歌姫と共に   作:ぶるうず

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共鳴

ルセが寝息を立て始めてから、どれくらい経っただろう。

 

焚き火が小さくなっていた。枝を足す気にはならなかった。明るくなれば目立つ。それに——これからやることは、ルセに見せたくない。

 

俺は焚き火から十歩ほど離れた木の根元に移動して、手のひらを上に向けた。

 

「カルン。少し練習させてくれ」

 

外套の中から、カルンがゆっくり顔を出した。俺の手のひらに降りてくる。小さな体。弱い光。でも——俺が呼べば、カルンは応える。いつもそうだ。

 

カルンが頷いた。光がかすかに揺れる。いいよ、と言っているみたいに。

 

共鳴を始めた。

 

カルンの旋律が耳に流れ込んでくる。低く、静かな音。それが広がっていくにつれて、周囲の音が膨張する。虫の羽音。木の葉が擦れる音。遠くの——たぶん川だろう、水が流れる音。全てが鮮明になっていく。

 

風の祠で掴んだ感覚だ。音で周囲を「見る」。風穴の音で大精霊の動きを先読みした、あの感覚。あれをもっと磨けば——もっと遠くまで探れるようになれば——

 

「もっと遠く。百歩先の気配まで」

 

意識を集中する。カルンが応えた。旋律の波紋が広がる。五十歩先の地面を踏む虫の足音。七十歩先で木の枝が折れた音。八十歩——

 

音が重なり始める。情報が多すぎる。全部が一度に流れ込んでくる。頭が痛い。でも——もう少しだけ。

 

百歩先。

 

何かの足音を捉えた。四本脚。小型の獣だろう。夜行性の——狐か、それに似た何か。俺たちの野営地から離れていく方向に移動している。

 

分かった。百歩先の気配が分かった。

 

「もう少し。もう少しだけ——」

 

カルンの旋律が揺れ始めた。光が明滅している。手のひらの上で、カルンの体温がかすかに下がった気がする。

 

限界が近い。

 

分かっている。分かっていて——もう少しだけ、と思ってしまう。百二十歩先の音を掴みかけている。あと少しで——

 

カルンの光が大きく明滅した。旋律がぶれる。

 

俺は慌てて共鳴を切った。

 

「ごめん、カルン。やりすぎた」

 

カルンが手のひらの上で首を振った。大丈夫、と言うように。でも光が戻るまで時間がかかった。小さな体が俺の手のひらにぺたりと座り込んで、しばらく動かなかった。

 

俺はカルンの頭を指先で撫でた。柔らかい。軽い。こんなに小さい体で、俺のために旋律を紡いでくれている。

 

「無理させたな」

 

カルンが顔を上げて、俺の指に額を寄せた。怒ってはいない。責めてもいない。ただ——俺が求めたから、応えた。それだけだ。

 

それが、少しだけ怖かった。

 

でも——明日もまたやるだろう。もう少しだけ、と。もう少しだけ遠くまで。もう少しだけ精密に。

 

焚き火の残り火が暗い赤に沈んでいた。ルセの寝息が規則的に聞こえる。カルンの光が少しずつ戻ってきて、手のひらの上で丸くなった。

 

眠れなかった。

 

---

 

翌朝。

 

「目の下、すごいよ。ちゃんと寝た?」

 

ルセが荷物をまとめながら、俺の顔を見て言った。朝日が木立の隙間から差し込んでいる。ルセの肩でピカが朝日を浴びて淡く光っている。ルセの顔には寝不足の影も疲れもない。すっきりした顔だ。

 

「・・・うん、大丈夫」

 

嘘だ。ほとんど寝ていない。夜中の練習の後、目を閉じても頭の中で音が回り続けていた。共鳴の残響が消えなくて、木の葉の一枚一枚が擦れる音まで拾ってしまって——眠れなかった。

 

カルンが俺の肩に止まっている。光は戻っている。でも昨日よりちょっと弱い。ルセがカルンの方をちらりと見た。

 

「あの子も元気ないね」

 

「・・・少し疲れてるだけだ。すぐ戻る」

 

ルセが何か言いかけて——やめた。「ふうん」とだけ返して、先に歩き出す。

 

俺はルセの背中を追いながら歩いた。昨夜の共鳴の感覚を反芻している。百歩先の気配が分かった。あれを戦闘中に使えれば、相手の動きを先読みできる。地形を読む必要もない。敵の位置と速度と方向を、音だけで——

 

カルンの力がもっと要る。もっと精密に。もっと長時間。もっと——

 

頭の中で声が囁いた。

 

「あなたも同じことをしている」

 

ヴェーノの声だ。セルペ高原で俺に向かって言った、あの穏やかで冷たい声。

 

「あの子に頼りすぎている。いつか壊す」

 

——違う。

 

振り払った。俺はカルンを守るためにやっている。壊すためじゃない。強くならなければカルンを守れない。カルンとの共鳴を磨かなければ、蛇の目にも祠の試練にも勝てない。これは必要なことだ。

 

でも「守るため」と「使うため」の境界線が——どこにあるのか、もう自分でもよく分からなかった。

 

肩の上でカルンがじっとしている。外套の中に隠れてはいないが、飛び回ることもない。俺の肩にしがみついて、動かない。

 

水紋の谷の頃は違った。ルセの前でも外に出て、飛び回って、好奇心旺盛に周りを見ていた。今は——俺の肩から離れない。

 

その変化に、俺は気づいていなかった。

 

---

 

丘陵地帯に入っていた。道の両脇に背の低い木が増えて、赤い土が露出している場所が目立つ。テッラ盆地が近い。空気が変わってきている。乾いていて、温かくて、土の匂いが濃い。

 

街道が二手に分かれていた。標識はない。分かれ道の真ん中に石が積んであるだけだ。

 

ルセが立ち止まって、地面を見た。

 

「左。馬車の轍が深い。人の往来が多い方がテッラ盆地に近い」

 

俺は何も考えずにルセの判断に従った。ルセが正しいと分かっているから。轍を見て方角を判断する——それも、旅の中でルセが自然に身につけた技術だ。教わったんじゃない。見て、考えて、自分のものにした。

 

丘を越えた先で、ルセが不意に手を上げた。

 

「静かに」

 

足を止めた。ルセが前方の茂みを見ている。目を細めて、耳を澄ましている——いや、耳だけじゃない。全身で気配を探っている。

 

「何かいる。右の茂み。距離は——三十歩くらい。動いてる。こっちに近づいてない。横に抜けていく」

 

俺には何も聞こえなかった。何も感じなかった。カルンと共鳴していない俺には——ルセが今やったことが、できない。

 

しばらく待った。茂みの向こうで何かが動く気配がして、やがて遠ざかっていった。黒斑病の精霊か、ただの獣か。どちらにしても、ルセはピカの力を借りずにそれを察知して、距離と方向まで特定した。

 

「行ったみたいだね。行こう」

 

ルセが何でもないように歩き出す。

 

俺は動けなかった。

 

カルンなしで——自分はここまでできるか。

 

昨夜、カルンとの共鳴で百歩先の気配を掴めたと喜んでいた。カルンに負荷をかけて、カルンの光を弱くして、それでやっと百歩。

 

ルセはピカの力を借りずに、三十歩先の気配を正確に読んでいる。肩にピカがいるのに、使わない。自分の五感と経験で。距離も方向も——全部、自分だけの力で。

 

百歩と三十歩。数字だけ見れば俺の方が上だ。でもその百歩はカルンの命を削って得た数字で、ルセの三十歩は自分の体一つで到達した数字だ。

 

どっちが本物の力なのかなんて——比べるまでもない。

 

「フェズ? どうしたの、来ないの?」

 

ルセが振り返って呼んでいた。

 

「・・・行く」

 

歩き出した。ルセの隣に並ぶ。並んでいるのに、距離を感じる。同じ道を歩いているのに——ルセは自分の足で立っていて、俺はカルンに支えられて立っている。

 

その差は、共鳴の回数を増やすほど広がっていく。カルンの力を使えば使うほど、俺自身の力との落差が大きくなる。分かっている。分かっていて——

 

——今夜もまた、共鳴の練習をするだろう。

 

分かっている。止められない。ルセの背中を見て、追いつきたいと思って、追いつくための方法がカルンの力しかなくて——止められない。

 

カルンが俺の肩の上で、小さく光を揺らした。

 

何を思っているのだろう。俺が求めるから、応えてくれている。俺に必要とされることが、カルンにとっての居場所になっている。俺が「もっと」と言えば、カルンは「もっと」に応える。たとえ体が辛くても。

 

それは絆なのか。

 

それとも——

 

考えるのをやめた。考えたくなかった。今はただ強くなりたい。カルンと一緒に、もっと遠くまで聴けるようになりたい。もっと精密に、もっと速く、もっと長く。そうすれば祠の試練にも勝てるし、蛇の目にだって——

 

西の空に夕焼けが滲んでいた。赤い土の丘陵が、もっと赤く染まっている。カルンの光が夕日に混じって見えなくなっていた。

 

ルセは自分の力で強くなっている。俺はカルンの力で補っている。その差は、共鳴の回数を増やすほど広がっていく。

 

なのに俺は——共鳴の練習をやめられない。

 

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