市の雑踏の中、天幕の前で商人と値切り合戦をしている少女がいた。
「ちょっと、それ高すぎない? まけなさいよ。あたし巡祠者なんだけど」
「巡祠者だからって値引きはないよ、嬢ちゃん。むしろ巡祠者なら金はあるだろ」
「ないから値切ってるんでしょ! ほら、この干し肉、端っこ欠けてるじゃん。傷物でしょ。それで正価は取れないって」
茶色い髪を揺らして、天幕の商人と正面からやり合っている。腰には短めの剣。背負った荷袋は旅慣れた大きさ。声のテンポが速くて、商人が返す言葉の隙間に次の文句をねじ込んでいく。頭の上で小さな金色の光がくるくる回っている。ピカだ。ルセの光の精霊。相変わらず落ち着きがない。
ルセだった。
足が止まった。息も止まった。
水紋の谷で別れたきり——会えるとは思っていなかった。いや、巡祠者同士だから、どこかで会う可能性はあった。でも「可能性がある」と「目の前にいる」は全然違う。
ルセは商人に三つ目の文句を言いかけたところで、ふと視線を横にずらした。
目が合った。
「あ」
ルセが瞬きした。一拍。二拍。それから——ぱっと顔が明るくなった。
「あんた、水紋の谷の——フェズ、だっけ」
「ルセ・・・久しぶり」
声が掠れた。自分でも驚くほど喉が詰まっていた。五日間、まともに人と話していない。宿の主人に用件を伝えた程度だ。知っている名前を口にするのが——こんなに安心するものだとは思わなかった。
ルセが商人に向き直った。「ちょっと待ってて。あと、まけてくれたらまた来るから」
「まけないって言ってるだろ」
「じゃあ後で来る!」
商人を置き去りにして、ルセが天幕の間を縫ってこちらに歩いてきた。歩幅が大きい。テンポが速い。水紋の谷の時と同じだ。
「どこかで会うと思ってたよ。巡祠者なんてそんなもんでしょ」
軽い。裏表がない。水紋の谷で別れた時と変わらない距離感。深刻さの欠片もない口調で、ルセが笑った。
こっちは五日間追われ続けて、神経を削り切って、ようやく人混みに逃げ込んだところなのに——ルセは「どこかで会うと思ってた」と笑っている。同じ巡祠者なのに、見ている景色がこんなに違う。
「あ、その子も元気?」
ルセの視線が俺の胸元に落ちた。外套の合わせ目。カルンがいる場所。
カルンが——外套の隙間から小さく顔を覗かせた。ルセの声を覚えていたのか。でもすぐに引っ込んだ。顔を出したのは一瞬で、光もほとんど見せなかった。
水紋の谷では違った。ルセの前でも普通に外に出ていた。ラリサほど懐いてはいなかったけれど、少なくとも隠れようとはしなかった。
ルセが首を傾げた。
「なんか前より隠してない? その子」
「・・・人が多いから」
それは嘘じゃない。嘘じゃないけど、全部でもない。カルンが外に出たがらないのは人が多いからだけじゃない。セルペ高原で追われて、外套の中に閉じ込め続けて、「出るな」と言い続けた五日間が——カルンを臆病にしている。
でもそれを説明する言葉は出てこなかった。
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市の端に小さな屋台があった。木の板を渡しただけの簡素な台に、麦粥と焼きパンが並んでいる。二人分の麦粥を頼んで、屋台の脇に置かれた木箱に腰を下ろした。
「で、フェズ。あんた今どこに向かってるの」
ルセが麦粥を匙で掬いながら聞いた。遠慮がない。会って五分で近況を聞いてくる。
「南。テッラ盆地の地の祠を目指してる」
「テッラ盆地! あたしも次そこ行くつもり」
ルセが匙を止めた。目が光った。嬉しそう——というより、都合がいいことを見つけた顔だ。
「じゃあ同じ方向じゃん。一緒に行く?」
軽い。軽すぎる。同じ目的地なら一緒に行く方が効率がいい。ルセにとってはその程度の判断だ。
一瞬、迷った。
一緒に行けば心強い。それは間違いない。五日間の一人旅で——一人でいることの限界は嫌というほど思い知った。夜の番を交代できるだけで、神経の消耗はまるで違うだろう。
でも。
蛇の目はフェズを追っている。正確にはカルンを。俺と一緒にいれば、ルセも巻き込むことになる。尾行者がルセを「フェズの同行者」として記録したら——
「何悩んでんの。嫌なら別にいいけど」
ルセが麦粥を啜りながら、あっさりと言った。
嫌じゃない。嫌なわけがない。
断る理由を探している自分が——嫌だった。
「・・・嫌じゃない。一緒に行こう」
ルセが「ん」と頷いた。それだけ。深い意味はない。同じ方向に行く旅人が合流した。それだけのこと。
「あんたの方は? 風の祠の後、どこを回ってたんだ」
聞いてから、自分の声が少し軽くなっていることに気づいた。人と話している。普通の会話をしている。それだけで——喉の奥のつかえが、ほんの少しだけ溶けていく。
「風の祠の後ね。東の方をぐるっと回ってきた。山越えがきつかったけど、街道沿いの村でいい薬草が安く買えたからまあまあかな。で、南に下ってきてここに着いたってわけ」
ルセが指で空中に地図を描くように道筋を示した。軽快な口調で、まるで散歩の感想を話すように。
「あんたは? セルペ高原からまっすぐ来たの?」
「・・・ああ。フォルテ街道を南東に歩いて五日で着いた」
五日。たった五日の道のりを、追われながら歩いた。火を焚けば見つかる。消せば眠れない。百歩後ろに影がいる。いないかもしれない。でも確認する余裕がない。
そのどれも、ルセには言わなかった。
「風の祠って大変だった?」とルセが聞いた。
「・・・うん。速さの試練で、判断力を試された。風穴の音を読んで大精霊の動きを予測して——ぎりぎりだった」
「あたしもだよ。風の大精霊、速すぎるんだって。でも面白かった。風を読むコツ掴めたし」
面白かった。ルセはそう言った。命がけの試練を「面白かった」と言える。それがルセだ。強がりでもなく、本心でそう思っている。
「ルセ。祠印は——いくつだ」
「二つ。水と風。あんたは?」
「同じだ。二つ」
「じゃあ条件は一緒だね。次は地の大精霊。防御が固いって聞いた」
「宿の主人もそう言ってた」
「正面突破は無理っぽいよねえ。あたし力押しは得意じゃないし。弱点探す方向で行くしかないかな」
ルセが粥の椀を傾けて、最後の一口を飲み干した。
蛇の目のこと。追跡者のこと。夜に眠れないこと。カルンを外套に隠し続けていること。
何も言わなかった。
ルセに余計な心配をかけたくない——そう思った。でも本当は違う気がした。ルセの前で弱いところを見せたくない。追われている自分を知られたくない。水紋の谷で会った時と同じ自分でいたかった。
余裕がなくなっていることを、認めたくなかっただけだ。
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翌朝。
二人でペダーレの街を出た。南へ向かう街道に足を踏み出す。
朝の空気が冷たかった。市の喧噪はもう背中の方にある。広場の天幕が遠ざかっていく。人の声が薄れていく。代わりに——街道の静けさが戻ってくる。
ルセが先に歩いた。歩幅が大きくて速い。俺が少し遅れてついていく。
「あんた、ちょっと痩せた?」
不意に振り返って、ルセが言った。
「・・・そうかな」
「そうかなって。水紋の谷の時よりだいぶ頬がこけてるよ」
ルセがじっと俺の顔を見る。何か——聞きたいことがあるような目。でも、ルセは聞かなかった。
「まあいいけど。ちゃんと食べなよ」
それだけ言って、前を向いた。また歩き出す。
ルセは他人の事情に踏み込まない。水紋の谷の時もそうだった。気づいているのに聞かない。それが優しさなのか、距離なのか——今の俺には判断がつかない。
街を出てしばらく歩いた。街道の両脇に麦畑が広がっていて、朝露に光っている。遠くに丘陵が見える。穏やかな風景だ。セルペ高原の荒涼さとは全然違う。
ルセが鼻歌でも歌いそうなテンポで歩いている。旅慣れた足取り。背筋が伸びていて、周囲を警戒している様子もない。世界は安全だと信じている歩き方だ。
俺は——振り返った。
市の天幕はもう見えない。街道に旅人の姿がちらほらある。農民が荷車を引いている。行商人が馬を連れている。普通の——街道の朝の風景。
でもその中に、こちらを見ている人影がいる気がした。
いないかもしれない。朝の光が強くて、逆光で人の顔が見えない。ただの旅人かもしれない。
でも安心できない。
カルンが外套の中でじっとしている。出てこない。ルセの隣にいるのに。水紋の谷では、ルセの前でも外に出ていた。ルセの周りを飛び回って、ピカと並んで光を揺らして、好奇心旺盛に動き回っていた。
今は違う。外套の中から動かない。出ようとしない。
俺はその変化に——気づいていなかった。カルンがいつから外に出なくなったか。外套の中にいることを当然だと思い始めたのがいつからか。五日間の逃避行で「隠す」ことが習慣になって、カルンもそれに慣れてしまった。
慣れてしまったのか。それとも——怯えているのか。
「フェズー、遅いよ。何見てるの」
ルセの声が前方から飛んできた。十歩ほど離れている。
「・・・何でもない。行く」
足を速めた。ルセの隣に並ぶ。
二人の旅が始まった。道は同じ方向。テッラ盆地まで十日。隣にルセがいる。
なのに俺は——隣を歩いているルセにさえ、背負っているものを見せられない。蛇の目のこと。カルンが狙われていること。夜に眠れないこと。全部抱えたまま、普通の顔をして歩いている。
ルセが何か話しかけてくる。道中の天気の話。次の補給地点の話。地の祠の噂。軽い声。明るいテンポ。
俺はそれに相槌を打ちながら——時々振り返る。
誰もいない。
たぶん。