない様子を装っている。

 

俺はルセを見ていた。

 

あのルセが、ここまで消耗している。カンティレで黒斑病の精霊を一太刀で仕留めたルセが。山道で鳥型の精霊と正面から渡り合ったルセが。膝を震わせて戻ってきた。

 

それだけ厳しい試練だということだ。

 

腹の底が冷たくなる。

 

ルセですらこうなるなら、俺はどうなる。

 

カルンが俺の肩で身じろぎした。光が少し揺れている。不安と、それでも行くしかないという覚悟が混じった揺れ方。

 

俺も同じだった。

 

でも、行かなければ始まらない。

 

剣の柄を握った。手のひらが汗ばんでいる。トルニオの言葉が頭をよぎった。「お前では守れない」。あの日から、ここに来るまで。全部、このためだ。

 

立ち上がった。

 

「行ってくる」

 

ラリサが振り返った。ルセも顔を上げた。

 

「フェズさん、頑張ってください! フェズさんなら絶対大丈夫です!」

 

ラリサの声がいつもの明るさに戻っていた。拳を握って、全力で応援している。あの根拠のない「大丈夫」が、不思議と少しだけ胸に届いた。

 

ルセが何も言わずに頷いた。一つだけ、小さく口角を上げた。さっきまで疲労で座り込んでいた人間とは思えない、強い目だった。

 

カルンが俺の肩にしっかりとしがみついた。怖い。でも行く。そう言っている。

 

「・・・行こう、カルン」

 

水のカーテンに向かって歩いた。

 

アーチの前に立つと、水の飛沫が顔にかかった。冷たい。向こう側は暗く、水の音だけが奥から反響してくる。

 

振り返らなかった。振り返ったら、足が止まりそうだった。

 

水をくぐった。

 

冷たい水が頭から全身を伝った。一瞬、何も見えなくなった。水音が耳を塞いで、外の音が遠くなる。

 

暗い。水の音だけが響いている。

 

試練が、始まる。

 

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