歌姫と共に   作:ぶるうず

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高原を歩いて三日目の昼前だった。

 

ソナーレを出てからずっと北へ向かっている。草原が減って、岩場が増えてきた。大きな岩が点在する平地。風は相変わらず強い。だがこの三日間で体が慣れてきたのか、足を取られることは少なくなった。

 

カルンは俺の襟元に潜り込んだままだ。外に出ようとしない。ソナーレを出た時からずっとこうだ。

 

風の中に、風ではないものが混じっている気がした。

 

気のせいだと思おうとした。三日間ずっとそう思おうとしていた。だが——カルンの光が不安定になっている。ちかちかと明滅する光。これを前に見たことがある。

 

西の街で、あの男とすれ違った時。

 

「・・・カルン」

 

カルンが俺の襟元から顔を出した。光が揺れている。怯えの揺れ方。あの時と同じだ。

 

背後に気配がある。

 

振り返った。誰もいない。岩と草原と風だけ。でもカルンの光が嘘をつくはずがない。精霊の感覚は俺よりずっと鋭い。いる。何かがいる。

 

足を速めた。

 

岩場の間を縫うように歩く。次の大きな岩を過ぎれば見通しが利く。そこまで行けば——

 

気配が消えない。むしろ近づいてきている。足音は聞こえない。風が全部かき消している。でも空気の圧が変わった。後ろではなく——

 

前方。

 

岩場の陰を抜けた時、道の真ん中に人影が立っていた。

 

俺は足を止めた。

 

穏やかな物腰の男。旅人風の外套を纏っている。黒い髪を後ろに流して、目元に笑みを浮かべている。

 

覚えている。西の街ですれ違った男だ。あの時カルンが反応して、光が不安定になった。気のせいだと思った。カルンも首を振った。

 

気のせいじゃなかった。

 

男が微笑んだ。穏やかな、だがどこか空っぽの笑み。目が笑っていない。

 

「やあ。先日ぶりですね」

 

声まで穏やかだった。風の音の中でもはっきり聞こえる、通る声。

 

俺は答えなかった。カルンが外套の中に完全に潜り込んだ。小さな体が震えている。光が消えかけるほど弱い。

 

精霊が怯えている。

 

ラリサが前に教えてくれた。精霊が人間に怯えるのは、相手が精霊使いか、それに近い力を持っている時だと。普通の人間には精霊は反応しない。

 

「少しお話がしたいのですが」

 

男が一歩近づいた。剣に手をかけた。腰の鞘に収まっている、使い込まれた長剣の柄を左手で握る。

 

「——止まれ」

 

声が掠れた。自分でも情けないと思った。でもカルンの震えが掌に伝わってきて、それどころじゃない。

 

男が足を止めた。微笑みは消えていない。

 

「すみません、驚かせましたね。名乗っていませんでした」

 

男が右手を胸に当てた。芝居がかった仕草。

 

「ヴェーノ、と申します。以後よろしく」

 

よろしくされる理由がない。

 

「何の用だ」

 

「率直な方ですね。助かります」

 

ヴェーノが手を下ろした。穏やかな目が俺の——正確には俺の胸元に向けられた。カルンが隠れている場所。

 

「その精霊。音楽の精霊ですね」

 

心臓が跳ねた。

 

「概念系、しかもかなりの高位。珍しい。本当に珍しい。一人で持ち歩くには危険すぎませんか」

 

持ち歩く。持ち物みたいに言うな。

 

「何が言いたい」

 

「お願いですから、渡してください」

 

ヴェーノの声は穏やかなままだった。微笑みも消えていない。だが言葉の中身は——

 

「あなたには荷が重い。あの子はもっと相応しい場所に置くべきだ。このまま一人で連れ歩いていたら、いずれ——」

 

「断る」

 

遮った。声が震えていないことだけが救いだった。

 

「カルンは物じゃない。渡さない」

 

ヴェーノが黙った。

 

一秒。二秒。風だけが鳴っている。

 

それから、ヴェーノの目が変わった。

 

穏やかさは残っている。笑みも残っている。だがその奥に、一瞬だけ別のものが見えた。飢えた光。何かを失った人間が、その空白を埋めたくて堪らない時の目。

 

「そうですか」

 

声のトーンが半音下がった。

 

「困りますね」

 

---

 

ヴェーノが剣を抜いた。

 

鞘走りの音が風に呑まれる。だが刃が——光っている。淡い光が刃に沿って走った。共鳴の光だ。精霊と共鳴した時に身体を包む、あの光。

 

だがヴェーノの傍に精霊はいない。

 

カルンが怯えていたのはこれか。精霊がいないのに共鳴の力を纏っている。ありえない。精霊なしで共鳴は起きない。それなのに、刃には確かに魔力が宿っていた。

 

残滓。共鳴の残り香。かつて精霊と共鳴していた痕跡が、まだ体に染みついているのだ。

 

考えている暇はなかった。

 

剣を抜いた。トルニオに教わった構え。利き手を前に、半身で立つ。

 

ヴェーノが踏み込んできた。

 

一合。

 

腕が痺れた。

 

重い。片手で振っているのに、両手で受けた俺の腕を痺れさせるほど重い。共鳴の残滓を纏った一撃。精霊使いの剣に匹敵する威力。

 

「いい反応ですね」

 

ヴェーノが剣を引いた。軽い。動きに無駄がない。構え直す速度も、足運びも、全部が俺より上だ。

 

二合目。横薙ぎを剣で受ける。衝撃で足が滑った。岩の上に片膝をつきかける。

 

三合目——いや、ヴェーノの剣筋が変わった。俺が岩陰に誘導しようとした動きを読んでいる。退路を断つように左に回り込まれた。

 

速い。だが速さだけじゃない。こっちの考えを読んでくる。地形を利用しようとする俺の癖を、たった二合で見抜いた。

 

背中が岩に当たった。退路がない。

 

カルンとの共鳴を使うしかない。

 

「——カルン!」

 

胸の中でカルンが応えた。光が一瞬強くなる。音が鳴った。俺の体を通じてカルンの旋律が溢れ出す。

 

衝撃波。

 

水の祠で掴んだ感覚。音を振動にして、前方に叩きつける。空気が一瞬で圧縮されて、ばん、と破裂するような音が鳴った。

 

ヴェーノの体が——止まらない。

 

剣を前に翳して、衝撃波を受け流した。共鳴の残滓を纏った刃が音の波を切り裂く。わずかに後退しただけだ。

 

「やはり音楽の共鳴。素晴らしい」

 

ヴェーノの目が光った。飢えた光。さっきよりずっと強い。カルンの力を見て、渇望が露わになっている。

 

しまった。

 

共鳴を使ったことで、カルンの価値を確認させてしまった。概念系の精霊。しかも衝撃波を生む共鳴。これを見たら、余計に手放さない。

 

ヴェーノが剣を構え直した。今度は本気だ。刃の光が強くなっている。残滓を全力で引き出している。

 

勝てない。

 

分かった。三合と衝撃波一発で分かった。地形利用も読まれる。共鳴も受け流される。剣の腕は明らかに上。残滓が切れるまで粘る手もあるが、それまで俺の体が保たない。

 

逃げろ。

 

頭の中でトルニオの声がした。修行の時にさんざん言われた。「勝てない相手に正面からぶつかるな。退路を確保しろ。逃げることは負けじゃない。死んだら終わりだ」

 

ヴェーノが踏み込む瞬間——俺は横に転がった。

 

岩の隙間に体を滑り込ませる。ヴェーノの剣が岩を叩いた。火花が散る。

 

立ち上がる。走る。

 

全力で走った。岩場を縫って、草原を突っ切る。風が背中を押している。追い風だ。今だけは風が味方をしてくれた。

 

カルンを外套の中に押し込んだ。片手で胸を押さえるようにして、カルンの体が揺れないようにする。

 

走る。振り返らない。

 

ヴェーノは追ってこなかった。

 

足音がない。気配が離れていく。なぜだ。追えば追いつけるだろうに。

 

背後から声が届いた。風に乗って、穏やかな声が。

 

「逃げても無駄ですよ」

 

足が止まりかけた。

 

「あなたがあの子と一緒にいる限り、僕は何度でも来ます」

 

止まるな。止まったら終わりだ。

 

走った。息が上がっている。心臓がうるさい。腕はまだ痺れている。カルンの光が外套の中で明滅している。消耗と恐怖で弱っている。

 

どれだけ走ったか分からない。岩場を抜けて、草原に出て、さらに走って——膝が折れた。

 

草の上に崩れるように座り込んだ。息が荒い。喉が焼けるように熱い。

 

カルンを外套から出した。手の中のカルンは体を丸めて震えていた。光がほとんどない。衝撃波を一発放っただけなのに、あんなに怯えていたらそれだけで消耗する。

 

「カルン・・・大丈夫か」

 

カルンが顔を上げた。光がゆっくり揺れた。大丈夫、と言いたげに。でも体の震えが止まらない。

 

俺はカルンを胸に抱き寄せた。外套で覆って、手で包んで。あの日と同じだ。リトルネッロ村の裏山で精霊ハンターからカルンを庇った時と同じ、抱え込む姿勢。

 

あいつは——ヴェーノは言った。

 

「荷が重い」と。

 

カルンを渡せと。

 

渡さない。

 

絶対に渡さない。

 

心臓がまだうるさかった。恐怖じゃない。怒りだ。誰かがカルンを「荷が重い」と言った。物みたいに「渡せ」と言った。「相応しい場所に置くべきだ」と。

 

カルンは物じゃない。荷物じゃない。俺の——俺と一緒に旅をしている、相棒だ。

 

カルンが俺の胸に額を押し当てた。光が微かに温かくなる。震えが少しずつ収まっていく。

 

「大丈夫だ、カルン。逃げ切った。あいつはもういない」

 

カルンが小さく頷いた。

 

風が吹いている。高原の乾いた風。俺とカルンの二人きりの草原に、風だけが鳴っていた。

 

——誰かがカルンを狙っている。名前も知った。ヴェーノ。精霊を失った男。精霊がいないのに共鳴の残滓で戦う、あり得ない敵。

 

「何度でも来る」と、あいつは言った。

 

立ち上がった。カルンを外套の中に入れて、北を向いた。祠はまだ先だ。ヴェーノがいても、祠を目指すしかない。祠印を取って、強くなるしかない。

 

歩き始めた。足が重い。でも止まれない。

 

祠に辿り着くまでに、あいつがまた来るかもしれない。来たら、今度はどうする。逃げられるか。逃げ切れるか。

 

カルンが外套の中で俺の服を握った。きゅっと、小さな手で。

 

「・・・大丈夫だ。俺がいる」

 

風が強い。その中を、一人と一匹で歩いた。振り返りたくなる衝動を堪えながら、北へ。祠のある方へ。

 

背後に何があっても、前に進むしかなかった。

 

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