風蝕で削られた断崖が、壁のように聳えていた。
灰色の岩肌に無数の穴が開いている。風が通るたびに、その穴が鳴る。笛のような音。高い音、低い音。何十もの穴がそれぞれ違う高さで鳴って、不協和音のように響いている。
「・・・ここだ」
息が上がっていた。最後の半日、ほとんど走るように歩いてきた。背後のヴェーノの気配が少しずつ詰まっている気がして、立ち止まれなかった。カルンの光がずっとちかちかしていた。近い、と言っていた。
断崖の一番大きな裂け目。人が二人並んで通れるくらいの幅。その奥に、石造りの構造物が見えた。
風の祠だ。
水紋の谷の祠は、谷底の水の中にあった。静かで、冷たくて、音といえば水が滴る音だけだった。ここは何もかもが違う。
風が常に唸っている。岩の穴が鳴り続けている。静かな瞬間がない。断崖の手前に立っているだけで、風圧が体を押してくる。
裂け目に近づくと、入口のアーチに文字が刻まれているのが見えた。石に深く彫り込まれた古い文字。
「風より速く、風より賢く。さもなくば風に還る」
声に出して読んだ。風の中でも自分の声は聞こえた。カルンが外套の中から顔を出して、祠の入口を覗き込んだ。
光がふわっと明るくなった。好奇心の光。水紋の谷の祠を見つけた時と同じ反応だ。精霊にとって大精霊の祠は特別な場所なのかもしれない。
だがすぐに光が揺れた。ちかちかと不安定になる。
背後の気配を忘れていない。
「分かってる。急ごう、カルン」
カルンの頭に軽く触れてから、俺は祠の入口を確かめた。裂け目の奥は暗い。風が中から吹き出してきている。冷たい風だ。高原の乾いた風とは違う、祠の奥から押し出される重い風。精霊の気配が濃い。高原に入ってからずっと風の精霊の気配は感じていたが、ここはその比じゃない。大精霊の領域だ。
入れる。入れば試練が始まる。一人と精霊だけで入る。外からは入れない。水の祠の時と同じだ。
つまり——祠の中にいる間は、ヴェーノは来れない。
振り返った。
高原の向こう。岩場と草原が交互に続く灰色の大地。昼過ぎの日差しが岩を白く照らしている。
そこに——小さな人影が見えた。
遠い。だがはっきり分かる。外套を纏った細い影。歩いている。こちらに向かって、一定の速度で歩いている。急いでいるようには見えない。でも確実に近づいている。
ヴェーノだ。
これまでの二日間、あいつは距離を保っていた。見せたり隠れたりしながら、じわじわと精神を削ってきた。それが今は違う。明確にこちらに近づいている。祠に着いたことを分かっている。
祠に入る前に、間に合わせるつもりか。
心臓が跳ねた。
「カルン」
カルンが俺を見上げた。光が揺れている。
今入るか。
祠に入れば安全だ。試練が始まる。ヴェーノは入れない。だが試練で消耗した後に外に出たら、あいつが待ち伏せしている。消耗しきった俺とカルンを。
じゃあヴェーノを先にどうにかするか。
無理だ。勝てない。三合で追い詰められた相手だ。今の俺では勝てない。
逃げるか。祠を諦めて、ヴェーノを撒いてからもう一度来る。
それも無理だ。ヴェーノは何日でも追ってくる。撒けない。あの二日間で分かった。あいつは離れない。
じゃあどうする。
「・・・行くしかない」
歯を食いしばった。口の中で奥歯が鳴った。
考えろ。今ここで立ち止まっても何も変わらない。ヴェーノは来る。逃げても来る。戦っても勝てない。なら——前に進むしかない。
祠に入る。試練を受ける。強くなる。祠印を取る。
ヴェーノが外で待っていたとしても、試練を越えた後の俺は今より強い。共鳴の使い方が広がるかもしれない。水の祠の時だってそうだった。試練の中で掴んだ感覚が、戦い方を変えた。
逃げるんじゃない。前に進むんだ。
「カルン」
カルンの目を見た。小さな体。弱々しい光。でも目はまっすぐ俺を見ている。
「一緒に来てくれ。あいつより先に、強くなる」
カルンが一瞬、目を瞬いた。
それから——頷いた。光が一瞬、ぱっと強くなった。弱っていたはずの光が芯から灯るように明るくなる。覚悟の光。水の祠に入る時にも見た、あの光。
「ありがとう」
カルンを肩に乗せた。外套の中ではなく、肩の上。いつもの場所。カルンが俺の襟を掴んだ。小さな手に力が入っている。
振り返らなかった。ヴェーノの人影がどこまで近づいたか確かめなかった。見たら足が止まる。今は前だけを見る。
剣の柄を一度握って、離した。祠の中で使えるかは分からない。でも手が落ち着く。
裂け目に踏み込んだ。
---
暴風が俺を殴った。
祠の入口——裂け目の奥に、風の壁があった。水の祠は水の幕だった。ここは風だ。暴風のカーテン。前に進もうとする体を押し返す、壁のような風圧。
「っ——」
足が滑った。風に押し戻される。立っているだけで体が後ろに持っていかれる。
カルンを抱きしめた。両腕で胸に抱え込んで、体を丸めて、風の中に頭から突っ込んだ。
一歩。二歩。風が耳元で唸っている。目を開けていられない。カルンが俺の服を握る力が強くなった。飛ばされないように、しがみついてくれている。
三歩。四歩。
風が——止んだ。
静寂。
嘘みたいな静けさだった。一歩前までの暴風が嘘のように、空気が凪いでいる。耳が痛い。さっきまでの轟音から急に無音になって、鼓膜がきんと鳴った。
カルンが肩の上で顔を上げた。光がぱちぱちと好奇心で弾けている。
目を開けた。
広い。
天井が高い。見上げると岩の天蓋が遠く霞んでいる。どれだけの高さがあるか分からない。巨大な空洞だ。壁は灰色の岩肌で、無数の穴が開いている。外から見た穴と繋がっているのだろう。風の通り道が壁中に張り巡らされている。
今は風が止まっている。だが壁の穴がぽっかりと口を開けている。あの穴から風が吹き込めば——この空洞は嵐の中心になる。
足元は平らな石の床。水の祠のように水没していない。だが広すぎる。遮蔽物がない。岩の柱もなければ段差もない。開けた空間に、ただ立っている。
水の祠とは逆だ。あそこは狭くて水に満ちていた。ここは広くて、風だけが武器になる場所。
空洞の中央に、何かが浮いていた。
人の背丈ほどの——風の塊。
形が常に変わり続けている。渦を巻いたかと思えば引き伸ばされ、収縮し、また別の形に変わる。透明に近いが、空気の歪みではっきりと存在が見えた。水の大精霊は水の中に人の形を取っていた。風の大精霊は、形を持たない。風そのもの。
カルンが俺の腕の中で身じろぎした。大精霊を見ている。光がちかちかと明滅している。畏れと好奇心が混じった揺れ方。
風の塊が——動いた。
ぐるり、と。渦が回転して、こちらを向いた。向いた、という表現が正しいか分からない。顔がないのだから。だが確実に「見られている」と感じた。
風の振動が意味を持った。
空気が震えて、声になる。
「遅い来客だ」
低い声だった。風が唸るような、洞窟の奥から響くような声。水の大精霊の静かな声とは全然違う。もっと荒っぽくて、もっと——気まぐれな声。
「もう一人はとうに終えた」
息が詰まった。
もう一人。ルセだ。ルセがここに来て、試練を受けて、終えた。俺より先に。
水の祠と同じだ。あの時もルセが先に試練を終えていた。俺が着いた時にはもう通り過ぎた後だった。
また先を行かれた。水の祠でも、風の祠でも。ルセは俺より先に行く。いつだってそうだ。
唇を噛んだ。奥歯の隙間から血の味がした。
あいつは何日でここを抜けたんだろう。俺みたいに追われながらじゃなく、まっすぐ来て、まっすぐ試練を受けて、まっすぐクリアしたのか。
「あの子は速かった」
風の大精霊が続けた。渦がゆっくり回転している。品定めするように。
「お前はどうだ。遅い足で、何を見せる」
挑発だ。水の大精霊は試練者を淡々と迎えた。こいつは違う。最初から煽ってくる。
「・・・見せる」
声が震えた。震えたことに腹が立って、言い直した。
「見せてやる。やってみなきゃ分からないだろ」
カルンが肩の上で光を強くした。俺の言葉に呼応するように、小さな体が前を向いた。怖いけど、やる。そう言っている。
風の大精霊が——笑った。
笑ったように聞こえた。風が短く、くっと振動した。楽しんでいる。こいつは試練を楽しんでいる。
「いい度胸だ」
渦が膨らんだ。大精霊の気配が変わる。空洞の空気が張り詰める。壁の穴がごうっと低く鳴った。
カルンが俺の腕にしがみついた。光が強くなる。来る。
「では——」
風の大精霊が腕を振った。
腕——形のない体から、風の奔流が鞭のように伸びた。それが壁を叩く。壁の穴が一斉に口を開けた。
風が吹き込んだ。
前から。後ろから。左から。右から。上から。全方向から同時に。壁の無数の穴から吹き込んだ風が空洞の中で交差して、嵐を作った。
足が浮いた。
「っ——!」
体が持ち上がった。壁に叩きつけられそうになる。咄嗟に体を捻って足で壁を蹴り、衝撃を逃がした。着地。だがすぐに次の風が来る。横殴りの突風が腰を掬う。
転がった。石の床を転がって、膝をついて立ち上がろうとした。風圧で押し返される。カルンを落とすまいと片腕で抱え込んだ。
風の大精霊が動いている。渦が空洞の中を高速で移動している。速い。水の大精霊は重さで圧倒した。こいつは速さで翻弄してくる。
壁の穴から次の風が来る。今度は上から。天井付近の穴から降り注ぐ風圧が俺を押し潰そうとする。
膝が折れた。床に手をついた。顔を上げた。
風の大精霊が、嵐の中で笑っている。
試練が——始まった。