どれくらいそうしていたか分からない。
気がつくと日が傾いていた。水紋の谷を流れる清流が西日を弾いて、岩肌が橙色に染まっている。カルンは膝の上で眠ったままだった。微かな光が寝息のように明滅している。
体のあちこちが痛む。背中、肩、膝。でも祠印を握った手だけは、まだ放せなかった。
ラリサが水を飲ませてくれた後、三人で祠のそばの岩場に座って試練の話をした。ルセが聞きたがったのだ。
「水に音を乗せた?」
ラリサが目を丸くした。
「衝撃波が水に吸われるから、カルンの旋律を使って・・・振動の形を変えたっていうか。水面が一瞬だけ硬くなって、足場になった」
「そんなの聞いたことないです。音を水に・・・? 衝撃波って拡散するのが当たり前で、方向性を持たせるなんて理論上は分かりますけど、実際にやったっていうのは・・・」
ラリサが早口になっている。興奮すると止まらなくなる癖だ。身を乗り出して、手振りまで大きくなっている。
「まあ、あたしは正面から行ったけどね」
ルセが横から口を挟んだ。岩に頬杖をついて、興味はあるけれど深入りはしないという態度だ。
「正面からクリアするルセさんが異常なんですよ!」
「異常って何。褒めてる?」
「褒めてます!」
ラリサとルセのやり取りを聞きながら、少し笑った。この二人のテンポはいつも速い。
しばらくそうやって話していた。カルンは膝の上で丸まったまま起きなかった。共鳴の消耗が深い。でも光の色は穏やかで、安心して眠っているのが分かった。
話が一段落した時だった。
ラリサの表情が変わった。
笑顔が消えたのではない。笑っているのだけれど、いつもの勢いがなくなった。考え込むような、覚悟を決めるような顔。
祠の前で言っていた言葉が蘇った。「試練が終わったら、話したいことがある」と。
「・・・ラリサ」
「はい。さっき言った話、していいですか」
分かっていた。薄々気づいていた。この何日か、ラリサの様子がおかしかったことを。街道で黒い染みを見つけるたびに表情が曇っていたことを。何か言いかけては口をつぐんでいたことを。
頷いた。カルンが膝の上で身じろぎした。眠りが浅くなっている。ラリサの声の変化を感じ取ったのかもしれない。
ラリサがフェズの正面にしゃがんだ。目を合わせる。いつもは少し上を向いてきらきら笑っている目が、今は真っ直ぐにこちらを見ていた。
「道中で見てきたもの、覚えてますよね。黒斑病の痕跡」
「うん。木の幹の黒い染み。暴れた精霊。どんどん増えてた」
「そうです。グラーヴェの近くで見た時はまだ散発的だったのに、カンティレを過ぎたあたりから一気に増えました。この街道沿いだけじゃなくて、たぶん大陸のもっと広い範囲で同じことが起きてます」
ラリサの声はいつもより低かった。天才肌で説明が下手で、「ぐわっとやるんです!」で済ませることが多いラリサが、今は言葉を選んでいる。
「師匠に頼まれていたんです。旅の途中で黒斑病の状況を調べてほしいって」
やっぱりか、と思った。ラリサがただの付き添いで来ているわけがなかった。トルニオの弟子として、もっと大きな役割を背負っていたのだ。
「でも想像以上でした。この規模の拡大は普通じゃないです。精霊が暴走する頻度も、範囲も、水紋の谷に近づくにつれてどんどん酷くなっていた。カンティレの宿の主人が言ってた暴れる精霊の話、覚えてますか。あれだけじゃ済まなくなると思います」
ラリサが膝の上で拳を握った。
「私、これを調べに行きます。師匠のところに戻って報告して、それから・・・原因を突き止めたい」
言葉が途切れた。
沈黙が降りた。清流の音と、遠くで水の精霊が跳ねる音だけが聞こえた。
つまり——ここで別れるということだ。
分かっていた。分かっていたけれど、口にされると胸が詰まった。グラーヴェを出てからずっと一緒だった。野営の仕方を教えてもらった。火を起こせなくて笑われた。水場の見つけ方を教わった。精霊が群れる場所の見分け方も。
旅のすべてを、ラリサから学んだ。
「・・・いつ戻ってくるの」
声が小さくなった。自分でも情けないと思った。
「分かりません」
ラリサがはっきりと言った。誤魔化さなかった。
「でも必ず戻ります。フェズさんが全部の祠を回り終わる前には、絶対」
ラリサが笑った。ようやくいつものラリサに近い顔だった。でも目の端が少し赤い。
何か言わなければと思った。引き止めたいわけじゃない。ラリサが黒斑病を調べなければいけないことは分かる。あの黒い染みが広がっていく様子を見てきた。ラリサにしかできない仕事だ。トルニオの弟子として、精霊使いとして、ラリサの知識がなければ原因にたどり着けない。
分かっている。分かっているのに、言葉が出てこない。
「フェズさん」
ラリサが立ち上がった。今度は笑っていた。いつもの、あの笑顔だった。
「もう大丈夫です」
その一言が、胸に刺さった。
刺さった、というのは違う。染み込んだ。
もう大丈夫。ラリサが俺を心配していた。ずっと。グラーヴェで初めて会った時から。一人じゃ何もできないフェズを見て、この子は大丈夫なのかと思っていたはずだ。旅の基本を叩き込んで、野営の失敗を笑って、戦い方を一緒に考えて。全部、心配だったからだ。
その心配が、信頼に変わっている。
「旅の仕方も覚えましたよね。野営も一人でできます。精霊の多い地帯の避け方も、水場の探し方も。・・・それに試練もクリアしました。水の大精霊に認められたんです。一人でもやれます」
ラリサが指を折って数えている。いつもの癖だ。何かを説明する時に指を使う。
「ラリサ・・・」
「お礼はいいですよ!」
遮られた。ラリサが両手を振った。
「お礼なんて言われたら、私が泣いちゃうじゃないですか!」
笑いながら言った。目が潤んでいるのに、声は明るい。このラリサのずるいところだ。泣きそうな時ほど笑う。
「・・・ありがとう、ラリサ。色々教えてくれて」
結局言った。言わずにはいられなかった。
ラリサが一瞬だけ黙った。唇を噛んだ。それから、ふっと息を吐いて笑った。
「その代わり! 次に会った時にはもっと強くなっておいてくださいね! 約束です!」
ラリサが右手を差し出した。
その手を見た瞬間、グラーヴェでの日々が一気に蘇った。修行中、何度も差し出された手。転んだ時も、共鳴に失敗した時も、ラリサはいつも手を差し出してくれた。
今は違う。立ち上がるための手じゃない。対等な手だ。
握った。ラリサの手は小さくて、でも力が強かった。嵐の精霊を操る手だ。この手で何人もの人を助けてきた手だ。
「約束する」
「はい!」
ラリサの声が跳ねた。いつもの声だ。
膝の上で、カルンが目を覚ました。
ラリサとフェズの手が重なっているのを見て、小さく首を傾げた。それから何かを理解したように、ふわりと浮き上がった。
カルンがラリサの手にちょこんと乗った。
小さな手でラリサの指を掴んで、顔を寄せた。額をラリサの手の甲に押し当てる。光がぽわっと温かくなった。
ラリサが息を呑んだ。
「カルン・・・」
三ヶ月前のカルンならこんなことはしなかった。人間に怯えて、フェズの外套の中に隠れていた。知らない人間に近づくことすらできなかった。
今、カルンは自分からラリサに触れている。
「ありがとう、カルン」
ラリサが小さく言った。声が掠れていた。指先でカルンの頭を撫でた。カルンが目を細めた。
ルセは少し離れた岩の上に座っていた。こちらを見ていたが、何も言わなかった。足をぶらぶら揺らしながら、谷の向こうを眺めている。口を挟まない。挟めないのかもしれない。まだそこまでの関係ではないのだ。ルセなりの距離の取り方だった。
カルンがラリサの手から離れて、フェズの肩に戻った。
ラリサが荷物を背負い直した。嵐の精霊がラリサの周りでそわそわと風を巻いている。主人が動くことを察しているのだ。
「じゃあ、行きますね」
ラリサが背を向けた。南東の方角。グラーヴェへ続く道。来た道を戻るのだ。
三歩ほど歩いて、ラリサが振り返った。
「フェズさん!」
「なに」
「私、フェズさんの試練の話、師匠にします! 水を音で味方にしたって言ったら、師匠きっとすごい顔しますよ! あの人が驚く顔、見たことないでしょう!」
笑っていた。泣いてはいなかった。目が少し赤かったけれど、泣いてはいなかった。
「・・・楽しみにしてる」
「はい!」
ラリサが手を振った。大きく、何度も。嵐の精霊がラリサの足元で風を起こし、マントがばさばさとはためいた。
「カルンもね! 元気でね!」
カルンが肩の上で光を揺らした。ぱっ、ぱっ、と二回。手を振る代わりの、カルンなりの挨拶だった。
ラリサが前を向いた。今度は振り返らなかった。
背中が小さくなっていく。夕日に照らされたラリサの影が岩肌に長く伸びて、やがて渓谷の曲がり角に消えた。
風がやんだ。嵐の精霊が巻いていた風が消えて、谷に静寂が戻った。
清流の音だけが残った。
しばらく、動けなかった。
「・・・行ったな」
独り言だった。カルンが肩の上で頬を寄せてきた。俺の気持ちが分かっているのだろう。共鳴しなくても、もうそのくらいは伝わる。
隣に足音がした。ルセが岩から降りて、フェズの横に来ていた。
ルセは何も言わなかった。一緒にラリサが消えた方角を見ていた。
風が凪いだ谷に、清流だけが流れている。
師匠はいない。姉弟子もいない。フェズの隣にはカルンだけがいる。
——いや。もう一人。
ルセが視線を戻した。フェズを見る。何か言おうとして、口を開いて、閉じた。それから、ぽつりと言った。
「・・・明日は早いよ。もう寝な」
それだけ言って、野営の準備に戻った。
手のひらの祠印を見た。冷たい金属が、夕日の最後の光を弾いていた。
ルセの背中を眺めた。荷物を降ろして、手際よく火を起こしている。何も聞かない。何も言わない。でもここにいる。
不思議と、悪くない気分だった。