歌姫と共に   作:ぶるうず

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ルセと歩いて二日目。俺は気づき始めていた——ルセが、水紋の谷の頃と別人のように強くなっていることに。

 

街道を南に歩いている。ペダーレを出てからの道は穏やかで、麦畑の間を抜ける平坦な道が続いていた。遠くに丘陵の稜線が見える。風がぬるい。春の終わりに近い空気だ。

 

ルセが不意に足を止めた。

 

顔を上げて、風の方角を確かめるように目を細める。髪が南東から吹く風に揺れた。

 

「今日の風は南東寄りだね。雨は来ないけど、明日は曇る」

 

「・・・風で分かるのか」

 

「分かるっていうか、風の祠でやったでしょ。風の流れって読めるようにならなかった?」

 

なった。風穴の音を読んで大精霊の動きを予測した。あの命がけの空間で、カルンの旋律に助けられながら、風の向きと速さを音で聴き分けた。

 

でもそれは祠の中での話だ。カルンとの共鳴あってのことだ。

 

ルセは——ピカの力も借りずに、道端で、ただ風を感じているだけで天気を読んでいる。ピカはルセの頭の上でのんきにくるくる回っているだけだ。

 

「風の祠の後、ちょっと練習したら感覚が掴めてきたんだよね。精霊の気配も風で分かるようになったし」

 

ちょっと練習したら。

 

その言葉が、胸のどこかに引っかかった。

 

俺にとっては命がけだった。風の大精霊の速さに翻弄されて、何度も壁に叩きつけられて、カルンの旋律に縋って、ようやく——ようやく風を読むコツを掴んだ。祠の中で、共鳴の力を借りて。

 

ルセは日常の延長でそれを身につけている。「ちょっと練習したら」で。

 

「すごいな」

 

口から出たのは、それだけだった。本心だ。本心だけど、その言葉の裏に、別の感情が薄く張り付いている。それが何なのか——まだ名前をつけたくなかった。

 

ルセが「そう?」と首を傾げて、また歩き出した。自分がすごいことをしている自覚がない。それが当たり前だと思っている。

 

俺はその背中を見ながら歩いた。歩幅を合わせようとして、少しだけ足が重いことに気づいた。

 

しばらく黙って歩いた。ルセは黙っているのが苦手らしく、すぐに別の話を振ってきた。道端に咲いている花の名前。街道沿いの農家が作っている果実の種類。この辺りの土は赤みがかっているからテッラ盆地が近い証拠だ——と。

 

その知識がどこから来ているのか聞いたら、「旅してれば分かるでしょ。見てるだけで」と返された。

 

見てるだけで分かる。

 

俺も旅をしている。同じ景色を見ている。でも俺が見ているのは——道端の花じゃなくて、百歩先の人影だ。尾行者がいないか。蛇の目の気配がないか。それだけを確かめながら歩いている。

 

ルセは前を向いている。俺は後ろを振り返っている。同じ道を歩いているのに、見ている方向が違う。

 

---

 

昼を過ぎた頃だった。

 

街道が森の縁を通りかかった辺りで——茂みが揺れた。

 

土色の体。狐ほどの大きさ。目が黒く濁っている。黒斑病の精霊だ。土の精霊が正気を失って、暴走している。

 

茂みから飛び出してきた。

 

俺は剣を構えた。

 

地形を見る。道の右側に浅い窪みがある。あそこに誘い込めば足を取られる——精霊の突進を横にかわして、窪みの方向に追い込んで、足が止まったところを——

 

ルセが動いた。

 

速い。ピカがルセの肩から弾かれるように飛び退いた。主人の動きについていけていない。

 

精霊の突進を最小限の動きで躱した。半歩、横にずれただけだ。精霊が空を切って前に突っ込む。その背中にルセの剣が走った。

 

一太刀。

 

正確で、速くて、無駄がない。精霊の核を一撃で捉えていた。

 

土色の体が崩れて、砂のように散った。

 

俺は剣を構えたまま立っていた。出番がなかった。

 

地形を読んで、戦略を立てて、誘い込む場所を決めて——その全部を考えている間に、ルセは体が動いていた。考える前に反応している。判断と実行が一体になっている。

 

「あ、ごめん。先にやっちゃった」

 

ルセが剣についた土を払いながら振り返った。悪意はない。悪びれてもいない。本当にただ体が先に動いただけだ。

 

「・・・いいよ。速かったな」

 

口調は平静を保ったつもりだ。声は震えていないはずだ。

 

でも胸の中に、小さな棘が刺さった。

 

水紋の谷では——ルセと並んで戦えた。互角とは言わないが、少なくとも「一緒に戦っている」感覚はあった。

 

今は違う。ルセは一人で完結している。俺が隣にいなくても、何も変わらない。

 

カルンが外套の中で小さく身じろぎした。俺の感情を拾っているのかもしれない。共鳴していなくても、近くにいると伝わることがある。

 

「行こう」

 

先に歩き出したのはルセだった。さっきの戦闘のことはもう頭にない。切り替えが速い。ルセはいつもそうだ。終わったことに引きずられない。

 

俺は——まだ剣を鞘に戻していなかった。

 

しばらくしてから鞘に戻した。柄を握っていた手が、少し汗ばんでいた。

 

午後の道は丘陵に差しかかっていた。道の両脇に木が増えて、麦畑が減って、森が近づいている。テッラ盆地に向かって地形が変わり始めているのだと、宿の主人が言っていた。

 

ルセが歩きながらふと足元を見た。「土の色、変わってきたね。赤っぽくなってる」

 

言われて見ると、確かに道の土が茶色から赤みがかった色に変わっている。

 

「地の精霊が多い土地に入り始めてるんだ。土に精霊の気が混じると色が変わるって、東の方の村で聞いた」

 

ルセがまた、旅の中で拾った知識を当たり前に使っている。聞いたことをすぐに自分の判断材料にできる。それは記憶力とかそういう話じゃなくて——経験を自分の体に落とし込む速さが、根本的に違う。

 

「フェズ、こっちの道に入ろう。轍が深い方が人通りが多いから、方角としてはこっちがテッラ盆地寄りだと思う」

 

分かれ道で、ルセが地面の馬車の轍を見て即座に判断した。迷いがない。俺は何も考えずにルセの判断に従った。ルセが正しいと分かっているから。

 

——いつから俺は、ルセの判断に頼るようになったんだ。

 

ルセの背中を見ながら歩いた。追いかけている。追いつけない背中を。

 

---

 

夜。

 

街道を外れた木立の中で野営を張った。焚き火を挟んで二人が座っている。カルンは俺の膝の上で丸くなっていた。光が弱い。いつもより弱い。追われ続けた五日間と、外套の中に閉じ込め続けた日々の疲れが、まだ抜けていないのかもしれない。

 

ルセが装備の点検をしていた。剣の刃を布で拭いて、鞘に薄く油を塗る。革帯の留め具を確認して、荷袋の紐を締め直す。手際がいい。慣れている。夜は意外と慎重な奴だ。

 

「地の祠はどう攻略する? 防御が固いって話だけど」

 

ルセが油瓶の蓋を閉めながら聞いた。

 

「・・・まだ考えてない。着いてから環境を見て決める」

 

「あたしも正面突破は無理そうだから、弱点を探す方向で行こうかな。土の精霊って地面と繋がってるわけでしょ。足元崩すか、地面から引き剥がすか・・・まあ行ってみないと分かんないけど」

 

ルセが自然に「弱点を探す」と言った。

 

水紋の谷の頃は違った。あの時のルセは正面から突っ込むタイプだった。力と速さで押して、ダメなら別の角度から力と速さで押す。直球しか持っていなかった。

 

今は変わっている。弱点を探す。環境を使う。戦い方を広げている。しかもそれを——当たり前のようにやっている。自分が変わったことに気づいていない。

 

風の祠の前と後で、ルセは一段階上に登っていた。水の祠で掴んだ触覚。風の祠で磨いた聴覚。その両方を、自分の戦い方に組み込んでいる。「ちょっと練習したら」で。

 

俺は——風の祠の後、何が変わった?

 

共鳴で風を読めるようになった。音の探知で周囲の気配を捉える精度が上がった。風穴の音で大精霊の動きを先読みする感覚を掴んだ。

 

全部、カルンの力だ。

 

カルンとの共鳴を使わない俺は——水紋の谷の頃から、何歩進んだ? 地形を読む。敵を誘い込む。環境を使う。それは修行の頃から変わっていない。成長しているのは「カルンとの共鳴」であって、俺自身じゃない。

 

カルンがいなくなったら。

 

その仮定が、不意に頭をよぎった。ヴェーノに奪われたら。蛇の目に連れ去られたら。カルンがいなくなった俺に——何が残る?

 

「フェズ。あんた、なんか考え込みすぎじゃない?」

 

ルセの声で我に返った。焚き火の向こうで、ルセが俺の顔を見ていた。

 

「・・・そうかも」

 

「そうかもって顔じゃないけど」

 

ルセが一瞬だけ眉を寄せた。何か——聞こうとしたのかもしれない。でも、やめた。焚き火に枝を足して、自分の毛布にくるまった。

 

「おやすみ。明日も早いよ」

 

「・・・ああ。おやすみ」

 

ルセの呼吸がすぐに規則的になった。寝つきがいい。切り替えが速い。そういうところも——才能なんだと思う。

 

焚き火がぱちりと爆ぜた。木の枝が割れて、火の粉が夜空に舞い上がる。星が多い。セルペ高原の空とは違う、南の空だ。

 

俺は焚き火を見つめていた。

 

膝の上でカルンが小さく光っている。弱い光だ。でも消えてはいない。俺の膝の上で、俺の側にいて、光っている。

 

カルンなしでは戦えない。

 

それはもう分かっていたことだ。修行の頃から——トルニオに教わった剣だけでは、祠の大精霊に届かない。カルンの旋律が要る。共鳴が要る。音で風を読み、音で水を操り、音で気配を探る。その全部がカルンの力だ。

 

なら——共鳴の精度を上げるしかない。

 

もっと精密に。もっと長く。もっと遠くまで。カルンの旋律をもっと深く聴いて、もっと正確に使いこなせるようになれば——ルセとの差を、少しは埋められるかもしれない。

 

膝の上のカルンに手を伸ばした。小さな頭を指先で撫でる。カルンがかすかに光を揺らした。

 

「次の祠も、頼む」

 

頼む。

 

それが「カルンに頼る」ことだとは——まだ気づいていなかった。

 

ルセは当然のように強くなる。自分の力で。自分の感覚で。試練を経験に変えて、経験を体に刻んで、気がつけば一段上にいる。

 

俺は——カルンの力を借りなければ、追いつけない。

 

その事実が、焦りに名前をつけた。

 

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