祠を出た。風のカーテンが開く。夕暮れの高原に——ヴェーノが立っていた。
断崖の裂け目の先、十歩ほどの距離。腕を組んで岩に背を預けている。夕日が顔の半分を赤く染めていた。穏やかな笑み。まるで友人を待っていたかのような、力の抜けた姿勢。
「お疲れ様です。大変な試練だったでしょう」
声が柔らかい。敵意がない。それが逆に背筋を凍らせた。
剣に手をかけた。——腕が震えた。指が柄を握り込めない。右手のこわばりが取れていない。試練で全身を使い果たしている。立っているだけで精一杯だ。
胸元のカルンに意識が向いた。外套の中で小さな体が横たわっている。光がほとんどない。息をしているのかどうかも分からないくらい、静かだった。
ヴェーノの目がカルンに向いた。一瞬。ほんの一瞬だけ。でもその目が捉えたものを、俺は見逃さなかった。
「その精霊、もう限界ですね」
ヴェーノが腕を解いた。立ち上がる。だが近づいてはこない。十歩の距離を保ったまま。
「あなたが無理をさせたんでしょう。試練で力を使わせて、共鳴を酷使して。やはり——あなたには荷が重い」
歯を食いしばった。否定したかった。でもカルンの消耗を見れば、ヴェーノの言葉を跳ね返す根拠がない。「もっと強く」とカルンに求めた。限界を超えてまで音を選り分けてくれと頼んだ。それは事実だ。
「祠印も取れたようですね。おめでとうございます。——二つ目ですか」
何も答えなかった。ヴェーノは待たなかった。
「少し、僕の話を聞いてもらえませんか」
声のトーンが変わった。穏やかさは変わらない。でも、どこか脆いものが混じった。
「僕にも精霊がいたんです」
ヴェーノが右手を持ち上げた。掌を見ている。そこに何かがあったように。何かがいたように。
「概念の精霊です。あなたのカルンと同じ——自然由来ではない、数の少ない精霊。僕の精霊は・・・そうですね、記憶を司っていました」
風が吹いた。ヴェーノの髪が揺れた。夕日が傾いて、影が長くなっていく。
「共鳴は素晴らしかった。精霊と心が繋がる感覚を、あなたは知っているでしょう。自分の中に自分ではないものが流れ込んできて、世界の見え方が変わる。あれは——本当に、何にも代えがたい」
ヴェーノの声が震えた。ほんの微かに。すぐに平静に戻したが、俺はそれを聞いた。
「蛇の目の任務で、僕の精霊は壊れました」
蛇の目。
初めて聞く名前だった。でもその言葉が落ちた瞬間、胸の奥で何かが反応した。旅の始まりに出くわした精霊ハンターたちが持っていた蛇の紋様——
「共鳴を酷使しすぎたんです。任務のために、もっと力を、もっと深くと求め続けた。精霊が限界だと訴えていたのに、僕は——」
ヴェーノが言葉を切った。掌を閉じた。握り拳。力がこもっている。
「僕が壊したんです」
穏やかな仮面が、剥がれた。
一瞬だけ。その下に見えたのは、底の知れない空虚だった。穴が開いている。ヴェーノの中に、精霊がいた場所にぽっかりと穴が開いていて、何年経っても塞がらないのだと——そう分かった。
「だから分かるんです、フェズ」
名前を呼ばれた。いつの間に知ったのか。街で、高原で、俺を追い続ける間に調べたのか。
「あなたも同じことをしている」
心臓が跳ねた。
「あの子に頼りすぎている。共鳴を求めすぎている。試練のたびに限界を押して、いつか——壊す」
否定が出てこなかった。
試練の中でカルンに何をさせた。「もっと強く」と言った。音を選り分けてくれと頼んだ。カルンの光が消えかけるまで共鳴を続けた。それは——ヴェーノが精霊にしたこととどう違う。
「壊す前に、僕に渡してください」
ヴェーノが一歩踏み出した。九歩。
「僕なら、もうあの過ちは犯さない。あの子に無理はさせない。分かるでしょう、フェズ。あなたには守る力がない。守ろうとすればするほど、あの子を削っていく」
胸の中でカルンが身じろぎした。
小さな動き。光はほとんどないのに。力尽きているはずなのに。カルンが俺の心臓の上で、わずかに頭をもたげた。
カルンの光が——一粒だけ、灯った。
弱い。消えそうなくらい弱い。でもその光は、外套越しに俺の胸を温めた。
「・・・それでも渡さない」
声が出た。掠れていた。震えていた。でも出た。
「お前の言ってることが正しいのかもしれない。俺は——カルンに無理をさせた。それは認める」
ヴェーノの目が細くなった。
「でもお前に渡す理由にはならない。カルンは物じゃない。お前の穴を埋めるための道具でもない。カルンがどうするかは、カルンが決める」
胸の中で、カルンの光がまた一つ瞬いた。小さく、弱く。でも確かに。
ヴェーノの目が変わった。穏やかさが消えた。残ったのは飢えだった。喪失の穴を覗き込んだ時の、暗くて冷たい光。
「そうですか」
ヴェーノが剣を抜いた。
刃に淡い光が走った。共鳴の残滓。精霊を失ってなお残る力の名残。長くは持たないが、一撃は精霊使いに匹敵する。
「困りますね」
足が動かなかった。
剣に手をかけている。だが抜く力がない。体が動かない。全身が試練で削られている。走ることすらできない。
ヴェーノが歩いてくる。ゆっくりと。急ぐ必要がないと知っている。俺が動けないことを見抜いている。
八歩。七歩。六歩。
逃げなきゃ。戦えない。カルンも動けない。逃げるしかない。でも足が竦んでいる。背中を向けたら斬られる——
胸元で、カルンが動いた。
力尽きているはずだった。光がほとんどないはずだった。でもカルンが俺の胸から顔を出した。小さな目でヴェーノを見た。
そしてカルンが——歌った。
歌ではない。旋律だ。かすれた、消え入りそうな、壊れかけの旋律。
でもその旋律が風を掴んだ。
セルペ高原の風。乾いた、冷たい、夕暮れの風。カルンの旋律がその風と共鳴して——音の風が起きた。
衝撃波じゃない。風穴の音を拾った時の探知でもない。カルンが自分の力で風を巻き起こした。祠の中で風穴の音と合奏した感覚が、ここでも使える形に変わっている。音で風を呼ぶ。音で風を操る。
風がヴェーノの顔を打った。
砂と乾いた草が巻き上がって、ヴェーノの視界を奪った。ヴェーノが腕で目を覆う。一瞬——一秒にも満たない隙。
「フェズ」と、カルンが言った気がした。
言葉じゃない。声でもない。光の揺れと、旋律の温度と、胸の上の小さな体の震えが、そう伝えていた。
走れ、と。
足が動いた。
何が動かしたのか分からない。自分の意思か、カルンの旋律がくれた力か。どちらでもよかった。足が地面を蹴って、俺は走り出した。
カルンを胸に抱え込んで、高原の斜面を駆け下りる。
夕暮れの赤い光の中を走った。岩の間を縫った。草の上を滑った。膝が笑っている。肩が上がらない。でも走った。足を止めたら終わりだ。
背後にヴェーノの気配。追ってきている。だが高原の下り道は複雑だ。岩が点在して、草むらが視界を遮る。風蝕で削られた溝が地面を走っている。
地形を読んだ。試練の中で掴んだ感覚——環境を読む力が、体に残っていた。あの岩の裏に死角がある。この溝を這えば追手から見えなくなる。風の方向を読めば、足音が届かない位置が分かる。
風の祠で学んだことだ。風を追うな。風を読め。
岩陰に滑り込んだ。息を殺した。カルンを両手で覆って、光が漏れないようにした。
ヴェーノの足音が近づいて——通り過ぎた。
しばらく動けなかった。岩の裏で背中を壁に押し付けて、荒い呼吸を抑えた。心臓がうるさい。全身が震えている。
足音が戻ってきた。だが方向が違う。ヴェーノが俺を見失っている。すぐ近くにいるのに、岩の死角と風の方向が噛み合って、俺の位置を特定できていない。
「・・・」
ヴェーノの足音が止まった。
そして——笑い声。小さな、穏やかな笑い。
「上手に逃げますね」
声が風に乗って届いた。近い。でも岩の向こう側だ。
「追いかけっこはあまり好みではないんです。今日はここまでにしましょう」
剣を鞘に収める音が聞こえた。金属と革が擦れる、かちりという音。
「また会いましょう、フェズ」
足音が遠ざかっていく。ゆっくりと。急がない足取りで。
「あなたがあの子を壊す前に」
最後の言葉だけが、風に残った。
足音が消えるまで動けなかった。五分か、十分か。時間の感覚がない。夕日が沈んで、高原が紫色に染まっていく。風が冷たくなっていく。
ようやく体を動かした。岩の裏から這い出した。立ち上がろうとして、膝が折れた。もう一度試して、どうにか立った。
手の中のカルンを見た。
光が消えていた。目が閉じている。小さな体がぐったりと手のひらの上に横たわっている。呼吸のような微かな上下だけが、生きている証拠だった。
あの風。カルンが自分の意思で起こした風。力尽きていたはずなのに、最後の力を振り絞って、俺を逃がすために——
「ごめん」
声が掠れた。
「ごめん、カルン。俺が——俺のせいで」
カルンが風を起こしたのは、カルンの意思だ。誰にも頼まれていない。俺を守るために自分で動いた。それは分かっている。
でも俺の頭はそう受け取らなかった。
カルンに無理をさせた。試練で限界を押して、そのうえ逃走のために最後の力まで使わせた。ヴェーノの言葉が頭の中で回っている。
「あなたも同じことをしている」
「いつか壊す」
手の中のカルンを胸に抱え込んだ。外套で包んで、自分の体温で温めた。
夜の道を歩き始めた。高原を下る。どこに向かえばいいか分からない。でも止まれない。ヴェーノはまた来る。「また会いましょう」と言った。次はもう、逃げきれないかもしれない。
蛇の目。ヴェーノが口にした名前。あの精霊ハンターたちが持っていた紋様——蛇が自分の尾を咥えた印。あれが組織の名前だったのか。
精霊を狙う組織。概念の精霊を「回収」する連中。ヴェーノはその幹部で、かつて自分の精霊を壊して、その穴を埋めるためにカルンを求めている。
一人では——
足が止まりかけて、歯を食いしばった。
一人でも守る。
ラリサはいない。トルニオはいない。ルセとは別々の道を歩いている。誰にも頼れない。俺しかいない。俺がカルンを守るしかない。
もっと強くならなきゃいけない。もっと共鳴を深めて、もっと速く判断して、もっと——
手の中のカルンが、かすかに震えた。寒いのか。冷たい風が吹いている。夜の高原は冷える。外套を深く巻き直して、カルンの体を覆った。
「大丈夫。俺がいる」
カルンと出会った頃から何度も言った言葉。あの時は——あの時はもっと、柔らかかった気がする。今この言葉には、何か固いものが混じっている。祈りではなく、誓いでもなく。もっと切羽詰まった何か。
守らなければ。
何があっても。誰が来ても。
この子だけは、絶対に。