歌姫と共に   作:ぶるうず

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高原

セルペ高原への道に入ったのは、西の街を出て四日目のことだった。

 

最初は気づかなかった。平地から少しずつ地面が傾いて、足が重くなって、草の丈が短くなっていって——振り返ると、いつの間にか随分高い場所に立っていた。

 

風が強い。

 

それまでの街道にも風はあった。でもこの高原の風は質が違う。ただ吹いているんじゃない。押してくる。体を横から掴んで、押し倒そうとしてくる。

 

草原が波打っていた。短い草が一斉に同じ方向に倒れて、また起き上がる。遠くに岩山が見える。草原と岩山が交互に並んでいて、どこまでも続いている。乾いた土の匂い。空気が薄い気がする。

 

「・・・すごいな」

 

思わず声が出た。水紋の谷とは何もかもが違う。あっちは水と緑に覆われた静かな場所だった。ここは乾いていて、広くて、うるさい。風の音がずっと鳴っている。耳の奥にまで入り込んでくるような、低い唸り。

 

カルンが俺の肩の上で体勢を崩した。

 

風圧で煽られたのだ。小さな体が横に傾いで、慌てて俺の襟元にしがみつく。光がぐらぐら揺れている。

 

「カルン!」

 

咄嗟に手で覆った。風が吹きつける方向に手のひらを壁にして、カルンを守る。カルンが俺の手の中で小さく震えていた。五十センチの体では、この風圧はきつい。

 

「カルン、俺の肩にしっかり掴まってろ。風が強いから」

 

カルンが頷いた。俺の襟元にしがみつき直す。小さな手が外套の布を握っている。光が少し安定した。でもいつもより暗い。

 

「大丈夫か?」

 

カルンがこくりと頷いた。大丈夫だよ、と言いたげだ。でも体が強張っている。風に警戒しているだけじゃない。高原に入ってから、ずっとどこか落ち着かない様子だった。

 

精霊の気配が濃い。

 

風の精霊が多い土地だと、旅商人が言っていた。確かに、風の中に何かがいる感じがする。俺には見えないけれど、カルンには分かるのだろう。時おり光を揺らして、何かを確かめるように周囲を窺っている。

 

半日歩いた。

 

誰にも会わなかった。

 

街道と呼べるような道はもうない。草原の中に踏み固められた細い道が続いているだけだ。旅人が少ないのだろう。風が強すぎる。普通の旅人なら、わざわざこんな場所を通らない。

 

風の音だけが鳴り続けていた。俺の足音も、カルンの小さな息遣いも、全部風に呑まれる。

 

昼頃、岩山の一つに登って周囲を見渡した。北の方角に、もっと高い岩壁が連なっているのが見えた。あの向こうに祠があるのだろう。距離はまだ遠い。

 

岩の上に腰を下ろして水を飲んだ。カルンが外套の中からそっと顔を出して、風の中に光を揺らした。何かを探るように。何かの気配を追っているような仕草だった。

 

「何か感じるか、カルン」

 

カルンが小さく首を傾げた。分からない、という顔。でも光が揺れている。落ち着かない揺れ方だ。

 

高原の風が、まるで何かを囁いているように聞こえた。

 

---

 

ソナーレの街が見えたのは、四日目の夕方だった。

 

最初に目に入ったのは風車だ。高い柱の上で木の羽根がぐるぐる回っている。一基じゃない。五基、六基——街の周囲に何基も並んでいる。全部が同じ方向に向いて、同じ速度で回っていた。

 

「風車の街って、本当だったな」

 

カルンが俺の襟元から顔を出して風車を見ている。光が少し明るくなった。物珍しいらしい。でもすぐに光を暗くして、俺の襟の内側に引っ込んだ。高原に入ってから外に出たがらない。

 

ソナーレは小さな街だった。石造りの建物が二十軒ほど並んでいる。人口は四百ぐらいだと聞いていたから、そんなものだろう。風車のおかげで粉挽きが盛んらしく、パン屋の看板がいくつか見える。

 

街の中央に、伝令ギルドの中継所があった。木造の二階建て。屋根の上に風見鶏が乗っている。入口の横に掲示板があって、旅人向けの情報が貼り出されていた。

 

宿を取った。ソナーレの宿屋は一軒しかなくて、素泊まり三イウロ。安い。街が小さいから物価も低いのだろう。

 

荷物を部屋に置いて、伝令ギルドの中継所に行った。情報を集めるなら、ここが一番早いはずだ。

 

中継所の中は思ったより賑わっていた。旅商人が三組と、伝令らしい若い男が二人。カウンターの奥で年配の女が帳簿をつけている。

 

「すみません、風の祠について聞きたいんですが」

 

年配の女が顔を上げた。白髪交じりの髪を後ろで束ねている。目が鋭い。

 

「巡祠者かい。珍しいね。最近はめっきり見なくなったよ」

 

「風の祠は、どこにありますか」

 

「高原の最奥さ。ここから北にまっすぐ三日ほど歩くと、断崖が見えてくる。風蝕で削られた岩の壁だよ。そこに大きな裂け目があって、その奥に祠がある」

 

女が帳簿から視線を外さずに言った。何度も同じことを聞かれているのだろう。

 

「断崖の裂け目・・・」

 

「道らしい道はないけど、風車の向いてる方角にずっと歩けばいい。風車は全部北風に向いてるからね。迷うことはないだろう」

 

カウンターの端に座っていた旅商人の一人が口を挟んだ。日焼けした顔に髭を蓄えた中年の男。

 

「兄ちゃん、一人で行くのか。気をつけな。最近、高原で妙な連中を見かけるって話がある」

 

「妙な連中?」

 

「巡祠者じゃないよ。もっと物騒な・・・何て言うか、精霊を探し回ってるような奴ら。武装してて、旅商人にも声をかけてくるらしい」

 

俺の胸の中で、カルンが身じろぎした。

 

精霊を探し回っている。

 

三ヶ月前のことが蘇った。リトルネッロ村の裏山で、カルンが精霊ハンターに追われていた光景。剣を持った男たちがカルンを囲んで、網を張って。カルンの光が怯えて明滅していた。

 

あの時のリーダー格が持っていた、蛇の瞳が刻まれた金属片。ラリサが「嫌なもの」と呼んだ証。

 

同じ奴らだろうか。

 

「・・・ありがとうございます。気をつけます」

 

声が固くなったのが自分でも分かった。旅商人が不思議そうな顔をしたが、追って聞いてはこなかった。

 

宿に戻った。部屋でカルンを外套から出した。カルンが布団の上に降りて、ぷるぷると体を震わせた。外套の中にいるのは窮屈だったらしい。

 

「カルン、街に入ってからずっと中にいたな。外に出なくていいのか」

 

カルンが首を横に振った。出たくない、と言っている。

 

高原に入ってから、カルンの警戒心が強くなっている。精霊の感覚は俺よりずっと鋭い。俺には分からない何かを、感じ取っているのかもしれない。

 

風の精霊が多い土地だから落ち着かないのだろうか。それとも、もっと別の何か。

 

「・・・大丈夫だよ、カルン。何かあったら俺が守る」

 

カルンが俺を見上げた。光がゆっくり揺れている。不安の色。

 

でも怯えているだけじゃないように見えた。何かを考えている顔。精霊の感覚で、高原の空気を読もうとしている。俺には分からないことを、カルンは分かっているのかもしれない。

 

カルンが俺の手に身を寄せてきた。小さな体の温度が掌に伝わる。光が少しだけ安定した。

 

窓の外で風がひときわ強く唸った。建物がきしむ音がする。カルンが一瞬びくっとして、俺の手の中に潜り込んだ。

 

「大丈夫だ。ただの風だよ」

 

そう言いながら、カルンを包むように手を丸めた。

 

---

 

夜、眠れなかった。

 

窓の外で風が唸っている。びゅう、と長い音を立てて、建物の壁を撫でていく。月明かりに照らされた風車の影が、ぐるぐるぐるぐる回っている。影が壁に映って、生き物みたいに蠢いていた。

 

布団の上で仰向けになっている。カルンが俺の手のそばで丸くなっていた。光が弱い。寝ているのか起きているのか分からないぐらい、薄い光。不安を感じている時の光り方だ。

 

風の唸りが止まない。

 

俺は天井を見つめたまま考えていた。

 

精霊を探し回っている奴ら。武装した連中。高原にいる。

 

蛇の瞳の金属片を持っていた精霊ハンター。カルンを狙った男たち。あの時はラリサが助けてくれた。トルニオが剣の基礎を叩き込んでくれた。水の祠で試練を越えた。少しは強くなった。

 

でも今、ラリサはいない。トルニオもいない。

 

守れるのは、俺だけだ。

 

カルンの光が微かに揺れた。俺の考えが伝わっているのかもしれない。共鳴していなくても、近くにいると気持ちの大きな波は感じ取るらしい。ラリサが前にそう言っていた。

 

「・・・ごめん。起こしたか」

 

カルンが首を振った。起きてたよ、と言いたげに。

 

手を伸ばして、カルンの頭を指先で撫でた。カルンが目を細める。光が少しだけ温かくなる。

 

トルニオの言葉が頭をよぎった。

 

「無理だと判断したら、精霊を取り上げる」

 

あの時は怖かった。カルンを取り上げられるかもしれないという恐怖。でも今は違う。取り上げられる前に、守れるだけの力をつければいい。

 

祠印を腰の袋から取り出した。水の大精霊からもらった冷たい金属片。月明かりで鈍く光っている。

 

これが一つ。風の祠印を取れば二つ。あと四つ——いや、風を取ったら残り三つ。

 

強くなれば守れる。だから次の祠を取る。風の祠の試練を越えて、もう一つ祠印を手に入れる。

 

守らなきゃ。

 

その言葉が頭の中で大きくなっている。いつからだろう。一人で旅を始めてから、ずっとこの言葉が回り続けている。

 

カルンが俺の指に額を寄せた。光がふわりと揺れる。大丈夫だよ、と言っている。

 

「・・・うん。大丈夫。明日、祠に向かおう」

 

カルンが小さく頷いた。

 

祠印を握りしめたまま、目を閉じた。風が窓の外で唸っている。風車の影がぐるぐる回っている。

 

眠れたのは、夜が明ける少し前だった。

 

---

 

翌朝、高原へ向けて出発した。

 

ソナーレの街を出ると、すぐに建物がなくなった。草原がどこまでも広がっている。北に向かって歩く。風車の向いている方向。伝令ギルドの女が言った通り、迷うことはなさそうだった。

 

風が強い。昨日までの道より、さらに強くなっている。高原の奥に進むほど遮るものがなくなるのだろう。草原が一面に波打っていて、遠くの岩山がぼんやり霞んでいる。

 

カルンが俺の襟元にしがみついている。外に出ようとしない。風のせいだけじゃないと思う。ソナーレで聞いた「妙な連中」の話を、カルンも聞いていたのだ。

 

「カルン、しっかり掴まってろよ」

 

カルンがきゅっと襟を握り直した。

 

歩いた。風の中を、まっすぐ北へ。

 

フェズの足取りは確かだった。迷いはなかった。祠を目指す。試練を越える。強くなる。守る。

 

——まだ。まだこの時は、それだけだった。

 

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