西の道を一人と一匹で歩き始めて、五日が経った。
朝だ。目を覚ますと、焚き火は灰になっていた。昨夜のうちにちゃんと消えたらしい。薪の組み方が良かったのだと思う。ラリサが教えてくれた組み方だ。燃え尽きるように組めば、朝まで残り火が暴れない。
カルンが俺の胸元で丸くなっていた。外套にくるまって、光が寝息みたいにゆっくり揺れている。
「カルン、朝だよ」
光がぴくっと跳ねた。カルンが顔を上げて、寝ぼけた目で俺を見た。それからぷるぷると首を振って、ゆっくり肩まで上がってきた。
荷物をまとめた。水筒を振る。まだ半分ある。昨日見つけた湧き水で補充したから余裕がある。干し肉を一切れ齧って、残りを数えた。あと四日分。次の街までもつかは分からないが、途中で水場を見つければ大丈夫だと思う。
全部、一人で判断している。
五日前まではそんなことしたことがなかった。ラリサが旅の計画を立てて、ルセが道を選んで。俺は後ろをついていくだけでよかった。
今は違う。水場も道も、全部自分で探す。この分岐をどちらに行くか。あの木陰は野営に使えるか。遠くに見える精霊の気配は危険か。朝起きてから夜眠るまで、ずっと考え続けている。
頭が疲れる。体よりも頭が。
カルンが肩の上から周囲を見回していた。首をきょろきょろさせて、風の匂いを嗅ぐみたいに鼻を動かしている。何かの精霊の気配を感じると、光をちかちかさせて俺に教えてくれる。
「どう? 何かいる?」
カルンが首を横に振った。光が安定している。今のところ安全らしい。
二人なりの役割分担ができ始めていた。俺が道を読み、カルンが周囲を見張る。人間の目と精霊の感覚。片方だけでは足りないものを、もう片方が補っている。
歩き出した。
西の街道は乾いた平地が続いている。水紋の谷の周りとは景色が違う。あっちは緑が深くて水の音が絶えなかったけれど、ここは草が短くて、風がよく通る。遠くまで見渡せる分、迷いにくい。迷いにくい代わりに、隠れる場所が少ない。
道沿いに石の道標が立っていた。風化して文字が薄くなっている。読めるのは矢印と、かすかに残った地名だけだ。ラリサなら古い書体でも読めたのだろう。俺には矢印が精一杯だった。
矢印の指す方向に歩いた。
五日間、ずっとそうしてきた。道標を見つけて、矢印の方向に歩く。迷ったら高い場所に登って、遠くを見る。街道らしい道を探す。水場は植物が茂っている場所の近くにある。夜は風を背にして焚き火を組む。
全部ラリサに教わったことだ。当時は聞き流していたこともあった。ラリサが早口でまくし立てる旅のコツを、半分ぐらい「ふーん」で流していた。今になって全部思い出そうとしている。
火起こしも、もう失敗しない。最初の夜は三回やり直した。火口の湿り具合が分からなくて、火花が散るだけで終わった。二日目は一回。三日目からは一発でつくようになった。
できるようになっている。少しずつ。
でも——
夜が長い。
焚き火の音だけが響く夜に、話し相手がいない。カルンは隣にいてくれるけれど、会話ができない。光の揺れで気持ちは伝わる。でもそれは「会話」じゃない。
ラリサなら焚き火を囲んで精霊の生態の話を延々としていた。ルセなら荷物の点検をしながら短い言葉を交わした。
今は火の爆ぜる音だけだ。
祠印を握りしめた。水の大精霊からもらった冷たい金属片。これがある限り、前に進む理由がある。次の祠を目指す。次の試練に挑む。そのために歩いている。
あと四つ。
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六日目の夕方に、街が見えた。
街道の先に建物の影が並んでいる。土壁と木の屋根。煙突から煙が上がっている。人の暮らしの匂いがする。
六日ぶりの街だった。
宿を探した。街の入口から少し歩いた先に、旅人向けの宿屋があった。看板が出ている。木彫りの剣と盾の意匠。冒険者や旅商人が泊まる宿らしい。
カルンを外套の中に入れた。街の中では人の目がある。カルンのような精霊を見せて歩くのはいい考えじゃない。ラリサにもトルニオにも言われたことだ。特に概念系の精霊は目立つ。
「すみません、一泊いくらですか」
宿の主人は太った中年の男だった。カウンターの奥で帳簿をつけている。
「素泊まり一泊四イウロ。飯つきなら六イウロ」
「飯つきで」
銅貨を置いた。トルニオからもらった旅の資金がまだ残っている。節約しないといけないけれど、六日ぶりのまともな食事は欲しかった。
部屋に荷物を置いて、酒場に下りた。宿の一階が酒場を兼ねている。旅商人が何組か卓を囲んでいた。
カルンは部屋に残してきた。外套の中で眠っている。街についた安心感で光が穏やかだった。
一人で情報を集める。これも初めてのことだった。ラリサがいた時はラリサが聞き込みをしていた。誰にでも気軽に話しかけられるのは、ラリサの才能だった。
俺にはそれがない。
酒場のカウンターに座った。水を頼んだ。隣に座っていた旅商人の男が、ちらっとこっちを見た。
「・・・すみません、ちょっと聞いてもいいですか」
声が固い。自分でも分かる。
「ん? なんだ、若いの」
「次の祠——風の祠がどこにあるか知ってますか」
旅商人が目を丸くした。
「祠巡りか。若いのに大したもんだ。風の祠なら北西だよ。セルペ高原。ここから十日ほどかな」
「セルペ高原・・・」
「高原って言ってもでかいぞ。祠は最奥にあるって話だ。断崖に洞があって、その中」
旅商人がエールを一口飲んだ。
「最近あの辺りは風が荒れてるって噂だ。精霊が落ち着かないらしい。まあ、風の祠がある土地だからな。そういうもんだと言えばそういうもんだが」
「風が荒れてる・・・」
「気をつけな。高原に入ったら風が強い。小さい精霊なんか飛ばされるぞ」
旅商人が笑った。軽い冗談のつもりだろう。でも外套の中のカルンの姿が浮かんだ。カルンは小さい。高原の強風にさらされたら——
「ありがとうございます」
もう一人、酒場の隅で食事をしていた年配の女にも聞いた。
「セルペ高原? 行ったことはないけど、ソナーレって街が入口にあるはずだよ。そこで最新の情報を集めるといい」
「ソナーレ」
「風車の街だってさ。風がいつも吹いてるから、風車で粉を挽いてるんだと」
部屋に戻った。帳面を開いて、聞いた情報を書き出した。
北西。セルペ高原。十日ほど。最奥の断崖。ソナーレという入口の街。風が荒れている。
ルートを考えた。ここから北西に向かう道を探す。途中で補給できる場所を確認する。水と食料の配分。カルンの安全。
一人で全部やっている。
ラリサがいれば「ここを通ると景色がいいですよ!」と余計な寄り道を提案してきただろう。ルセなら黙って最短ルートを地図で示しただろう。
俺はどちらでもない。二人みたいに判断が速くない。でも、情報を集めて、書き出して、一つずつ確認して——時間はかかるけれど、答えは出せる。
出せるようになった。
その事実に、フェズ自身はまだ気づいていない。判断ができるようになったことを「遅い」と感じている。二人と比べて、自分は時間がかかると思っている。
帳面を閉じた。窓の外はもう暗い。
カルンが外套の中で目を覚ましたらしい。光がもぞもぞ動いて、布の隙間からのぞき込んできた。
「起きた? カルン、ちょっと見てくれ」
帳面を開いてカルンに見せた。カルンに文字は読めないけれど、地図のような絵なら分かる。矢印で道を示して、丸で街を描いた。
「ここから北西に行く。十日ぐらい歩いたら、風の祠があるセルペ高原に着くらしい」
カルンが帳面をじっと見た。それから俺を見上げた。光が少し揺れている。不安とも好奇心ともつかない揺れ方。
「高原は風が強いんだと。カルン、飛ばされないように気をつけような」
カルンがむっとした顔をした。飛ばされないよ、と言いたげだ。でもすぐに考え直したらしく、しぶしぶ頷いた。
つい笑ってしまった。カルンが拗ねたみたいに光を暗くした。
「ごめんごめん」
カルンが俺の手に乗ってきた。手のひらの上で丸くなる。掌の温度に合わせるように、光がゆっくり明滅する。
明日の朝、出発する。北西へ向かう。風の祠を目指す。
一人で決めた。
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翌朝、街を出た。
朝日がまだ低い。空気が冷たくて、吐く息が白い。荷物を背負い直して、北西の道に足を向けた。
街の入口を通り過ぎようとした時、一人の男とすれ違った。
旅人風の男だった。長い外套を着ている。穏やかな物腰で、街に入ってくるところだった。年は二十代の後半か三十ぐらい。整った顔立ちで、柔らかい笑みを浮かべている。
すれ違う時、男の視線が一瞬——俺の肩のあたりで止まった。
カルンはまだ外套の中にいる。見えるはずがない。でも男の目が、布の下を透かし見るように止まった。
ほんの一瞬だった。
カルンが身じろぎした。外套の中で体を強張らせた。光がちかちかと不安定になっている。肩越しに伝わる小さな震え。
「・・・カルン?」
立ち止まって男を振り返った。男はもう目を逸らして歩き去っている。ゆったりした足取りで、街の中に入っていく。背中に何の変哲もない。ただの旅人だ。
でもカルンの光がなかなか安定しない。ちかちか、ちかちか。怯えているのとも違う。何かを感じ取っている。精霊が反応するということは——
いや。考えすぎだ。
カルンを外套の内側に入れ直した。布を少しきつく巻いて、外から見えないようにする。三ヶ月前の癖だ。カルンと出会ったばかりの頃、誰にもカルンを見せたくなくて、外套の奥に隠していた。ラリサに「精霊は隠すものじゃないですよ」と笑われるまで、ずっとそうしていた。
その癖が、今また出た。
「大丈夫。俺がいる」
カルンに言った。カルンが俺の胸元で小さく頷いた。光がゆっくり落ち着いていく。でもいつもの明るさには戻らない。
しばらく歩いた。街が遠ざかっていく。
あの男のことが頭に引っかかっている。何が引っかかっているのか分からない。穏やかな笑みを浮かべた、ただの旅人。何もおかしくない。
でもカルンが反応した。カルンの感覚は俺より鋭い。精霊の気配や敵意を、人間には分からない精度で感じ取る。
気のせいだ、と思うことにした。考えすぎだ。旅を始めてから六日、一人だと余計なことを考える。
北西に向かう道を歩いた。街道は広くて歩きやすい。風が吹いている。西からの風。この風がセルペ高原から来ているのかもしれない。
カルンが外套の中から顔を出した。風を受けて、少しだけ目を細めている。光が少しだけ明るくなった。
「風、気持ちいいか」
カルンが小さく頷いた。
歩いた。一人と一匹で、北西の道を歩いた。
空が広い。雲が流れている。風が草を揺らしている。
背後に何かの視線を感じた気がして、振り返った。
誰もいなかった。
道がまっすぐ伸びている。街の影がもう小さい。人の姿はどこにもない。
気のせいだ。
俺はもう一度前を向いて、歩き出した。風が背中を押している。十日先に、風の祠が待っている。
カルンの光が、まだ少しだけ揺れていた。