歌姫と共に   作:ぶるうず

18 / 81
別離

どれくらいそうしていたか分からない。

 

気がつくと日が傾いていた。水紋の谷を流れる清流が西日を弾いて、岩肌が橙色に染まっている。カルンは膝の上で眠ったままだった。微かな光が寝息のように明滅している。

 

体のあちこちが痛む。背中、肩、膝。でも祠印を握った手だけは、まだ放せなかった。

 

ラリサが水を飲ませてくれた後、三人で祠のそばの岩場に座って試練の話をした。ルセが聞きたがったのだ。

 

「水に音を乗せた?」

 

ラリサが目を丸くした。

 

「衝撃波が水に吸われるから、カルンの旋律を使って・・・振動の形を変えたっていうか。水面が一瞬だけ硬くなって、足場になった」

 

「そんなの聞いたことないです。音を水に・・・? 衝撃波って拡散するのが当たり前で、方向性を持たせるなんて理論上は分かりますけど、実際にやったっていうのは・・・」

 

ラリサが早口になっている。興奮すると止まらなくなる癖だ。身を乗り出して、手振りまで大きくなっている。

 

「まあ、あたしは正面から行ったけどね」

 

ルセが横から口を挟んだ。岩に頬杖をついて、興味はあるけれど深入りはしないという態度だ。

 

「正面からクリアするルセさんが異常なんですよ!」

 

「異常って何。褒めてる?」

 

「褒めてます!」

 

ラリサとルセのやり取りを聞きながら、少し笑った。この二人のテンポはいつも速い。

 

しばらくそうやって話していた。カルンは膝の上で丸まったまま起きなかった。共鳴の消耗が深い。でも光の色は穏やかで、安心して眠っているのが分かった。

 

話が一段落した時だった。

 

ラリサの表情が変わった。

 

笑顔が消えたのではない。笑っているのだけれど、いつもの勢いがなくなった。考え込むような、覚悟を決めるような顔。

 

祠の前で言っていた言葉が蘇った。「試練が終わったら、話したいことがある」と。

 

「・・・ラリサ」

 

「はい。さっき言った話、していいですか」

 

分かっていた。薄々気づいていた。この何日か、ラリサの様子がおかしかったことを。街道で黒い染みを見つけるたびに表情が曇っていたことを。何か言いかけては口をつぐんでいたことを。

 

頷いた。カルンが膝の上で身じろぎした。眠りが浅くなっている。ラリサの声の変化を感じ取ったのかもしれない。

 

ラリサがフェズの正面にしゃがんだ。目を合わせる。いつもは少し上を向いてきらきら笑っている目が、今は真っ直ぐにこちらを見ていた。

 

「道中で見てきたもの、覚えてますよね。黒斑病の痕跡」

 

「うん。木の幹の黒い染み。暴れた精霊。どんどん増えてた」

 

「そうです。グラーヴェの近くで見た時はまだ散発的だったのに、カンティレを過ぎたあたりから一気に増えました。この街道沿いだけじゃなくて、たぶん大陸のもっと広い範囲で同じことが起きてます」

 

ラリサの声はいつもより低かった。天才肌で説明が下手で、「ぐわっとやるんです!」で済ませることが多いラリサが、今は言葉を選んでいる。

 

「師匠に頼まれていたんです。旅の途中で黒斑病の状況を調べてほしいって」

 

やっぱりか、と思った。ラリサがただの付き添いで来ているわけがなかった。トルニオの弟子として、もっと大きな役割を背負っていたのだ。

 

「でも想像以上でした。この規模の拡大は普通じゃないです。精霊が暴走する頻度も、範囲も、水紋の谷に近づくにつれてどんどん酷くなっていた。カンティレの宿の主人が言ってた暴れる精霊の話、覚えてますか。あれだけじゃ済まなくなると思います」

 

ラリサが膝の上で拳を握った。

 

「私、これを調べに行きます。師匠のところに戻って報告して、それから・・・原因を突き止めたい」

 

言葉が途切れた。

 

沈黙が降りた。清流の音と、遠くで水の精霊が跳ねる音だけが聞こえた。

 

つまり——ここで別れるということだ。

 

分かっていた。分かっていたけれど、口にされると胸が詰まった。グラーヴェを出てからずっと一緒だった。野営の仕方を教えてもらった。火を起こせなくて笑われた。水場の見つけ方を教わった。精霊が群れる場所の見分け方も。

 

旅のすべてを、ラリサから学んだ。

 

「・・・いつ戻ってくるの」

 

声が小さくなった。自分でも情けないと思った。

 

「分かりません」

 

ラリサがはっきりと言った。誤魔化さなかった。

 

「でも必ず戻ります。フェズさんが全部の祠を回り終わる前には、絶対」

 

ラリサが笑った。ようやくいつものラリサに近い顔だった。でも目の端が少し赤い。

 

何か言わなければと思った。引き止めたいわけじゃない。ラリサが黒斑病を調べなければいけないことは分かる。あの黒い染みが広がっていく様子を見てきた。ラリサにしかできない仕事だ。トルニオの弟子として、精霊使いとして、ラリサの知識がなければ原因にたどり着けない。

 

分かっている。分かっているのに、言葉が出てこない。

 

「フェズさん」

 

ラリサが立ち上がった。今度は笑っていた。いつもの、あの笑顔だった。

 

「もう大丈夫です」

 

その一言が、胸に刺さった。

 

刺さった、というのは違う。染み込んだ。

 

もう大丈夫。ラリサが俺を心配していた。ずっと。グラーヴェで初めて会った時から。一人じゃ何もできないフェズを見て、この子は大丈夫なのかと思っていたはずだ。旅の基本を叩き込んで、野営の失敗を笑って、戦い方を一緒に考えて。全部、心配だったからだ。

 

その心配が、信頼に変わっている。

 

「旅の仕方も覚えましたよね。野営も一人でできます。精霊の多い地帯の避け方も、水場の探し方も。・・・それに試練もクリアしました。水の大精霊に認められたんです。一人でもやれます」

 

ラリサが指を折って数えている。いつもの癖だ。何かを説明する時に指を使う。

 

「ラリサ・・・」

 

「お礼はいいですよ!」

 

遮られた。ラリサが両手を振った。

 

「お礼なんて言われたら、私が泣いちゃうじゃないですか!」

 

笑いながら言った。目が潤んでいるのに、声は明るい。このラリサのずるいところだ。泣きそうな時ほど笑う。

 

「・・・ありがとう、ラリサ。色々教えてくれて」

 

結局言った。言わずにはいられなかった。

 

ラリサが一瞬だけ黙った。唇を噛んだ。それから、ふっと息を吐いて笑った。

 

「その代わり! 次に会った時にはもっと強くなっておいてくださいね! 約束です!」

 

ラリサが右手を差し出した。

 

その手を見た瞬間、グラーヴェでの日々が一気に蘇った。修行中、何度も差し出された手。転んだ時も、共鳴に失敗した時も、ラリサはいつも手を差し出してくれた。

 

今は違う。立ち上がるための手じゃない。対等な手だ。

 

握った。ラリサの手は小さくて、でも力が強かった。嵐の精霊を操る手だ。この手で何人もの人を助けてきた手だ。

 

「約束する」

 

「はい!」

 

ラリサの声が跳ねた。いつもの声だ。

 

膝の上で、カルンが目を覚ました。

 

ラリサとフェズの手が重なっているのを見て、小さく首を傾げた。それから何かを理解したように、ふわりと浮き上がった。

 

カルンがラリサの手にちょこんと乗った。

 

小さな手でラリサの指を掴んで、顔を寄せた。額をラリサの手の甲に押し当てる。光がぽわっと温かくなった。

 

ラリサが息を呑んだ。

 

「カルン・・・」

 

三ヶ月前のカルンならこんなことはしなかった。人間に怯えて、フェズの外套の中に隠れていた。知らない人間に近づくことすらできなかった。

 

今、カルンは自分からラリサに触れている。

 

「ありがとう、カルン」

 

ラリサが小さく言った。声が掠れていた。指先でカルンの頭を撫でた。カルンが目を細めた。

 

ルセは少し離れた岩の上に座っていた。こちらを見ていたが、何も言わなかった。足をぶらぶら揺らしながら、谷の向こうを眺めている。口を挟まない。挟めないのかもしれない。まだそこまでの関係ではないのだ。ルセなりの距離の取り方だった。

 

カルンがラリサの手から離れて、フェズの肩に戻った。

 

ラリサが荷物を背負い直した。嵐の精霊がラリサの周りでそわそわと風を巻いている。主人が動くことを察しているのだ。

 

「じゃあ、行きますね」

 

ラリサが背を向けた。南東の方角。グラーヴェへ続く道。来た道を戻るのだ。

 

三歩ほど歩いて、ラリサが振り返った。

 

「フェズさん!」

 

「なに」

 

「私、フェズさんの試練の話、師匠にします! 水を音で味方にしたって言ったら、師匠きっとすごい顔しますよ! あの人が驚く顔、見たことないでしょう!」

 

笑っていた。泣いてはいなかった。目が少し赤かったけれど、泣いてはいなかった。

 

「・・・楽しみにしてる」

 

「はい!」

 

ラリサが手を振った。大きく、何度も。嵐の精霊がラリサの足元で風を起こし、マントがばさばさとはためいた。

 

「カルンもね! 元気でね!」

 

カルンが肩の上で光を揺らした。ぱっ、ぱっ、と二回。手を振る代わりの、カルンなりの挨拶だった。

 

ラリサが前を向いた。今度は振り返らなかった。

 

背中が小さくなっていく。夕日に照らされたラリサの影が岩肌に長く伸びて、やがて渓谷の曲がり角に消えた。

 

風がやんだ。嵐の精霊が巻いていた風が消えて、谷に静寂が戻った。

 

清流の音だけが残った。

 

しばらく、動けなかった。

 

「・・・行ったな」

 

独り言だった。カルンが肩の上で頬を寄せてきた。俺の気持ちが分かっているのだろう。共鳴しなくても、もうそのくらいは伝わる。

 

隣に足音がした。ルセが岩から降りて、フェズの横に来ていた。

 

ルセは何も言わなかった。一緒にラリサが消えた方角を見ていた。

 

風が凪いだ谷に、清流だけが流れている。

 

師匠はいない。姉弟子もいない。フェズの隣にはカルンだけがいる。

 

——いや。もう一人。

 

ルセが視線を戻した。フェズを見る。何か言おうとして、口を開いて、閉じた。それから、ぽつりと言った。

 

「・・・明日は早いよ。もう寝な」

 

それだけ言って、野営の準備に戻った。

 

手のひらの祠印を見た。冷たい金属が、夕日の最後の光を弾いていた。

 

ルセの背中を眺めた。荷物を降ろして、手際よく火を起こしている。何も聞かない。何も言わない。でもここにいる。

 

不思議と、悪くない気分だった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。