高原を離れて二日。フェズは南東の街道をひたすら歩いている。振り返ることが、怖くてできない。
街道は平坦だった。セルペ高原の風に晒された岩場とは違い、背の低い草が道の両脇に広がっている。風は穏やかで、空は高い。旅するには悪くない天気のはずだった。
でも足が止まらない。
「また会いましょう、フェズ」
ヴェーノの声がまだ耳の奥に貼りついている。穏やかな声。笑っている声。あの余裕が怖い。追いかける側には時間がある。焦っているのはいつも追われる側だ。
何度か振り返りそうになった。そのたびに歯を食いしばって前を向いた。振り返って誰もいなくても安心できない。振り返ってヴェーノがいたら、もう走れない。だったら見ない方がいい。
昨夜は街道脇の木の根元で野営した。火は小さく焚いた。明るくすると目立つ。暗いと落ち着かない。結局ほとんど眠れなかった。風が吹くたびに目が覚めた。セルペ高原の風の音に似ていたから。
朝になって歩き始めた時、少しだけ安堵した。動いている方が楽だった。止まると考えてしまう。歩いている間は、足を動かすことに集中できる。
手の中のカルンに意識が向いた。
外套の中で丸くなっている。手のひらの上で、小さな体が温まっている。光はまだ弱い。試練の前の輝きには程遠い。でも昨日よりは少しだけ明るくなった。呼吸のリズムも穏やかになっている。
回復している。ゆっくりと。
「・・・よかった」
声に出したつもりはなかった。でも出ていた。カルンがかすかに身じろぎして、手のひらの上で頭をもたげた。
「寝てていい。まだ歩くから」
カルンがまた丸くなった。信頼しきった姿勢で、俺の手の中に収まっている。
その姿を見るたびに、胸の奥が軋む。
試練の中でカルンに何をさせた。「もっと強く」と求めた。限界を超えて音を選り分けてくれと頼んだ。それだけじゃない。祠を出た後も、力尽きたカルンが最後の旋律で風を呼んで俺を逃がした。あれはカルンの意思だった。でも——カルンがそうしなければならない状況を作ったのは誰だ。
「あなたも同じことをしている」
ヴェーノの声が蘇る。消えない。消したいのに消えない。
腰の袋に手が触れた。中に二つの祠印がある。水の祠印は冷たく、風の祠印は乾いた手触りがする。二つ取った。あと三つ。
三つの祠を回って、巡祠の覇者になれば——カルンを狙う奴は減る。誰もが認める強さの証明があれば、簡単には手を出せなくなる。そのためにはもっと速く回らなければ。
もっと強く——
その言葉が浮かんで、飲み込んだ。今カルンに「もっと」を求めてはいけない。分かっている。分かっているのに、焦りが勝手に先走る。
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昼を過ぎた頃、街道沿いに小川が現れた。
草の合間を縫って、透き通った水がゆるやかに流れている。水紋の谷ほど大きくはない。膝下くらいの浅い流れだ。
「カルン、水があるぞ。少し休もう」
カルンが手の中で頭を上げた。光がぱちっと一つ瞬いた。水、と言っているようだった。
岸辺に腰を下ろした。ブーツを脱いで足を水につけた。冷たい。高原の雪解け水が流れ込んでいるのかもしれない。足の裏から疲れが溶け出していくような感覚があった。二日間ろくに休まず歩き続けた足が、ようやく弛んだ。
外套から出てきたカルンが、ふわりと宙に浮いた。まだ不安定だ。高く飛べない。でも自力で浮けるくらいには回復している。
小川の水面にカルンが近づいた。
水面すれすれを漂って——光を反射させ始めた。
自分の体から放つ光を水面に当てて、跳ね返る光で遊んでいる。きらきらと水面が揺れる。カルンが体を傾けると光の角度が変わって、水飛沫のように光の粒が散った。
小さな魚が光に寄ってきた。カルンが驚いて少し浮き上がる。でもすぐに興味を示して、魚の上を追いかけるように漂い始めた。光を当てると魚が反応して向きを変える。カルンがそれを面白がって、また光を当てる。魚がくるりと回る。カルンの光が弾む。
水紋の谷でやっていたのと同じだ。ラリサと旅をしていた頃、谷の清流でカルンが同じことをしていた。あの時は——あの時はまだ、何も怖くなかった。
カルンが楽しそうだった。光の揺れ方が明るい。跳ねるような、弾むような光。疲れも追跡者も忘れて、ただ水と光で遊んでいる。
壊れていない。
カルンは壊れていない。疲れているだけだ。回復すれば元に戻る。元気になれば、こうして遊ぶ。笑う。光を弾ませる。
なのに——
「あなたが無理をさせた」「いつか壊す」
ヴェーノの言葉が割り込んでくる。水面で遊ぶカルンの姿を見ているのに、頭がそれを素直に受け取らない。元気な姿を見ても、「今は大丈夫でも次はどうなる」と考えてしまう。
カルンが振り返った。フェズの方に飛んでくる。頬に額を寄せようとした。いつもの仕草。「大丈夫だよ」のサイン。
体が勝手に動いた。
ほんの少しだけ、身を引いた。
一瞬。自分でも分からない反射だった。カルンの額が頬に触れる前に、首が傾いた。避けたわけじゃない。逃げたわけでもない。でも——何か、カルンに触れることが怖かった。触れた瞬間にカルンの消耗が伝わってくるような気がした。自分がカルンを削っている証拠を突きつけられるような気がした。
カルンが空中で止まった。首を傾げている。光が少し揺れた。不安定な揺れ。怯えじゃない。戸惑い。
「——ごめん、カルン。ちょっとぼんやりしてた」
慌てて手を伸ばした。カルンが手のひらに降りてきた。小さな足が掌に乗る。いつもの重さ。いつもの温かさ。
でもカルンの光が微かに揺れ続けていた。何かを感じ取っている。フェズの手が一瞬遠のいたことを。その理由を、フェズ自身より先にカルンが掴みかけている。
フェズは気づいていなかった。カルンを「守る対象」として見る自分の目と、カルンと「一緒に歩く」自分の目が、少しずつずれ始めていることに。
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日が傾き始めた。
街道の先に、灯りが見えた。小さな集落だ。五、六軒の家が寄り合っている。煙突から煙が上がっている。誰かが夕飯の支度をしているのだろう。麦を焼く匂いが風に乗ってかすかに届いた。
「今日はあそこで泊まろう。明日、次の祠の情報を集める」
声に出した。カルンが手のひらから顔を上げて頷いた。ふわりと浮いて、フェズの肩に戻った。いつもの場所。右肩の、襟元のすぐ横。
フェズが歩き出す。少しだけ——少しだけ肩を丸めた。カルンを覆うように。以前はなかった癖だ。セルペ高原に入る前はこんなことをしなかった。カルンが肩に乗っている時、フェズは胸を張って歩いていた。今は違う。カルンを隠すように、守るように肩が内側に入っている。
街道を行き交う旅人が何人かいた。荷を積んだ馬を引く商人。杖をついた老人。家族連れ。すれ違うたびにフェズは相手の腰元を見た。剣を帯びていないか。蛇の目の紋様がないか。
誰もただの旅人だった。当たり前だ。蛇の目の構成員がそこらじゅうにいるわけがない。分かっている。分かっていても、視線が勝手に相手を値踏みする。
歩きながら考えた。
ヴェーノ。蛇の目。概念の精霊を狙う組織。精霊を「回収」する連中。ヴェーノはその幹部で、自分の精霊を壊した過去がある。その空白を埋めるためにカルンを求めている。
一人では——
「一人でも守る」
声に出した。カルンが振り向いた。光が一つ瞬いた。何か言いたそうな揺れ方だった。光の色が少し変わった気がした。いつもの白い光じゃなくて、ほんの少し温かい色。何か伝えようとしている。
でもフェズはそれを見なかった。前を向いていた。
道が続いている。
知らない街道。知らない集落。知らない土地。ラリサと別れて一人で歩き始めた時と、景色は変わらない。
だがあの時と違うのは、足取りだった。
あの時は怖かったけど、前を向けた。今は——今の足取りには焦りが混じっている。「強くなりたい」ではなく「強くならなければ」。願いではなく、義務。希望ではなく、強迫。
次の祠。もっと速く。もっと強く。ヴェーノが来る前に。カルンを壊す前に。
壊す?
自分で思って、ぞっとした。カルンを壊すのは敵じゃない。ヴェーノは「お前が壊す」と言った。それが頭にこびりついている。
ヴェーノも、かつてはそうだったのだろうか。精霊を守ろうとして、精霊のために強くなろうとして、気づいたら壊していた。あの男の目に浮かんでいた空虚は、取り返しのつかないことをした後の色だった。
俺もああなるのか。
自分がカルンの敵になるかもしれないという恐怖が、足を急がせている。
まだ四つの祠が——
いや。
祠印を腰の袋の中で確かめた。二つ。水と風。取った。
三つ。三つの祠が残っている。
ラリサと別れた日にはまだ四つだった。一つ減った。進んでいる。でも進んでいるはずなのに、あの時より苦しい。
次の祠がどこにあるか、まだ分からない。南東に歩けばいずれ街に着く。街で情報を集めれば、次の祠の場所が分かる。そこまでは同じだ。水の祠も風の祠も、そうやって辿り着いた。
でも今は、情報を集める時間すら惜しい。立ち止まっている間にヴェーノが追いつくかもしれない。
カルンが肩の上で身を寄せてきた。小さな体がフェズの首筋に触れた。温かい。カルンの温度がそこにある。
フェズはその温もりを感じながら、歩いた。南東の道を、二人で歩いた。
逃げているのか、進んでいるのか、自分でも分からないまま。
集落の灯りが近づいてくる。夕焼けが草原を染めて、煙突の煙が空に溶けていく。旅人が一日の終わりに見る安らぎの景色。
でもフェズの目は集落の向こう、街道が続いていく先を見ていた。次の祠。次の街。次の強さ。
前には三つの祠が待っている。後ろには蛇の目の影が追ってくる。
フェズは止まれなかった。止まったら、守れなくなる気がしたから。