歌姫と共に   作:ぶるうず

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一人

目が覚めた時、隣にラリサはいなかった。

 

当たり前だ。昨日、別れたのだから。でも体が覚えている。この十日間、毎朝ラリサの「フェズさん、朝ですよ!」で起こされていた。あの声がない朝が、こんなに静かだとは思わなかった。

 

水紋の谷の朝は冷える。岩肌から湧き出す清流が霧を作って、辺りが白くぼやけている。焚き火の残り火がちろちろと赤い。

 

カルンが俺の首元で丸くなっていた。光が寝息のようにゆっくり明滅している。昨日の夜は俺の肩じゃなくて首元だった。くっついて離れなかった。俺が寂しがっているのが分かったのだろう。

 

少し離れた場所で、ルセが荷物の点検をしていた。もう起きていたらしい。剣の手入れ道具を広げて、刃を磨いている。

 

「あ、起きた」

 

ルセが顔を上げた。磨き布を手に持ったまま、こちらを見ている。

 

「・・・おはよう」

 

「おはよ。顔洗ってきな。水はそこの流れが綺麗だから」

 

ルセがあごで清流を示した。何でもないように言う。ラリサなら「フェズさん、こっちの水が冷たくて気持ちいいですよ!」と走ってくるところだ。ルセは違う。教えるけれど付き添わない。

 

顔を洗った。水が冷たい。目が覚める。カルンが俺の肩に移動して、水面を覗き込んでいる。自分の顔が映っているのが面白いらしい。光をぴかぴかさせて、水面の反射と遊んでいる。

 

「カルン、遊んでないで」

 

カルンが首を傾げた。遊んでない、という顔をしている。遊んでいる。

 

野営地に戻ると、ルセが干し肉を二つに割って片方を差し出してきた。

 

「朝飯。食べて出発する」

 

「・・・うん」

 

受け取って噛んだ。固い。ラリサが買い込んでいた干し肉の方が柔らかかった。ラリサは食べ物にうるさかった。「旅にはおやつが大事です!」と言って荷物をパンパンにしていた。

 

——また、ラリサのことを考えている。

 

首を振った。カルンが肩の上で俺の顔を見上げた。心配そうな光。

 

「大丈夫。ちょっと考え事」

 

カルンが納得していない顔で頷いた。

 

ルセが荷物をまとめ始めた。手際がいい。焚き火の始末、水筒への水の補充、ルート確認。一つ一つが几帳面で無駄がない。

 

「ルセ」

 

「ん?」

 

「今日、どこまで行くの」

 

ルセが手を止めた。それから少し考えるように空を見上げた。

 

「谷を出たら街道の分岐がある。あたしはそこで別の道に行く」

 

分かっていた。ルセは最初から「水の祠まで一緒に行く」と言っただけだ。祠が終われば、それぞれの旅に戻る。

 

「あたしは次、風の祠に行く。あんたは?」

 

「・・・まだ決めてない。でも、次の祠を目指す」

 

「ふうん」

 

ルセが荷物を背負い直した。剣を腰に差す。朝日が刃に反射して、一瞬だけ白い光が走った。

 

「まあ、どっかでまた会うでしょ。巡祠者なんて同じ道を歩くものだし」

 

軽い口調だった。ルセはいつもそうだ。重くしない。湿っぽくしない。

 

「行くよ」

 

ルセが先に歩き出した。俺も荷物を背負って続いた。

 

---

 

水紋の谷を出るまで、一時間ほどかかった。

 

渓谷の中を上っていく。岩場を越え、清流を渡り、狭い山道を抜ける。来た時は三人だった道を、二人で戻っている。

 

ルセは黙々と歩いた。時々振り返って俺のペースを確認する。遅れていると少しだけ速度を落とす。口には出さない。ただ歩幅を変えるだけだ。

 

ルセの無言の気遣いに気づいたのはいつからだろう。最初に会った時は「頼りなくない?」と率直に言い放つだけの奴だと思っていた。でも旅の途中で何度もこういう場面があった。俺が遅れると黙って待つ。道が険しいと先に足場を確認する。言葉にはしないけれど、ちゃんと見ている。

 

カルンが肩の上からルセの背中を見ている。光が穏やかだ。ルセのことを警戒していないのが分かる。三ヶ月前のカルンなら、フェズ以外の人間にこんな顔はしなかった。

 

谷の出口が見えた。

 

山道が開けて、街道に出る。空が広い。渓谷の中にいる時は岩壁に囲まれて空が狭かったのだと、出てから気づいた。

 

街道は二つに分かれていた。

 

右は北へ。左は西へ。道標が立っている。風化した木の板に、かろうじて文字が読める。

 

ルセが立ち止まった。

 

「ここだね」

 

俺も立ち止まった。

 

ルセが右の道を見た。北。風の祠がある方角。

 

「あっちが風の祠」

 

それから左の道を見た。

 

「あんたはどっちでもいいけど、とりあえず西に行けば大きい街があるはず。そこで次の祠の情報を集めなよ」

 

「・・・分かった」

 

ルセが腰に手を当てた。街道の分岐点に立って、朝の風を受けている。髪が揺れた。

 

「フェズ」

 

名前を呼ばれた。ルセが俺の名前を呼ぶのは珍しい。大抵は「あんた」か「ほら」だ。

 

「なに」

 

ルセが少しだけ真剣な顔になった。普段の生意気な表情が引いて、年相応の——いや、年よりも少し大人びた顔が出てくる。戦いの時に見せる顔と似ている。

 

「あんたの戦い方、面白いと思った」

 

「・・・え?」

 

「正面からじゃないけど、ちゃんと強い。水の大精霊に勝ったのだって、あたしとは全然違う方法だった。あたしは力で押したけど、あんたは水を味方にした。あれ、あたしには思いつかない」

 

ルセが言い切った。目を逸らさない。

 

フェズは言葉を探した。ルセに褒められるとは思っていなかった。カンティレで初めて会った時、ルセは黒斑病の精霊を一太刀で仕留めた。あの圧倒的な強さを見て、自分との差に焦った。山道で鳥型の精霊と戦った時も、ルセがいなければ勝てなかった。

 

「ルセの方が強いよ」

 

「当然でしょ」

 

即答された。反射的に笑ってしまった。ルセも口の端を上げた。

 

「でもね、強いのと面白いのは別なの。あんたの戦い方は見てて面白い。何するか分かんないから」

 

ルセが指を立てた。

 

「だから自信持ちな。あんたは弱くない。まだ強くないだけ」

 

弱くない。まだ強くないだけ。

 

その区別が、妙に胸に残った。

 

「・・・ありがとう」

 

「別にお礼言われるようなことじゃないし」

 

ルセが視線を外した。照れているのだと気づくのに少しかかった。ルセは褒めるのが下手だ。率直なくせに、自分の言葉に照れる。

 

「じゃ、行くよ」

 

ルセが荷物を直した。北の道に足を向ける。

 

「ルセ」

 

「ん?」

 

「風の祠、頑張って」

 

「頑張るも何も、取るに決まってんじゃん」

 

ルセが笑った。歯を見せて、あっけらかんと笑った。

 

「またね、フェズ。カルンも元気でね」

 

カルンが肩の上でぴょんと跳ねた。光がぱっと一度だけ明るくなった。ルセへの挨拶。ラリサにした時よりあっさりしている。でもカルンなりの親しみがそこにあった。

 

ルセが手を振った。一度だけ。それから前を向いて歩き出した。

 

振り返らなかった。

 

ルセの背中が北の道を進んでいく。小さくなっていく。でも不思議と心配にならなかった。ラリサの背中を見送った時とは違う。ルセは強い。あいつは一人でも平気だ。どこに行っても大丈夫だと思える背中だった。

 

やがてルセの姿が道の向こうに消えた。

 

---

 

一人になった。

 

正確にはカルンがいるから一人じゃない。でも人間は俺だけだ。ラリサもルセもいない。

 

街道の分岐点に立っている。右は北へ、左は西へ。どちらの道も知らない。この先に何があるか分からない。

 

風が吹いた。谷から流れてくる冷たい風が、頬を撫でていった。

 

こういう場面を知っている、と思った。

 

三ヶ月前にもこうだった。グラーヴェの拠点を出て、石畳が土の道に変わった時。知らない道に入った。右も左も分からなかった。

 

あの時はラリサが隣にいた。嵐の精霊が風を巻いて、ラリサが旅の計画をまくし立てていた。寄り道のパン屋の話をしていた。俺はまだ何も知らなかった。野営の仕方も、水場の探し方も、精霊が群れる場所の見分け方も。全部これから教わることだった。

 

今は違う。

 

ラリサに教わった。野営はできる。火も起こせる——最初は失敗したけれど、今は一人でもできる。水場も見つけられる。精霊の気配も、前よりは読めるようになった。

 

手のひらを開いた。祠印がある。冷たい金属片。水の大精霊が認めてくれた証。

 

あの時はこれがなかった。巡祠者という肩書きだけで、何も証明できないまま歩き出した。

 

今は一つだけある。たった一つ。でもゼロとは違う。

 

カルンが俺の頬に額を寄せてきた。光が温かい。「大丈夫」と言っている。言葉はない。でも分かる。共鳴しなくても、三ヶ月一緒にいれば伝わるものがある。

 

カルンを見た。

 

小さな精霊が、俺の肩の上にいる。

 

三ヶ月前は外套の中に隠れていた。人間が怖くて、フェズ以外の誰にも近づけなかった。光はいつもちかちかと怯えていた。

 

今は肩の上に座っている。ラリサの手に自分から乗った。ルセに挨拶をした。水面に映る自分の顔で遊んでいた。

 

カルンも変わった。俺も変わった。

 

「カルン」

 

カルンが顔を上げた。小さな瞳が俺を見ている。

 

「次の祠を探そう。どこにあるかまだ分からないけど、西の街で情報を集める。ルセが言ってた通り」

 

カルンが頷いた。光がぽわっと温かくなった。

 

「一人で・・・二人で、か。二人で行こう」

 

言い直した。カルンが小さく首を傾げて、それから嬉しそうに光を揺らした。

 

一人じゃない。カルンがいる。守る相手じゃなくて——いや、守りたい気持ちは変わらない。でもカルンは守られるだけの存在じゃない。水の祠で、カルンの旋律がなければ試練は越えられなかった。あの足場を作ったのは俺とカルンの二人の力だ。

 

守る側と守られる側じゃない。一緒に歩いている。

 

まだ完全にそう言い切れるほどの自信はない。でも、少しだけ近づいた気がする。

 

祠印を握り直した。冷たい金属が手のひらで少しだけ温まっている。

 

西の道を見た。知らない道が伸びている。どこまで続いているか分からない。

 

一歩、踏み出した。

 

足音が道に響いた。一人分の足音。ラリサの軽い足音も、ルセの力強い足音もない。俺だけの音。

 

あの日——グラーヴェを出た朝、知らない道に入った時も足は止まらなかった。右も左も分からなくても、前に進めた。

 

今も止まらない。

 

でも今は、あの時とは少しだけ違う。

 

あの時は何も知らなかった。何もできなかった。ただ足を動かしていただけだった。ラリサが隣にいて、カルンが肩にいて、それだけを頼りにしていた。

 

今は——自分の足で立っている実感がある。

 

たった一つの祠印。たった一つの試練。それだけだ。まだ四つも祠が残っている。ラリサみたいに知識はないし、ルセみたいに強くもない。次の試練で負けるかもしれない。

 

でも、ここまで歩いてきたのは俺の足だ。

 

カルンが俺の肩から少しだけ浮き上がって、進行方向を見た。光が安定している。不安も興奮もない、穏やかな光。旅をする覚悟を決めた時の光だ。グラーヴェを出た朝と同じ。でもあの時より少しだけ——明るい。

 

「行こう、カルン」

 

カルンが頷いた。俺の肩に戻って、前を向いた。

 

歩いた。

 

西の道を、一人と一匹で歩いた。朝の光が道を照らしている。水紋の谷から吹いてくる風が背中を押した。

 

前には、まだ四つの祠が待っている。

 

知らない道だ。知らない街がある。知らない人に会う。知らない試練が待っている。

 

怖くないと言えば嘘になる。

 

でも足は止まらなかった。

 

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