歌姫と共に   作:ぶるうず

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試練・後

風穴の音に耳を澄ませた時、頭に一つの発想が浮かんだ。

 

風を追うんじゃない。風の歌を読むんだ。

 

壁の穴が鳴っている。高い穴、低い穴、太い穴、細い穴。全部が違う高さで、違うリズムで、風の通り道を歌っている。大精霊が動くと風の流れが変わって、穴の音が変わる。つまり音の変化を追えば、大精霊がどこにいるか分かる。

 

でも俺の耳じゃ足りない。穴の数が多すぎる。全部の音を同時に聴き分けるなんてできない。

 

——音楽の精霊なら、できるかもしれない。

 

「カルン」

 

胸元のカルンに声をかけた。光が弱く明滅している。消耗している。さっきの共鳴で力を使いすぎた。

 

「カルン、頼みがある。風穴の音が聞こえるか」

 

カルンが俺の胸元から顔を出した。小さな耳を立てるように身を伸ばして、壁の方に向いた。

 

光がちかっと瞬いた。

 

聞こえている。

 

「あいつが動くと風が乱れて、穴の音が変わるんだ。どの穴の音がどう変わったか——それを俺に教えてくれないか」

 

カルンが首を傾げた。戸惑いの仕草。やったことがない。衝撃波を放つのとは全然違う使い方だ。音を攻撃に使うんじゃなく、音を聴いて、情報にする。

 

「無理か・・・?」

 

カルンが目を閉じた。一瞬だけ。それから目を開けて、小さく頷いた。

 

やってみる、と言うように光が絞られた。ぼんやり広がっていた光が、カルンの両耳に集中するように収束する。

 

「ありがとう。——行くぞ」

 

共鳴を始めた。

 

今度の共鳴は、衝撃波の時とは質が違った。力を外に放つのではなく、カルンの感覚を俺の中に引き込む。カルンが聴いている音を、俺の頭に流し込む。

 

最初は何も分からなかった。

 

風の音が一気に流れ込んできて、頭が割れそうになった。高い音、低い音、唸る音、かすれる音。壁中の風穴が全部同時に鳴っていて、それが全部俺の頭の中に押し寄せてくる。

 

「っ・・・・・・」

 

膝が折れかけた。カルンが俺の胸元で身を震わせた。共鳴が深すぎて、音が処理しきれない。

 

だめだ。全部聴こうとしたら潰れる。

 

「カルン、全部じゃなくていい。あいつの——大精霊の動きに連動する音だけでいい。雑音を落としてくれ」

 

カルンが光を揺らした。理解しようとしている。音楽の精霊にとって「雑音を落とす」という作業は、きっと楽器の不要な倍音を削ぎ落とすことに近いのだろう。やったことはないが、カルンの本能がそれを知っているはずだ。

 

音が——変わった。

 

頭の中を埋め尽くしていた嵐のような音が、すうっと引いていく。代わりに、いくつかの音だけが浮かび上がってきた。

 

北の壁の高い穴。東の壁の中ほどの穴。天井近くの細い穴。

 

三つの音が、はっきり聞こえる。他の音は背景に退いて、この三つだけが前に出ている。

 

大精霊が動いた。

 

北の穴の音がぐんと高くなった。風の流れが北に偏った——大精霊が北から離れた。東の穴の音が震えた。風が乱れている。大精霊がそこを通った。

 

「——東」

 

声に出した。体が動いた。考える前に足が踏み出していた。

 

東の壁に向かって駆ける。剣を構える。音が示す場所——東の壁の中ほどの穴の前に、風の乱れがある。大精霊がそこを通過する。

 

斬った。

 

手応えがあった。

 

剣が風の塊に触れた。一瞬だけ——透明な渦の端をかすめた。風が散って、剣を持つ手に振動が伝わった。

 

当たった。

 

「——ほう」

 

大精霊の声。さっきまでの「遅い」とは違う響き。初めて、品定めの目が変わった。

 

「耳を使ったか。面白い」

 

心臓が跳ねた。当たった。初めて大精霊に触れた。カルンの聴覚を借りて、風の音から大精霊の動きを読んだ。

 

だがカルンの光がまた弱くなった。共鳴の負荷。音を選り分ける作業は、衝撃波を放つのとは別の形でカルンを削っている。

 

「カルン、もう少しだけ——」

 

カルンが頷いた。光を絞り直す。もう一度、風穴の音を選り分け始める。

 

大精霊が速度を上げた。

 

風が激しくなった。壁の穴が一斉に唸り始める。さっきまでは三つの穴で十分だった。だが大精霊の動きが速くなると、風の乱れ方も複雑になる。三つじゃ足りない。五つ。六つ。カルンが拾う音の数が増えていく。

 

頭の中で音が鳴り続けている。北の高音が下がった。南の低音が跳ねた。東が震えた。西が止まった。天井が——

 

「南西」

 

踏み込んだ。

 

カルンの旋律が風穴の音と重なる瞬間があった。カルンが自分の音を風の歌に合わせている。相手の演奏を聴いて、合わせる。合奏だ。カルンの旋律が風穴の音に溶け込むことで、風の流れがまるで楽譜のように見えてくる。

 

どの穴が鳴って、どの穴が止まって、どの方向に風が流れて、その先に何がいるか。

 

「そこだ」

 

剣を振った。二度目の接触。大精霊の渦の中心に近い部分に刃が届いた。風が大きく乱れた。壁中の穴の音が一瞬めちゃくちゃに混ざって、それからまた整列する。

 

「く・・・」

 

反動で腕が痺れた。大精霊の体に触れると、風圧の塊を殴ったような衝撃が返ってくる。右手の指が震えている。

 

でも当たっている。読めている。

 

カルンが限界に近い。光が明滅している。点いたり消えたりを繰り返している。風穴の音を選り分ける精度が落ちてきた。さっきまで六つの穴を拾っていたのが、四つに減って、三つに減って——

 

「カルン」

 

声をかけた。カルンが顔を上げた。光がほとんどない。でも目はまだ開いている。まだ聴いている。

 

あと一撃。あと一度だけ。

 

俺の体にも共鳴の負荷がかかっている。頭の奥で鈍い痛みが脈打っている。カルンの感覚を共有し続けたせいで、自分の感覚との境界が曖昧になっている。どこまでが俺の耳で、どこからがカルンの耳なのか分からない。

 

でもあと一撃で——

 

風穴の音が一つ、完全に止まった。

 

北の壁の一番高い穴。さっきからずっと甲高い音を出していた穴が、ぴたりと黙った。

 

風が止まったんじゃない。大精霊がその穴の前に止まったんだ。風の通り道を自分の体で塞いでいる。

 

大精霊が動きを止めた。

 

一瞬。ほんの一瞬の静止。次の動きに移る前の、切り替えの隙間。

 

「——今だ」

 

最後の力を振り絞った。床を蹴った。北の壁に向かって走る。カルンが最後の旋律を紡ぐ。かすれた、消え入りそうな音。でもその音が北の穴の沈黙を指し示している。ここにいる。ここにいると。

 

剣を突き出した。

 

北の壁の穴の前。風の塊が——大精霊がそこにいた。動き出そうとしていた。でも俺の方が一歩だけ速かった。

 

刃が風の核に触れた。

 

渦の中心。風が生まれる場所。そこに剣先が届いた瞬間、大精霊の体がぶわっと膨らんだ。

 

風が爆ぜた。

 

空洞全体に突風が吹き荒れた。壁の穴が全部同時に絶叫するような轟音を上げた。俺の体が後ろに押し返される。足が滑る。床に膝をついた。剣の切っ先から手が離れそうになって、もう片方の手で柄を押さえた。

 

そして——風が止んだ。

 

嘘みたいに、ぴたりと。

 

壁の穴から吹いていた風が全部止まった。空洞に静寂が降りた。さっきまでの轟音が嘘のように、何の音もしない。

 

いや——音はある。

 

壁の穴から、かすかに、優しい音色が響いている。唸りでも絶叫でもない。笛の音に似た、穏やかな風の歌。

 

大精霊が形を解いていた。渦が解けて、風が柔らかく散っていく。透明な体が空洞の中に広がって、天井まで満たしていく。圧迫感はない。試練の時の暴風とはまるで違う、穏やかな風。

 

「声」が聞こえた。

 

「風を追うな」

 

風が形を変えて、俺の前に降りてきた。人の輪郭を取った風の塊——大精霊がそこにいた。

 

「風を聴け」

 

低く、深い声。挑発でも忠告でもない。認める声。

 

「お前はそれを知った。速さとは、先に動くことだ。風より速い足はいらない。風より先に読む頭があればいい」

 

大精霊の手が動いた。風が起きた——穏やかな風。その風に何かが乗っている。金属の光。

 

掌を上に向けた。風に運ばれてきた小さな金属片が、手のひらに落ちた。

 

祠印だ。

 

水の祠印とは違う手触り。水の祠印は冷たくて滑らかだった。風の祠印はざらつきがあって、乾いている。表面に刻まれた紋様は風の渦を象っている。

 

二つ目の祠印。

 

膝が折れた。そのまま前のめりに倒れそうになって、手をついた。剣が手から落ちて石の床に甲高い音を立てた。

 

「はっ・・・はっ・・・」

 

息が上がっている。体中が痛い。打撲と擦り傷が全身に重なって、動かせない場所の方が多い。肩が上がらない。膝が笑っている。右手の指がこわばって開かない。

 

カルンが俺の手の中にいた。

 

いつからか、カルンは俺の手のひらの中に落ちていた。共鳴が切れた瞬間に力尽きたのだろう。光がほとんどない。目が閉じている。小さな体が手のひらの上で横たわって、呼吸のようにかすかに上下している。

 

水の祠の後よりも消耗がひどかった。あの時はまだカルンに光が残っていた。今は——ほとんど灯りが消えている。俺がやらせた。「もっと強く」と言って、音を選り分けてくれと言って、限界を越えさせた。

 

「カルン」

 

声が掠れた。

 

「カルン、終わったよ。祠印、取れた」

 

返事がない。

 

「・・・カルン」

 

手のひらの中の小さな体に、もう片方の手をそっとかぶせた。温かい。光はないけど、まだ温かい。生きている。

 

「ありがとう。カルン」

 

手の中で、かすかに——本当にかすかに、光が灯った。豆粒みたいな小さな光。目は閉じたまま。でも光った。俺の声が聞こえたのだ。

 

応えてくれている。

 

祠印を腰の袋に入れた。水の祠印の隣に、風の祠印を並べる。二つの金属片が触れ合って、小さな音を立てた。

 

立ち上がった。足が震えた。膝に力が入らなくて二度よろけた。壁に手をついて、どうにか体を支えた。カルンを胸元に抱え込む。小さな体が外套の布地に包まれる。

 

「・・・出よう」

 

祠の出口に向かって歩き始めた。一歩が重い。全身の筋肉が悲鳴を上げている。水の祠の後もきつかったが、あの時はまだ自分の足で歩く余裕があった。今は壁に手をつきながら、引きずるように足を動かしている。

 

カルンの分まで俺が動かなきゃいけない。カルンはもう動けない。

 

出口が見えてきた。暴風のカーテン——だったはずのものが、今は穏やかな風の壁に変わっている。試練が終わったからだろう。透き通る風の向こうに、夕焼け色の空が見える。

 

風の壁を抜けた。

 

外の空気が顔に当たった。乾いた風。セルペ高原の風。祠の中の風とは違う、自然の風。夕日が高原を赤く染めている。風蝕の断崖が長い影を落としている。

 

俺は立ち止まった。

 

風の中に、何かが混じっていた。

 

風のにおいじゃない。高原の草のにおいでもない。人のにおいだ。煙草か、革か——人が近くにいる時の気配。

 

祠の出口のすぐ先、断崖の裂け目の向こうに。

 

誰かが、待っている。

 

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