ヴェーノとの遭遇から二日が経った。
祠はまだ先にある。ソナーレで聞いた話では、高原の最奥——風蝕で削られた断崖の洞。まっすぐ北に向かえばあと二日か三日で着くはずだった。
だがまっすぐ行けない。
ヴェーノから逃げた後、俺はルートを変えた。本来の道を外れて、岩場の多い東寄りの斜面を選んだ。人の通らない道なき道。足場が悪くて歩きにくいが、岩陰が多い分、身を隠しやすい。
そのはずだった。
「・・・まだいる」
カルンの光が教えてくれる。ちかちかと不安定に明滅する、あの揺れ方。ヴェーノの気配を感じた時の反応。二日間ずっと消えない。
姿は見えない。ヴェーノは直接来ない。あの日以来、一度も姿を見せていない。なのに「いる」ことだけが分かる。カルンが感じ取って、光で俺に伝える。
昼も夜もだ。
夜営の時、焚き火を最小限にした。炎がちらつく程度の、体を温めるには心許ない火。それでもカルンを外套で覆って、抱え込むようにして寝た。
眠れなかった。
風の音が常に鳴っている。高原に入ってからずっとそうだ。だが今は風の中に別の音を探してしまう。足音。衣擦れ。刃が鞘に当たる音。何も聞こえないのに、聞こえるような気がして目が覚める。
「逃げても無駄ですよ」
ヴェーノの声が耳に残っている。風に乗って届いたあの穏やかな声。「あなたがあの子と一緒にいる限り、僕は何度でも来ます」。
来る。何度でも来る。あいつはそう言った。
焚き火の灰を踏み消して、夜明け前に歩き始めた。カルンは外套の中にいる。光が弱い。怯えの消耗がまだ抜けていないのか、それとも俺の緊張が伝染しているのか。
たぶん両方だ。
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二日目の昼頃、移動しながら考えていた。
ヴェーノの剣は強い。三合で追い詰められた。地形を利用する俺の癖も読まれた。共鳴の衝撃波は受け流された。正面からでは勝てない。それは分かっている。
じゃあどうする。
逃げ続けるか。逃げ続けても祠には着く。着いて、試練を受けて、祠印を取る。だが試練で消耗した後にヴェーノが待ち伏せていたら——
考えたくなかった。でも考えるしかない。
「もっと強い共鳴が必要だ」
声に出していた。カルンが外套から顔を出して、俺を見上げた。
水の祠で掴んだ感覚。音を振動に変えて叩きつける衝撃波。あれをヴェーノは受け流した。共鳴の残滓を纏った剣で、音の波を切り裂いた。
あれより強い波をぶつけるか。それとも別の使い方があるか。
「カルン、ちょっと試していいか」
カルンが首を傾げた。光がゆっくり揺れている。何をするの、という顔。
「共鳴の練習だ。歩きながらやる」
カルンが頷いた。外套から出て、俺の肩に移る。
共鳴を始めた。胸の奥でカルンの旋律と俺の意識が繋がる感覚。水の祠以来、何度かやっている。繋がること自体には慣れてきた。
だが水紋の谷とセルペ高原では勝手が違う。
水の祠では周りに水があった。音を水に乗せて振動を伝える。水が媒介になって、音の力が安定した。ここには水がない。あるのは風だけだ。
音を風に乗せようとした。
旋律が散った。カルンの音が風にかき消される。衝撃波にすらならない。水の中では音が通るのに、風の中では形にならない。
「もう一回」
もう一度試す。今度はカルンの音を強めに引き出す。旋律の振幅を大きくして、風に負けない波を作ろうとする。
やはり散る。風が強すぎて、音が形を保てない。まるで砂を握ろうとしているみたいだ。指の間からさらさらと崩れていく。
「・・・くそ」
三度目。四度目。歩きながら何度も繰り返した。カルンが懸命に旋律を紡いでくれている。肩の上で小さな体を揺らしながら、音を絞り出すように。
五度目の時だった。
一瞬だけ——カルンの旋律が風と重なった。
風の振動を音で捉えるような感覚。風穴を吹き抜ける空気の震えと、カルンの出す音の周波が噛み合う瞬間があった。
風を音で捉える。水に乗せるのではなく、風の振動そのものを掴む。
「カルン、今の——」
途切れた。一瞬で消えた。感覚だけが掌に残っている。何かに触れかけた、という手応え。
カルンが肩の上で息を吐いた。光が弱くなっている。疲れている。何度も共鳴を試したせいだ。音を紡ぐのは精霊にとっても消耗する。カルンほどの高位でも、繰り返せば削られる。
分かっている。分かっているのに。
「もう少しだけやろう、カルン。さっきの感覚、もう一回掴めそうなんだ」
カルンが俺を見た。光が揺れている。疲れの揺れ。でもカルンは頷いた。俺が「やろう」と言えば、カルンは応えてくれる。いつだってそうだ。
六度目。旋律を繋ぐ。風の振動を探る。
掴めない。さっきの一瞬が再現できない。
七度目。
「もうちょっとだ、カルン。もうちょっと——」
カルンの光がかくんと落ちた。
はっとして手を伸ばした。肩から滑り落ちかけたカルンを掌で受け止める。カルンが掌の中で丸くなった。光がほとんどない。目を閉じている。
消耗しすぎだ。七回も共鳴を試したら当然こうなる。分かっていたはずなのに。
「・・・ごめん、カルン。やりすぎた」
カルンが薄く目を開けた。俺の顔を見上げて、ゆっくり首を横に振った。いいよ、と言いたげに。でも体が動かないのは隠せていなかった。
カルンを外套の内側に入れた。胸のあたり、一番温かい場所。カルンが服の布地を握って、そのまま眠りに落ちた。
軽い。カルンの体はいつだって軽い。五十センチほどの小さな体。こんなに軽くて、こんなに強い力を持っていて、それで疲れ切って俺の胸で眠っている。
——守らなければ。
その言葉が、また頭の中で響いた。
ヴェーノは「何度でも来る」と言った。カルンを狙っている。カルンの力を見て、渇望を隠さなかった。あの飢えた目。あいつが来た時に、追い返せるだけの力がなければ——
「だからやらなきゃいけないんだ」
声が小さかった。自分に言い聞かせる声。カルンには聞こえていないだろう。聞かせたくなかった。
でもやらなきゃ。共鳴を強くしなきゃ。あいつの剣を受け流せるくらいに。カルンを守れるくらいに。そのためにはカルンの力が必要で——
カルンの力を引き出すたびに、カルンは消耗する。
頭では分かっている。分かっていて、それでも「もう一回」と言ってしまう自分がいる。
風が吹いた。乾いた風が外套を膨らませて、中のカルンが身じろぎした。
歩いた。カルンが眠っている間は共鳴の練習はできない。だから歩くしかない。一歩でも祠に近づくしかない。
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翌日。高原の稜線に出た。
セルペ高原の奥地。草原がほとんどなくなって、灰色の岩場が広がっている。風はますます強い。体が持っていかれそうになるたびに、足を踏ん張って耐える。
空は晴れていた。雲ひとつない青空の下、岩と風だけの世界が続いている。
カルンは昨夜のうちにだいぶ回復した。肩の上に戻って、周囲を見回している。光は安定しているが——時おりちかっと不安定になる。ヴェーノの気配は消えていない。
稜線を歩いていると、視界が開けた。高原が一望できる場所。南に来た道、北に祠のある断崖。
そして——南東の方角、岩場の間に、小さな人影が見えた。
足が止まった。
距離がある。かなり離れている。だが人の形ははっきり分かる。外套を纏った細い影。こちらに向かって歩いている——いや、歩いていない。立っている。こちらを見ている。
ヴェーノだ。
分かる。あの姿勢。穏やかに立っている、あの独特の佇まい。戦闘態勢ではない。剣も抜いていない。ただそこにいる。
わざとだ。
あいつは姿を見せている。「追っている」と伝えるために。「ここにいる」と教えるために。この二日間、気配だけで俺を追い詰めていたのに、今になって姿を見せた。
心理的に追い込んでいる。猫が鼠をいたぶるように。急がない。時間は自分の味方だと分かっている。こっちが焦れば焦るほど、消耗するのはこちら側だ。
カルンが外套から顔を出した。ヴェーノの方向を見ている。光が揺れた。
怯えの揺れ——だけじゃない。何か違う。カルンの光がゆっくりと明滅している。考えている時の揺れ方だ。水紋の谷で精霊の気配を察した時にもこういう揺れ方をした。怯えだけじゃなくて、何かを見極めようとしている。
だが今の俺にそれを受け止める余裕はなかった。
「見なくていい、カルン」
カルンを外套に押し込んだ。小さな体が一瞬抵抗した。でもすぐに力が抜けて、外套の内側に収まった。
「俺が守る。だから、見なくていい」
自分の声がやけに硬かった。
守っている。カルンを外套に入れて、見せないようにして、ヴェーノの視線から遮って。
——守っているのか。隠しているのか。
その問いが頭をよぎったが、振り払った。考えている場合じゃない。
足を速めた。稜線を抜けて、北斜面に入る。視界からヴェーノが消えた。だが消えたのは姿だけだ。カルンの光が教えてくれる。まだいる。まだ追ってきている。距離は変わらない。詰めてもこない。離れてもいかない。
一定の距離を保って、ついてくる。
「くそ・・・」
焦りが喉の奥に溜まっている。祠はもう近い。あと一日か二日で断崖に着く。試練を受ければ中は安全だ。祠の中にはヴェーノは入れない。
だが試練は消耗する。水の祠の時もそうだった。試練が終わった後は体がぼろぼろだった。カルンも消耗しきっていた。その状態で祠を出たら——
ヴェーノが待っている。
「祠にたどり着けば試練がある。試練の最中にあいつが来たら」
来ない。祠の中には入れない。だが出た後は。
「出た後に、あいつがいたら」
考えが堂々巡りする。走っても逃げ切れない。戦っても勝てない。共鳴を鍛えようにも時間がない。祠に入るしかない。祠で強くなるしかない。強くなってヴェーノを追い返すしかない。
強くなるためにはカルンとの共鳴を——
外套の中で、カルンが服を握る力がほんの少し強くなった。
俺の焦りが伝わっている。共鳴していなくても、一緒にいれば伝わるんだ。カルンは俺の感情に敏感だ。怒りも恐怖も焦りも、全部。
「・・・大丈夫だ、カルン」
嘘だった。大丈夫じゃない。でもそう言うしかなかった。
カルンが外套の中で額を俺の胸に押し当てた。温かい光。弱いけれど、確かに温かい。
大丈夫。そう言ってくれているのか。それとも、大丈夫じゃないと知っていて、それでもそばにいると言ってくれているのか。
歩いた。風が強い。前に進むしかない。後ろにはヴェーノがいる。前には祠がある。
祠は近い。追跡者も近い。
歩く速度を上げた。守るために。強くなるために。カルンを守り切るために。
その焦りが少しずつ何かを歪ませ始めていることに、フェズはまだ気づいていなかった。