歌姫と共に   作:ぶるうず

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ペダーレ

ペダーレの街に着いた。

 

街道の交差点に建物が密集している。南北と東西の道が十字に交わる場所に、石造りの家が肩を寄せ合うように並んでいた。今日は週の市が立つ日らしい。広場に天幕が列を成していて、その間を人が行き交っている。声が重なる。荷車の軋む音。子供が走る足音。果物売りの呼び声。

 

人が、多い。

 

足を踏み入れた瞬間、体の力が少しだけ抜けた。

 

人混みだ。大勢の人間がいる。顔が多すぎて一人ずつ確認できない。逆に言えば——俺を確認するのも難しいはずだ。

 

カルンが外套の中で身じろぎした。人の気配の多さに戸惑っているのか、小さく光が揺れた。

 

「・・・じっとしてて。すぐ宿を探すから」

 

外套の前を合わせた。カルンを見せたくなかった。人が多い場所で精霊を連れていると目立つ。目立てば覚えられる。覚えられれば——あの帽子の男みたいな連中に、居場所が伝わる。

 

市の天幕の間を歩いた。農産物が山と積まれた台。干し肉と薬草を並べた布。旅の道具——革袋、火打ち石、補修用の糸と針。どの天幕にも人が群がっていて、値切る声と笑い声が飛び交っている。

 

活気のある街だった。

 

セルペ高原の乾いた風景とは何もかもが違う。あの高原では人の姿自体が珍しかった。ここでは人が多すぎて、一人の旅人なんか誰も気に留めない。

 

それが——今はありがたかった。

 

五日間、街道を歩いている間ずっと「見られている」気がしていた。振り返れば百歩後ろに影がある。脇道に入れば別の方角から気配がする。あの圧迫感が、人混みに紛れた途端に薄れた。

 

尾行者だって、この雑踏の中では動きにくいはずだ。

 

はず——と思いたかった。

 

広場の端に面した二階建ての宿を見つけた。石造りの壁に木の看板が下がっていて、麦の穂が描かれている。街道沿いの、旅人向けの安宿だ。

 

中に入ると、一階が食堂になっていた。昼間から何人かの旅人が麦酒を飲んでいる。カウンターの奥に恰幅のいい男が立っていた。宿の主人だろう。

 

「一泊いくらだ」

 

「部屋によるね。一階の奥が8イウロ、二階が12イウロ、屋根裏なら5イウロだ」

 

「屋根裏で」

 

「まいど。荷物は自分で持ってってくれ。階段の一番上だ」

 

5イウロ。懐には余裕がない。セルペ高原を出る時にソナーレで少し補給したが、宿をまともに取ったのはあの時が最後だ。ここ五日間はずっと野営だった。

 

屋根裏の部屋は狭かった。傾いた天井に小さな窓が一つ。寝台というよりは板張りの棚に薄い敷布が載っているだけだ。でも屋根がある。壁がある。扉に閂がある。

 

閂を下ろした時、体の奥から何かが緩んだ。

 

・・・屋根の下だ。

 

五日間、空の下で寝ていた。火を焚けば目立つ。消せば暗い。風が鳴れば目が覚める。枝が折れれば剣に手が伸びる。あの五日間が——嘘みたいに遠い。

 

外套を開いた。カルンが顔を出して、きょろきょろと部屋の中を見回した。

 

「出ていいよ。扉は閉めてある」

 

カルンがふわりと浮き上がった。狭い部屋の中を一周する。天井が低いから大きく飛べないけれど、外套の中よりはずっと自由に動ける。

 

窓辺に止まった。小さな窓から外を覗き込んでいる。

 

広場の天幕がここからも見える。人の声が遠く聞こえる。笑い声。怒鳴り声。値切っているのか、商人と客が言い合っている。夕方になって市はまだ終わっていない。灯りが点き始めていて、天幕に吊るされたランプが暖色の光を広場に落としている。

 

カルンが窓枠に座って、じっとそれを見ていた。光が穏やかに揺れている。

 

「・・・カルン?」

 

振り向いた。首を傾げる。何、と聞いている。

 

外の灯りを見ていたのか。人の声を聞いていたのか。分からない。でもカルンの光は——少しだけ落ち着いていた。ここ五日間で一番安定している。

 

屋根の下だからだ。壁に囲まれているからだ。外の世界が、ほんの少し遠くなっているからだ。

 

カルンにとって——外套の中に隠れ続ける五日間は、やっぱり窮屈だったんだろう。

 

---

 

一階の食堂に下りた。カルンは部屋に残した。扉の閂を内側から下ろせないから不安はあったけれど、窓が小さすぎて人は入れない。それに——宿の中にまで蛇の目がいるとは思いたくなかった。

 

食堂のカウンターで安い麦粥を頼んだ。温かい食事も五日ぶりだ。木の椀に盛られた粥を口に運ぶと、素朴な塩味が舌に広がった。美味くはない。でも温かい。

 

宿の主人が皿を拭きながらカウンターの向こうに立っていた。話しかけるなら今だ。

 

「なあ、ちょっと聞きたいんだけど。この先に祠はあるか」

 

「祠? ああ、巡祠者さんかい」

 

主人が俺の腰の剣を見て頷いた。

 

「地の祠なら南のテッラ盆地だね。ここから十日ほどかな。盆地の真ん中あたりに祠がある。道は分かりやすいよ、南に向かえばいい」

 

テッラ盆地。南に十日。方角が決まった。次の祠は地の大精霊。三つ目だ。

 

「・・・十日か」

 

「まあ、急げばもう少し早いかもしれないけどね。最近は盆地に入る巡祠者が増えてるよ。地の大精霊は防御が固いって評判だから、みんな苦戦するみたいだけど」

 

防御が固い。風の祠では速さと判断力を試された。地の祠は——正面から力でぶつかる試練になるのか。

 

「あとひとつ聞いていいか。この辺で——怪しい連中を見なかったか」

 

主人が手を止めた。

 

「怪しいって? 市の日は色んな奴が来るからねえ。怪しいったって、基準が分からないと」

 

「・・・人を探してるような奴。旅人の行き先を聞き回ってるとか、誰かをつけてるとか」

 

主人がしばらく考え込んで、首を傾げた。

 

「まあ、最近街道で人を探してるような奴がいるって噂は聞くよ。何人かの旅人が言ってた。後ろを歩いてくる奴がいるとか、宿で行き先を聞いてくるとか。商人なのか何なのかよく分からない連中だって」

 

胸が冷えた。

 

やっぱりだ。俺だけじゃない。他の旅人も気づいている。街道で人を探している連中——蛇の目だ。俺の動きを追っている。どこに向かうか、誰と一緒にいるか。全部を網で拾おうとしている。

 

「・・・そうか。ありがとう」

 

「何かに巻き込まれてるのかい? まあ、余計なお世話だろうけど。市の日は人が多いから、逆に安全かもしれないよ」

 

主人が気遣うように笑った。善意だ。でもその善意が沁みるほど、自分がどれだけ追い詰められていたか突きつけられる。

 

麦粥を食べ終えた。もう一杯頼もうかと思ったけれど、やめた。節約しないと。テッラ盆地まで十日。途中で補給できるかどうかも分からない。

 

---

 

部屋に戻ると、カルンが寝台の上に座っていた。窓辺から降りてきたらしい。俺が入ってきたのを見て、ぱっと飛び上がった。小さな翼を広げて——俺の膝に降りてきた。

 

ベッドに座った。板張りの硬い寝台だが、地面よりはましだ。

 

カルンが膝の上で丸くなる。光が穏やかに揺れている。安心している。屋根の下だから。壁があるから。追いかけてくる足音が、ここまでは届かないから。

 

窓の外から市の灯りが漏れている。通りにまだ人の声が残っていた。酔っ払いの歌声。天幕を畳む音。普通の——平和な夜の気配。

 

祠印を取り出した。腰の袋から二つの金属片を手のひらに載せる。

 

水の祠印。冷たく澄んだ光を帯びた銀色の片。手に乗せると指先がひんやりする。水紋の谷で、あの暗い水底で掴み取ったもの。

 

風の祠印。乾いた空気を纏った、やや青みがかった金属片。指先に触れると微かに風が通り抜けるような感触がある。セルペ高原の、あの暴風の洞で。

 

二つ。

 

次はテッラ盆地の地の祠。三つ目。

 

あと三つ。

 

「明日は市で食料を買って、南に向かおう」

 

カルンが顔を上げた。膝の上から俺を見ている。光が一つ、ゆっくりと瞬いた。うん、と言っているみたいに。

 

「テッラ盆地まで十日だって。長いけど——方角は分かってる。南に行けばいい」

 

カルンが頷くように光を揺らした。

 

穏やかな夜だった。灯りがあって、壁があって、屋根があって。五日ぶりに人間の暮らしの中にいる。

 

なのに——頭の中は止まらなかった。

 

何日で盆地に着けるか。十日。急げば八日か。でも急ぐと体が持たない。かといってゆっくり歩けば追いつかれる。

 

尾行者は街にいるか。市の雑踏に紛れている可能性。宿の中にはさすがに来ないだろう。でも明日、街を出たら。また百歩後ろに影がつくのか。

 

テッラ盆地の中ではどうする。開けた土地だと聞いた。隠れる場所が少ない。尾行者も見つけやすいけど、俺も見つけられやすい。

 

地の大精霊は防御が固い。カルンとの共鳴でどう攻略する。音の探知で弱点を探す。でもそれにはカルンに——

 

考えが回る。回って止まらない。

 

休んでいるのに、休めていない。

 

カルンが膝の上で目を閉じた。光が安定している。カルンは——眠れている。屋根の下にいるだけで、こんなに安らげるのか。

 

カルンの頭を指先で撫でた。柔らかい。温かい。小さな体が指先の下で微かに震える。寝息のような振動。

 

この子を守るために旅をしている。この子が誰にも狙われない場所を作るために、祠を巡っている。

 

それは変わらない。変わっていないはずだ。

 

・・・なのに、「守る」の形が少しずつ歪んでいる気がする。カルンを外套に隠す。人の前に出さない。精霊を見せない。それは「守る」なのか、「隠す」なのか。

 

カルンは外套の中が好きじゃない。窓辺に止まった時の、あの穏やかな光。部屋の中を飛び回った時の、あの嬉しそうな翼の動き。外套の中では見られないものだ。

 

でも——外に出したら目立つ。目立てば追われる。追われたらまた走らなきゃいけない。

 

守るために隠す。隠せば窮屈にさせる。窮屈にさせていると分かっていても、外には出せない。

 

堂々巡りだ。答えが出ない。出ないまま、夜が更けていく。

 

灯りが一つ、また一つ消えていく。通りの声が減っていく。市が終わって、街が眠りに入っていく。

 

カルンは膝の上で眠っている。俺は——

 

目を閉じた。眠れるかどうか分からない。でも横になった。板張りの寝台に体を預けて、カルンを胸の上にそっと移した。小さな重みが、鎖骨のあたりに乗っている。

 

温かい。

 

明日。市で食料を買う。南に向かう。テッラ盆地を目指す。

 

それだけ考えて——他のことは、朝まで忘れることにした。

 

忘れられるかどうかは、別の話だけれど。

 

---

 

翌朝。

 

昨日より少しだけ眠れた。屋根の下というのは偉大だ。

 

朝の市は昨日の夕方以上に賑わっていた。天幕の数が増えていて、通りに露店がはみ出している。農産物だけじゃない。布や陶器、革細工、薬草の束、干し果物。遠くからの行商人が朝のうちに店を広げたらしい。

 

市の中を歩きながら食料を見繕った。干し肉、堅パン、干し果物。日持ちするものを中心に。水は革袋に汲んでおく。十日分——は無理でも、五日分あれば途中で補給できるだろう。

 

カルンは外套の中だ。人が多すぎる。昨夜、部屋の中では自由に飛ばせてやれたけれど、この雑踏ではだめだ。申し訳ない。でも仕方ない。

 

天幕の間を縫うように歩いていた。干し肉の天幕で値段を聞いて、少し高いと思って隣の天幕に移ろうとした時——

 

聞き覚えのある声が、耳に飛び込んできた。

 

「ちょっと、それ高すぎない? もうちょっとまけなさいよ」

 

足が止まった。

 

その声を、俺は知っていた。

 

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