環境がないなら、作ればいい。
頭の中で言葉が回った。水の中で膝をついたまま、目の前の巨大な水の塊を睨む。大精霊は急かさない。待っている。俺がまだ動くかどうかを、見ている。
水。周りにあるのは水だけだ。壁も段差も死角もない。俺の得意な環境利用が通じない場所。
でも——水がある。
考えろ。水は環境じゃないのか。敵の領域だから使えないと決めつけたのは俺だ。水だって環境の一部だろう。足元の水も、壁を伝う水も、天井から落ちる雫も、全部この場を構成している。
使えないんじゃない。使い方を間違えていた。
正面からぶつかろうとした。衝撃波をぶつけた。剣で斬りかかった。全部、水の中でやるべきことじゃなかった。水を無視して戦おうとしていた。水に逆らっていた。
ラリサとの組み手を思い出した。修行の時、正面から勝てないと分かった瞬間に足場の悪い場所に引きずり込んだ。環境を変えるのではなく、今ある環境を味方にした。
同じだ。ここでも同じことをすればいい。
水を味方にする。
でも、どうやって。剣で水は操れない。精霊を使って水を動かす力もない。俺にあるのはカルンとの共鳴だけで、その衝撃波は水に拡散して無力化される。
・・・衝撃波は。
立ち上がった。膝が笑っている。肩が痛む。でも頭は動いている。
衝撃波は拡散する。水の中では音が全方向に広がって、一点に集中できない。だから威力が散る。水に吸われる。
じゃあ、散らさなければどうなる。
修行の時に一瞬だけ起きたことを思い出していた。カルンが旋律を奏でた、あの瞬間。衝撃波の形が変わった。拡散ではなく指向性を持った。ただの破裂音じゃなく、音に方向があった。
あの時は再現できなかった。何が起きたのかも分からなかった。ラリサが「歌に近かった」と言っていた。衝撃波じゃなく、旋律。
「カルン」
肩の上のカルンに声をかけた。カルンが顔を上げる。光が弱い。消耗している。何度も共鳴に応えてくれたせいだ。それでもカルンの目は俺を見ている。
「もう一回、やってみよう。・・・前に一回だけ出た、あれ」
カルンの目が揺れた。覚えている。あの時のことを。
あの旋律が、衝撃波に方向を与えた。音の形を変えた。水の中で衝撃波が拡散するなら——旋律はどうだ。方向を持った音なら、水の中でも散らないんじゃないか。
もっと言えば。
水は音を伝える。空気よりもずっと速く、ずっと遠くまで。衝撃波は水に吸われた。でもそれは、水が音を殺したんじゃない。水が音を広げすぎたのだ。
なら、音の形を変えればいい。拡散するような破裂音じゃなく、方向と形を持った音——旋律なら、水はむしろ味方になるんじゃないか。
水に音を乗せる。
カルンが頷いた。不安そうだ。でも、信じている。俺がまだ何かをすると信じてくれている。
「・・・いくよ」
共鳴を始めた。
カルンの温もりが体に流れ込む。消耗した体に力が戻る。音が鮮明になる。水の音。雫の音。大精霊の水の塊がゆらりと揺れる低い音。全部が聞こえる。
拳を握った。衝撃波を——いや、違う。衝撃波じゃない。
音を、水に乗せる。
意識を変えた。叩きつけるんじゃなく、流す。ぶつけるんじゃなく、伝わらせる。水は音を運ぶ。その流れに逆らわず、乗せる。
拳を前に突き出した。
失敗した。衝撃波が水面を叩き、波紋が広がるだけ。さっきまでと同じだ。
「・・・もう一回」
もう一度。意識を集中する。水に音を乗せる。水の流れに沿って音を送る。
二度目も失敗した。衝撃波が拡散して、水しぶきが上がっただけ。
体が傾いた。疲労で足元が覚束ない。水底の苔に足を取られて膝が沈んだ。冷たい水が腰まで浸かった。
三度目。
カルンが光を揺らした。
微かな音が聞こえた。
衝撃波じゃない。カルンの体から漏れた、あの旋律。修行の時に一瞬だけ聞こえた、あれだった。楽器とも声とも違う。澄んだ音。壊れものみたいに繊細で、でも芯がある。
カルンも覚えていたのだ。あの感覚を。再現できなかった。でも忘れてはいなかった。
旋律が俺の体を通って、腕に流れ込む。
——これだ。
拳を振った。
音が変わった。
破裂音じゃない。振動だ。拳から放たれた音がカルンの旋律を纏って、水面に触れた瞬間——拡散しなかった。水面を走る波紋が、一方向に伸びた。水が音を吸い込むのではなく、音が水を伝っていく。波紋が指向性を持って大精霊に向かって広がる。
大精霊の水の塊が、微かに揺れた。さっきまで微動だにしなかったあの巨体が。
——届いている。
心臓が跳ねた。カルンの光がぱっと強まった。
まだ足りない。今のは水を伝わっただけだ。大精霊にかすめただけ。でも方向は見えた。衝撃波を水に叩きつけるんじゃない。旋律を水に乗せる。水を媒体にして、音を送り届ける。
もう一度。
カルンに意識を合わせた。共鳴の震えが体の中で音を探している。カルンの旋律に耳を澄ます。微かな、壊れそうな音だ。カルンも限界が近い。
でもカルンが応えてくれる。音が生まれる。
今度は拳じゃなく、足元の水に手を触れた。水面に指先が沈んだ瞬間、共鳴の振動を流し込んだ。
水面が震えた。
俺の足元から波紋が広がる——ただの波紋じゃない。音の振動が水を伝わり、水面が共鳴している。カルンの旋律が水全体に染み渡っていく。
足元の水が変わった。
水面が盛り上がり、一瞬だけ硬くなった。踏める。水を操ったわけじゃない。音の振動で水面の張力が一時的に跳ね上がったのだ。ほんの一瞬——一歩分だけ。
その一歩を蹴った。
水面を蹴って跳ぶ。水の中でもがいていた足が、初めてこの環境を味方につけた。体が宙に浮く。大精霊との距離が一息で縮まる。
剣を抜いた。柄を握る手にカルンの共鳴が震えている。刃が微かに振動していた。音の振動を纏った剣。
大精霊が水の壁を出した。俺の前に立ちはだかる、分厚い水の障壁。さっきはここで止められた。剣が水を素通りして手応えがなかった。
今は違う。
刃に乗った振動が水の壁に触れた瞬間、壁が裂けた。音の振動が水の結合を瞬間的に乱したのだ。完全に切れたわけじゃない。壁に亀裂が走って、体を通せるだけの隙間ができた。
通った。
大精霊の核が目の前にあった。巨大な水の塊の中心。水が渦を巻いている場所。ここだ。
剣を振った。
一太刀。
---
静かになった。
大精霊の水の塊が動きを止めていた。波紋が消え、水柱が沈み、表面の揺らぎが穏やかになっていく。
祠全体が変わった。さっきまで荒れ狂っていた水面が鏡のように凪いでいる。天井からの光が水面に反射して、空間全体がぼんやりと青白く輝いている。光の模様が壁をゆっくりと這っている。
幻想的だった。試練の最中には気づく余裕もなかった景色が、今は目に入る。
水の中に立っていた。剣を振り抜いた姿勢のまま。腕が上がらない。指が柄から離れない。握力が尽きて、逆に離せなくなっている。
息がまともに吸えなかった。肩で呼吸している。体中が痛い。背中を壁に叩きつけられた時の鈍痛がまだ残っていて、膝は水の中で何度も転んだせいで感覚が薄い。
カルンが肩の上でぐったりしていた。光が消えかけている。薄い、ほとんど見えないような明滅だけが残っている。共鳴の消耗で限界だった。
大精霊が動いた。水の塊がゆっくりと形を変える。攻撃じゃない。水が凝縮して、人の上半身のような輪郭を取った。顔はない。でも、こちらを見ている。
水が震えた。振動が足元から伝わってくる。大精霊の「声」だ。
——水を敵にせず、水を使った。面白い子だ。
声じゃない。言葉でもない。でも意味がはっきりと流れ込んでくる。さっきの「試す」「終わりか」よりずっと長い。大精霊が初めて、試す以外の意志を見せている。
——力で押さなかった。流れを読んだ。それがお前の形か。
・・・認めてくれているのだ。
大精霊が水の中から何かを差し出した。水の腕が伸びて、開いた掌の上に小さな金属片が乗っている。
祠印。
鉛色の金属片。親指の爪ほどの大きさ。表面に水の波紋を象った紋様が刻まれている。大精霊の魔力が込められているのだろう。触れる前から冷たい気配が伝わってきた。
手を伸ばした。腕が重い。指が震えている。疲労で、ではなく——たぶん、それだけじゃなく。
祠印を受け取った。
手のひらの中で、冷たい金属が光を弾いた。水面の反射を拾って、青白い光の粒が掌の上で揺れている。
最初の祠印。
嬉しいとか、やったとか、そういう気持ちよりも先に、安堵が来た。終わった。生き残った。ここまで来れた。膝から力が抜けそうになるのを堪えた。
水が再び震えた。
——水は流れの中にこそ力がある。型にはまるな。お前もそうだ。
大精霊の「声」が遠ざかっていく。水の塊が溶けるように広がり、祠の水に還っていく。形が崩れ、人の輪郭が消え、やがてただの水に戻った。
試練が終わった。
カルンが俺の手の上の祠印に顔を寄せた。消耗で光がほとんど残っていない。でも祠印に触れた瞬間、ぽわっと温かい光が灯った。一瞬だけ。嬉しいのだ。
「・・・やったな、カルン」
声が掠れた。喉が渇いている。水の中にいるのに、喉がからからだ。
カルンが顔を上げた。小さな目が潤んでいるように見えた。精霊が泣くのかは知らない。でもカルンの光がじわっと滲むように揺れた。
「お前のおかげだよ。あの旋律がなかったら、俺は・・・」
カルンが首を振った。違う、と言うように。お前の力だ、と。
笑おうとしたけれど、顔が上手く動かなかった。疲労で表情筋が死んでいる。口角だけが少しだけ上がった。
祠印を握り締めた。冷たくて硬い。確かな感触だ。
水のカーテンが見えた。入ってきた時の出口だ。光が差し込んでいる。外の光だ。
足を引きずった。一歩が重い。水の中を歩くのがこんなに辛いのは、もう力が残っていないからだ。
カルンが肩の上にしがみついている。俺が揺れるたびに小さな手がしがみつく力を強くする。
水のカーテンをくぐった。冷たい水が顔を洗って、視界が一瞬白くなった。
光が眩しかった。
祠の外だ。水紋の谷の日差しが目を刺す。暗い祠の中にいた目には強すぎる。手をかざした。
「フェズさん!」
ラリサの声が聞こえた。駆け寄ってくる足音。水を蹴散らす音。
「おめでとうございます、フェズさん! 祠印、取れたんですね!」
ラリサが俺の手を掴んだ。祠印を握った手を。目がきらきらしている。いつもの笑顔。
「やるじゃん」
ルセの声が後ろから聞こえた。岩に腰かけたまま、軽く手を上げている。簡潔だけれど、否定はしていない。ルセなりの認め方だ。
「・・・ありがとう」
それだけ言うのがやっとだった。膝が折れた。ラリサが慌てて支えてくれた。
「だ、大丈夫ですか! 座りましょう、こっちに!」
ラリサに引きずられるようにして岩場に座った。背中を岩にもたれかけると、全身から力が抜けた。
もう一歩も動けない。
カルンが俺の膝の上に降りた。丸まって、光を弱く灯している。俺の手のひらに頬を寄せて、目を閉じた。眠い。限界だったのだ。ずっと共鳴に応えてくれていたから。
「お疲れさま、カルン」
カルンがかすかに光を揺らした。それきり、静かになった。眠ったらしい。
手のひらの中の祠印が、午後の日差しを反射していた。冷たい金属が少しずつ手の温度に馴染んでいく。
最初の祠印。五つのうちの一つ。まだ先は長い。
でも今は、ただこの重さを感じていたかった。
ラリサが水筒を差し出してくれた。受け取ろうとして、指が動かなかった。握力が戻らない。ラリサが笑って、口元まで運んでくれた。
水が喉を通った。冷たくて、甘かった。
ルセがこっちを見ている。何か言いたそうにしていたけれど、結局何も言わずに空を見上げた。
穏やかな時間だった。水紋の谷を流れる清流の音が、遠くで響いている。
ラリサが俺の隣に座った。いつもの明るい笑顔。でもその奥に、何か別のものが滲んでいるのを——疲れた頭の片隅で感じていた。