歌姫と共に   作:ぶるうず

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試練・前

水のカーテンの向こうは、別の世界だった。

 

目が慣れるまで数秒かかった。暗いと思っていたが、違う。天井の隙間から光が差し込んでいて、それが水面に反射して、壁一面に揺れる模様を描いている。光の粒が壁を這い、ゆらゆらと形を変え続けている。

 

広い。

 

想像していたよりずっと広かった。祠の外見からは考えられないほどの空間が奥に伸びている。半地下の石造りの広間。壁は苔むした灰色の岩。そして床一面に——水が張っていた。

 

膝丈まである。

 

一歩踏み出すと、水が重たく足に絡みついた。冷たい。足首から膝までがじんと痺れる。水底は石の床だが、苔が生えていて滑りやすい。

 

カルンが肩の上で身を縮めた。水面が近いのが嫌なのか、光が弱く明滅している。

 

「大丈夫。・・・たぶん」

 

たぶん、は余計だった。自分に言い聞かせているだけだ。

 

水音が反響している。自分の足が立てる波の音。天井から落ちる雫の音。それが壁に跳ね返って、空間全体が低く唸っている。

 

奥に、何かがいた。

 

空間の一番奥。天井からの光が最も集まる場所に、巨大な水の塊が浮いている。

 

人の背丈の二倍はある。透き通った水が球体のようにまとまり、ゆっくりと形を変えている。水柱が伸びては引っ込み、波紋が表面を走り、時おり内部で光が弾ける。生きている。水が、意志を持って動いている。

 

水の大精霊。

 

息を呑んだ。カルンがしがみつく力が強くなった。

 

大精霊が動いた。水の塊が揺れて、表面に波紋が走る。その波紋が水面を伝わってきた。足元の水が震えた。振動が足裏から骨を伝って、頭の中に直接響く。

 

言葉ではない。意味だけが流れ込んでくる。

 

——試す。来い。

 

短い。それだけだった。

 

でも、それだけで十分に分かった。この精霊は俺を見ている。値踏みしている。ルセの言葉が頭をよぎった。「殺しに来てるわけじゃない。試してる」。

 

そうだ。これは試練だ。

 

剣の柄を握った。手のひらの汗が水に流された。

 

「・・・行くよ、カルン」

 

カルンが頷くように光を揺らした。怖い。でも、行く。

 

---

 

踏み込んだ。

 

水を蹴って前に出る。膝丈の水が重い。走れない。普段の半分も速度が出ない。それでも剣を構えて、大精霊との距離を詰めた。

 

斬りかかった。

 

手応えがない。

 

剣が水の塊を通り抜けた。水を斬っただけだ。刃が空気を切るのと同じ——いや、もっと虚しい。水が一瞬裂けて、すぐに塞がった。何も残らない。

 

大精霊が腕のようなものを振った。水面が隆起した。壁だ。膝の高さだった水が、一瞬で俺の背丈を超える壁になって目の前に立ちはだかった。

 

「っ——」

 

横に跳ぶ。水の中では踏み切りが効かない。体が半分しか動かず、壁の端をかすめた。水が肩を叩いた。重い。ただの水のはずなのに、鉄の塊にぶつかったような衝撃が走る。

 

体勢を立て直す前に、次が来た。

 

水の槍。

 

四方八方から——いや、水面の下から突き上げてきた。足元の水が刃のように鋭く伸び上がる。一本、二本、三本。躱す。体を捩る。水の中で足を滑らせながら、なんとか避ける。

 

遅い。動きが遅い。地上ならもっと速く動ける。水が全身にまとわりついて、一歩ごとに力を吸い取っていく。

 

四本目の槍が脇腹をかすめた。切れたわけではない。水の衝撃だ。それでも内臓が揺れるような痛みが走った。

 

「カルン!」

 

共鳴を試みた。カルンの力を借りる。音の衝撃波——トルニオの下で何度も練習した、俺とカルンの切り札。

 

カルンが応えた。光が膨らみ、俺の体に共鳴の震えが広がる。音が生まれた。空気を裂く衝撃波が大精霊に向かって——

 

水に吸われた。

 

衝撃波が水面に触れた瞬間、波紋になって拡散した。エネルギーが四方に散って、ただの波になった。水しぶきが舞い上がっただけだ。大精霊には届いていない。

 

水の中では、音が伝わらない。いや、伝わりすぎる。空気中なら一方向に集中する衝撃波が、水の中では全方向に拡散してしまう。威力が散る。

 

大精霊は動じていなかった。水の塊が微かに揺れただけ。痛くも痒くもない、という感じだった。

 

「・・・嘘だろ」

 

足が重い。息が荒い。まだ始まったばかりだ。なのにもう、手詰まりが見えていた。

 

---

 

もう一度仕掛けた。

 

今度は正面からじゃない。大精霊の左側に回り込むように水を掻き分けて走る。水が邪魔だ。膝に絡みつく水が、一歩ごとに足を引き戻そうとする。

 

それでも走った。剣を低く構えて、大精霊の側面から斬り上げる。

 

水の塊が形を変えた。斬りかかった場所だけがぽっかりと抜けて、刃が空を切る。手応えのなさに前のめりになった体を、横からの水流が押し戻した。膝が折れる。水面に手をついた。

 

立ち上がって、また仕掛ける。今度は足元の水を蹴り上げて目眩ましにしながら、背後に回り込もうとした。

 

無意味だった。大精霊に背後という概念がない。水の塊は全方向に目がある。俺が動けば水面の振動で位置が分かるのだろう。回り込む前に水流が足を掬い、転倒させられた。

 

顔が水に沈む。鼻と口に水が入った。咳き込みながら起き上がる。水が肺の入口まで来ていた。

 

三度、四度と共鳴を試した。カルンが懸命に応えてくれる。光を膨らませ、俺の体に力を注いでくれる。音の衝撃波を放つ。角度を変えて。距離を変えて。水面ぎりぎりを狙って。

 

でも結果は同じだ。衝撃波は水に触れた瞬間に拡散して、大精霊に届かない。威力が十分の一にもなっていない。水面にぱしゃんと波紋が広がるだけ。

 

カルンの光が翳り始めていた。何度も共鳴に応えてくれたせいで、消耗が見える。それでもカルンは俺の肩にしがみついて、光を灯し続けている。

 

地形を見渡す——癖だった。どんな状況でも、まず周りを見る。使えるものを探す。壁の凹凸、天井の出っ張り、足元の段差。普段の俺なら何かを見つける。何かを使って、正面からぶつからなくても戦える方法を組み立てる。

 

何もなかった。

 

水。ただ水だ。壁は滑らかな石で手がかりがない。天井は高すぎて届かない。足元は一面の水。遮蔽物がない。段差がない。隠れる場所がない。追い込む角がない。

 

水一色。

 

俺の得意な「環境を使う」戦い方が、ここでは何の意味も持たない。

 

トルニオの下で学んだのは、正面から力でねじ伏せる戦い方じゃなかった。ルセのように正統派の剣で圧倒することも、ラリサのように精霊の力で叩き潰すこともできない。だから環境を使った。地形を読み、相手を追い込み、少ない力で最大の効果を出す。それが俺の戦い方だった。

 

ここにはそれがない。

 

水流が横から来た。

 

見えていた。でも足が動かなかった。水の中で踏ん張ろうとした足が滑って、避けきれなかった。太い水の腕のようなものが横殴りに叩きつけてきた。体が浮いた。一瞬の浮遊感のあと、背中が石壁にぶつかった。

 

「がっ——」

 

背中から肩にかけて、鈍い痛みが走った。石壁が硬い。視界が白く飛んで、一瞬だけ意識が揺れた。後頭部を打たなかったのは運がよかっただけだ。

 

水がすぐに追い打ちをかけてくる——と思ったが、来なかった。

 

水流が引いていく。大精霊はそこにいる。水の塊がゆっくりと揺れている。追い打ちしない。止めを刺さない。

 

試しているのだ。

 

まだ見ている。俺が何をするか、見ている。

 

壁に背をつけたまま、膝をついた。水が胸の高さまで迫っている。いや、水位が上がったわけじゃない。俺が沈んだのだ。

 

肩が痛い。息が苦しい。カルンが俺の首元でしがみついている。光が不安定に明滅していた。カルンも消耗している。共鳴を何度も試みたせいだ。

 

「・・・カルン、ごめん」

 

カルンが首を振った。謝るな、と言うように。

 

大精霊の方を見た。巨大な水の塊が、変わらずそこに浮いている。最初と何も変わっていない。俺が何回斬っても、何回共鳴を放っても、かすり傷一つ負っていない。

 

ルセはこれに勝った。あのルセでも膝が震えるほど消耗して、それでも勝った。

 

ルセは正面から戦える。圧倒的な剣の技術と判断力がある。正面突破で活路を開ける人間だ。

 

俺はそうじゃない。

 

正面から挑んでも通じない。共鳴も封じられた。環境を使う戦い方も使えない。

 

・・・勝てるのか。こいつに。

 

水面に映る自分の顔が歪んでいた。息が荒い。前髪が張り付いて、目元に水が垂れている。みっともない顔だ。

 

水が震えた。

 

大精霊の「声」が、再び振動として伝わってきた。足元から骨を通って、頭の中に意味が落ちてくる。

 

——終わりか。

 

問いかけだった。まだ試練を打ち切ってはいない。問うている。お前はここまでか、と。

 

歯を食いしばった。

 

終わりじゃない。まだ負けてない。——でも、勝てる手段が見えない。

 

剣は通らない。共鳴は水に吸われる。環境を使う戦い方は封じられている。

 

手持ちの全部が通用しない。

 

膝が水底の石にめり込んでいた。体を起こそうとして、腕が震えた。

 

カルンが俺の顔を見ている。丸い目が揺れている。不安。でもその奥に、まだ信じているという光がある。俺がまだ立つと思っている。

 

・・・立つよ。

 

ゆっくりと立ち上がった。膝が笑っている。肩が重い。水が体にまとわりついて、倍以上の重さに感じる。

 

大精霊がそこにいる。変わらず、巨大な水の塊がゆらゆらと揺れている。

 

俺の頭は、まだ回っている。

 

環境が使えない。周りには水しかない。俺の得意なやり方がここでは通じない。それは分かった。嫌というほど分かった。

 

でも。

 

目の前にあるのは水だ。水しかない。何もない——いや、水がある。

 

環境が使えない。

 

なら——。

 

カルンを見た。カルンが俺を見返した。

 

環境が使えないなら。

 

頭の中で、何かが繋がりかけた。まだ形になっていない。霧の向こうに光が見えるような、そんな感覚だ。

 

環境がないなら、環境を——作ればいい。

 

水面が揺れていた。大精霊が、静かに待っていた。

 

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