風が四方八方から襲いかかってきた。
足が地面につかない。体が宙に浮いて、壁に向かって投げ出される。咄嗟に腕を上げて受身を取ったが、岩壁への衝撃が肩から腰まで走り抜けた。
「ぐっ——」
背中から壁に叩きつけられた。息が詰まる。肺の空気が一瞬で押し出された。
カルンが肩にしがみついている。小さな手が俺の襟を掴む力が震えている。光がちかちかと明滅して、風の中で必死に体勢を保とうとしている。
立て。
膝に力を入れた。壁を背に、足を踏ん張って立ち上がる。風が正面から押してくる。前に進もうとする体を風圧が押し返す。
風の大精霊が空洞の中を旋回していた。渦を纏った透明な体が、壁の穴から穴へ跳ぶように移動する。速い。水の大精霊は水の中にどっしり構えて、重さと圧力で試練者を追い詰めた。こいつは違う。留まらない。一箇所にいない。風そのもののように空間を駆け回っている。
壁の穴が鳴った。左の壁——三つの穴が同時にごうっと唸って、横殴りの風が俺の脇腹を殴る。たたらを踏んだ。右に流されて、膝が折れた。石の床に手をついた。
「くそ・・・」
顔を上げた。大精霊を目で追う。渦が天井付近を高速で旋回している。次はどこから来る。上か、横か、正面か。
上だった。
天井の穴から圧縮された風が降り注いだ。頭を押さえつけられるような重圧。体が床に押し潰される。両膝と両手が床についた。四つん這いで耐えるだけで精一杯だった。
風が止んだ——と思った瞬間、背後から突風が来た。
吹き飛ばされた。石の床を転がって、空洞の反対側の壁に肩からぶつかった。ごっ、と骨が鳴る鈍い音。視界が白くなった。
「・・・っ」
痛い。肩が、背中が、膝が。全身に打撲の痛みが重なっていく。水の祠の試練では水圧と戦った。あの時も苦しかったが、水には粘りがあった。体を受け止めてくれる柔らかさがあった。風には何もない。ぶつかるのは岩壁と石の床だけだ。
大精霊が降りてきた。空洞の中ほどで渦を巻いている。こちらを見ている。形のない体が、品定めするようにゆっくり回転している。
「遅い」
風の声が空洞に響いた。
「足が遅い。頭が遅い。目が遅い。全部遅い」
挑発だ。分かっている。だが言い返す息がなかった。壁に背をつけたまま、肩で息をしている。
カルンが俺の胸元で光を揺らした。不安そうな揺れ。大丈夫か、と聞いている。
「・・・大丈夫。まだいける」
嘘だ。体中が軋んでいる。でもここで座り込んだら終わりだ。
剣を抜いた。腰の鞘から引き抜いて、構える。風の大精霊に切っ先を向ける。
大精霊が——笑った。風がくっと振動した。
「剣か。あの子も最初はそうだった」
あの子。ルセのことだ。
大精霊が消えた。いや、動いた。一瞬で空洞の端に移動している。残像すら見えない。風の流れが乱れただけ。
来る。
右の壁から風が吹き込んだ。その風に乗って、大精霊が滑り込んでくる。速い。速すぎる。
剣を振った。大精霊がいたはずの場所を刃が通り過ぎる。空を切った。手応えがない。もうそこにいない。
背後に気配。振り向く前に風圧で前に突き飛ばされた。床に手をついて転がり、立ち上がる。大精霊は既に天井付近に戻っている。
「だから遅い」
歯を食いしばった。口の中に血の味がした。さっき壁にぶつかった時に唇の内側を切ったらしい。
もう一度。剣を構え直して踏み込んだ。大精霊の気配を追って右に走る。壁の穴から風が吹いた——左からだ。読み間違えた。横殴りの風に足を掬われて、床を滑った。膝小僧が石の床を擦って、鋭い痛みが走る。
立ち上がって、もう一度。
大精霊が目の前を横切った。斬る。振った。手応えがない。空気を切っただけだ。大精霊はもう斜め上にいる。
「三度目だ。同じことを繰り返すのは遅い証拠だ」
腕が重い。剣を持つ右手が痺れている。何度も壁に叩きつけられて、握力が落ちてきている。
追えない。目で追えない。速さが違いすぎる。剣を振っても空を切るだけだ。水の祠の時は、地形を使って大精霊の動きを制限した。水面を足場にして、水の流れを利用して、相手の重さを逆手に取った。
だがここには何もない。広い空洞と、壁の穴と、風だけ。地形を使おうにも、この空間に遮蔽物がない。壁に背を預ければ逃げ場がなくなるだけだ。風穴から吹く風は大精霊の武器であって、俺の味方じゃない。
「カルン」
カルンが顔を上げた。光が震えている。
「共鳴だ。やるぞ」
カルンが頷いた。小さな体が光を強める。共鳴の準備。フェズとカルン、二つの意識を重ねる。
音が生まれた。
カルンの旋律。胸の奥で鳴り始める透明な音色。水の祠で掴んだ感覚——音を振動として使い、衝撃波にする。あの技が使えれば、大精霊の速さに対抗できるかもしれない。面で攻撃すれば、一点を狙う必要がない。
共鳴が深まる。カルンの旋律が俺の中に広がっていく。手のひらに振動が集まる。音の塊。衝撃波の種。
放った。
音の衝撃波が空洞に広がる——はずだった。
風に散った。
衝撃波が風の中に飲み込まれていく。音が風に掻き消される。水の祠では水の中を音が伝わった。水は音をよく伝える。だが風は違う。風は音を散らす。方向も強さもばらばらに乱れる突風の中で、音の衝撃波は形を保てなかった。
「・・・嘘だろ」
もう一度。カルンが旋律を紡ぐ。共鳴を強める。もっと強い衝撃波を——
放った。今度は少しだけ形を保った。だが大精霊に届く前に、壁から吹き込んだ横風に押し流されて、斜め上の壁に当たって消えた。
当たらない。風の中では音がまっすぐ飛ばない。
「もっと強く、カルン」
声が焦りで尖った。自分でも分かっていた。でも止まれなかった。
カルンが応えた。光を強める。旋律が強くなる。共鳴が深くなる。体に振動が染み渡って、手のひらに音が集まる。さっきより大きな衝撃波。
三度目。放った。
音の塊が風の中を突き進む。一瞬——大精霊の渦に触れた気がした。
だがその瞬間、壁の穴が一斉に鳴った。四方から風が吹き込み、空洞の中に乱気流が生まれた。俺の衝撃波は渦に巻き込まれてばらばらに砕けた。
風圧が俺を襲った。体が浮く。また壁に——
カルンが弾き飛ばされた。
「カルン!」
俺の肩から、小さな体が風にさらわれた。旋律が途切れた。共鳴が切れた。カルンの光が風の中でくるくると回転している。壁に叩きつけられる——
手を伸ばした。
考える前に体が動いた。壁にぶつかる衝撃を無視して、風の中に腕を突き出した。指先がカルンの体に触れた。掴んだ。小さな体を両手で包み込んで、胸に抱え込んだ。
背中から壁に激突した。衝撃で息が止まった。でもカルンは手の中にいる。手の中から光が漏れている。弱い光。
「カルン、大丈夫か。カルン」
手のひらの中でカルンが身じろぎした。目を開けている。光がちかちかと弱く明滅している。大丈夫。生きている。でも消耗で光が弱い。共鳴の負荷がカルンにも重くのしかかっている。
俺がやらせた。「もっと強く」と言って、カルンに無理をさせた。
「・・・ごめん」
カルンが首を振った。ぶるぶると小さく首を振って、俺の手のひらに額を押しつけた。謝るな、と言っている。
だが光は弱い。さっきまでの好奇心の輝きはない。
風の大精霊の声が降ってきた。
「考えてから動け」
低い声。さっきの挑発とは違う響き。
「風は止まらない。お前が止まっても風は止まらない。風の中で足を止めるな。だが——闇雲に走るな。考えてから動け」
忠告だ。挑発ではない。大精霊がこちらに何かを伝えようとしている。
「速さとは、ただ速いことではない」
渦がゆっくりと回転した。一拍の静寂。壁の穴から吹く風が少しだけ弱まった。
猶予をくれている。僅かな。
壁に背を預けたまま、息を整えた。カルンを胸元に抱えている。心臓がうるさい。全身が痛い。何度壁に叩きつけられたか分からない。肩と背中に打撲の痛みが重なって、腕を上げるだけで筋肉が軋む。右手の指は剣を握りすぎて白くなっている。膝小僧の擦り傷から血が滲んでいる。
汗が目に入った。袖で拭った。手が震えている。寒いわけじゃない。体力が限界に近づいている。
カルンの光を見た。弱い。祠に入った時の半分も輝いていない。共鳴のたびにカルンの力を削っている。俺を助けるために。俺が「もっと強く」と言ったから。
考えろ。
風が速すぎて追えない。剣で斬りかかっても空を切る。共鳴の衝撃波は風に散る。力で押しても勝てない。水の祠の時は「環境を作る」ことで突破した。水を味方にした。でも風は味方にならない。風は大精霊そのものだ。
じゃあどうする。
「考えてから動け」——大精霊はそう言った。
速さの試練。だが求められているのは速さだけじゃない。入口のアーチに刻まれていた言葉を思い出す。「風より速く、風より賢く」。速さと、賢さ。判断力。
力で勝てないなら、頭で勝つ。
でも、どうやって。
背中の壁から風が吹き込んでいる。風穴。壁中に開いた穴から、それぞれ違う強さ、違う方向の風が吹いている。
背中の穴からは低い音。右上の穴からは高い甲高い音。左の穴からはごうごうと太い音。
・・・音。
壁の穴が、鳴っている。一つ一つの穴が違う音を出している。穴のサイズが違うから。位置が違うから。風の通り方が違うから。
風向きが変わると、音も変わる。さっき大精霊が動いた時、風の流れが乱れて壁の穴の音が変わった。右の穴の音が急に高くなって、左の穴が低くなった。大精霊が右から左に動いたから、風の流れが偏ったんだ。
つまり——壁の穴の音の変化を追えば、風の流れが分かる。
風の流れが分かれば、大精霊がどこにいるか分かる。
風は不規則に見える。でも規則がある。風穴の位置と大きさが風の流れを決めている。大精霊はその流れに乗って動いている。流れを読めば、次にどこに来るか——
水の祠は「環境を作る」だった。水を味方にして、音で水を操った。
風の祠は「環境を読む」だ。風そのものは操れない。大精霊の領域だから。でも風の流れを読むことはできるかもしれない。風穴の音で。
カルンが俺の胸元で顔を上げた。光がちかっと瞬いた。俺の考えを感じ取ったのか。共鳴の残滓がまだ繋がっている。音楽の精霊。音を聴く精霊。もしカルンの耳を借りられたら——
いや、まだ早い。まず自分の耳で確かめる。
壁の風穴に耳を澄ませた。
高い音。低い音。太い音。細い音。
全部の穴が、違う高さで鳴っている。風が通るたびにそれぞれの穴が固有の音を出して、空洞全体が一つの楽器のように響いている。
——それは、音楽に似ていた。