歌姫と共に   作:ぶるうず

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影の報告

ルセと旅をして四日目。ペダーレの市で見た気がした視線が、また戻ってきた。

 

街道沿いの小さな村だった。人口は五十人もいないだろう。麦畑に囲まれた集落の真ん中に井戸があって、その周りに数軒の家が固まっている。食料の補給と水汲みのために立ち寄った。

 

ルセが井戸の縄を引いている間に、俺は水袋の口を広げて待っていた。木の桶が軋む音。水が落ちる音。村の匂い——干し草と、焼いたパンと、牛糞の混じった土の匂い。穏やかな村だ。

 

何気なく、通りの向こうに目をやった。

 

壁に寄りかかって果物を齧っている男がいた。

 

農夫には見えなかった。旅人にしては荷物が少ない。腰に剣はない。ただ果物を齧りながら、こちらを——いや、この辺りを眺めているだけに見える。

 

ペダーレの市で見かけた商人風の男とは別人だ。体格も年齢も違う。でも目が——同じだった。何かを観察している目。記録している目。

 

体が固くなった。

 

カルンが外套の中で光を強めた。俺の緊張が伝わっている。大丈夫、と心の中で呟いた。大丈夫だから光を落としてくれ、目立つ。

 

「フェズ? どうしたの」

 

ルセが水袋の口を結びながら、俺の顔を覗き込んだ。

 

「・・・何でもない。行こう」

 

村を出た。南へ向かう街道に戻る。赤い土の丘陵が遠くに見えている。テッラ盆地はもう近い。

 

歩きながら、何度も振り返った。

 

男は追ってこなかった。村の中に留まっている。でも——見ていた。俺たちがどの方向に歩き出したか、確かに見ていた。

 

ペダーレの男とは別人。つまり複数いる。蛇の目は一人で追っているんじゃない。何人かで交代しながら、俺の——正確にはカルンの——移動ルートを把握している。

 

ヴェーノは一人だった。セルペ高原では、あの男だけが目の前に立ちはだかった。でもヴェーノの後ろには組織がある。蛇の目とはそういうものだ。個人じゃない。網だ。

 

背筋が冷えた。

 

「フェズ。また振り返ってる」

 

ルセが俺の隣を歩きながら、前を向いたまま言った。

 

「・・・癖だ」

 

「嘘。ペダーレを出てからずっとそう。何か気にしてるでしょ」

 

返す言葉に詰まった。ルセは勘がいい。いや、勘じゃない。観察力だ。俺が何度も後ろを確認していることに、とっくに気づいている。

 

「あんたさ、何か追われてる?」

 

直球だった。ルセらしい。回りくどい聞き方はしない。思ったことをそのまま口に出す。

 

「何で」

 

「何でって、見てれば分かるでしょ。あんたずっとびくびくしてる。水紋の谷の時はそんなんじゃなかった」

 

足が止まりそうになった。水紋の谷。ルセと初めて会った時。あの頃は——追われてはいなかった。蛇の目もヴェーノも知らなかった。カルンを外套に隠してはいたけど、今みたいに神経を張り詰めてはいなかった。

 

ルセは覚えている。あの頃の俺を。

 

「カルンだって前より全然外に出てこないし。あんた、あの子のこと隠しすぎじゃない?」

 

ルセの目がカルンの——正確には俺の外套の膨らみの方を向いた。カルンは外套の中でじっとしている。水紋の谷の頃は、ルセの前でも普通に外に出て飛び回っていた。今は出てこない。俺が隠しているから。危険だから。

 

「・・・ちょっと、面倒なのに目をつけられてるだけ。大したことじゃない」

 

嘘ではない。でも全部でもない。蛇の目のこと。ヴェーノのこと。カルンが狙われていること。全部話せば——楽になるかもしれない。ルセなら「じゃあ一緒に追い払おう」くらい言うかもしれない。

 

でも。

 

話せなかった。ルセを巻き込みたくない——そう思っている。でも本当は違うと分かっていた。弱さを見せたくないだけだ。追われて、怯えて、逃げるので精一杯だなんて——ルセの前では言えない。ルセは自分の力で堂々と歩いているのに、俺は背後を気にしながら縮こまっている。その差を、見せたくなかった。

 

もう一つ、もっと奥にある理由がある。蛇の目が追っているのはカルンだ。カルンが狙われているのは、カルンが音楽の精霊だから——概念の精霊だから——珍しくて、力が強くて、金持ちや権力者が欲しがるから。

 

俺がカルンと一緒にいることが、カルンを危険にさらしている。

 

その事実を——認めたくなかった。

 

ルセが一瞬、俺を見つめた。嘘だと分かっている目。でも追及はしなかった。

 

「ふうん。まあ、何かあったら言いなよ」

 

それだけだった。

 

ルセは他人の領域に踏み込まない。それが優しさなのか、距離なのか、この時点では分からなかった。分かっていたのは——ルセが「言いなよ」と言ってくれたことが、少しだけ温かくて、同時に痛かったということだけだ。言えないから。

 

俺たちは黙って歩き続けた。赤い土が靴の裏にこびりつく。丘陵の上を風が抜けていく。穏やかな午後だ。風景は穏やかなのに、俺の中は穏やかじゃない。

 

---

 

夜。

 

街道脇の丘の上に野営地を作った。見晴らしのいい場所だ。俺が選んだ。丘の上なら周囲が見渡せる。誰かが近づいてきたら——

 

ルセが焚き火に枝を足しながら、俺の選んだ場所を見回した。

 

「見晴らしはいいけど、風が強いね。もう少し低い方が火が安定するのに」

 

「・・・ここがいい」

 

「まあ、いいけど」

 

ルセは首を傾げただけで、それ以上は聞かなかった。風が強い場所をわざわざ選ぶ理由。俺が見晴らしを求めていること。ルセなら気づいているだろう。気づいていて——聞かない。

 

焚き火を挟んで座った。ルセが装備の手入れをしている。剣の刃を布で拭いて、鞘の留め具を確認して、靴紐を結び直す。ルセは毎晩これをやる。見た目の雑さとは裏腹に、装備の管理は細かい。

 

「地の祠まであとどれくらいだと思う?」

 

ルセが剣を鞘に戻しながら聞いた。

 

「宿の主人は十日って言ってた。ペダーレを出て四日だから、あと六日くらいか」

 

「六日ね。盆地に入ったら精霊が増えるだろうし、ペース落ちるかも」

 

「・・・そうだな」

 

普通の会話だ。旅の仲間同士の、何でもない会話。でも俺の頭の中では別のことが回っている。尾行者は村にいた。あの男は追ってこなかった。でも——次はどこにいる。この先の集落にまた別の奴が待っているのか。俺たちの行き先を、報告しているのか。誰に。

 

ルセが毛布にくるまった。「おやすみ。フェズ、ちゃんと寝なよ。最近寝てないでしょ」

 

「・・・寝るよ」

 

嘘だ。

 

---

 

ルセの寝息が規則的になるのを待った。焚き火が小さくなっていく。風が丘の上を吹き抜けて、炎を揺らした。

 

焚き火から離れた。暗い方へ。丘の斜面を少し下りたところで、草の上に座り込んだ。冷たい夜風が頬に当たる。星が近い。赤い大地が暗闇の中で黒く沈んでいる。

 

手のひらを開いた。

 

「カルン」

 

外套の中からカルンが出てきた。俺の手のひらに降りる。小さな体。弱い光。——昨夜より、少し弱い。

 

「共鳴するぞ。今夜は——探知だけじゃない」

 

カルンが俺を見上げた。光がかすかに揺れる。頷くように。

 

共鳴を始めた。

 

カルンの旋律が耳に流れ込む。周囲の音が膨張する。風の音。草の擦れる音。遠くで鳴く夜鳥の声。

 

今夜は探知の範囲を広げるだけじゃない。人の足音を——不自然な動きをする人間の気配を、捉える訓練をする。

 

百歩先まで意識を伸ばした。カルンが応える。旋律が広がっていく。

 

草を踏む音。風の音。虫の羽音。石が転がる音。——全部、自然の音だ。人間の足音は——

 

百二十歩。

 

何かを捉えた。

 

足音だ。人間の。一定の間隔で地面を踏んでいる。歩いている——ゆっくりと。街道を行く旅人ではない。こんな夜中に、丘のふもとを、一定の速度で——

 

移動している。俺たちの野営地を中心に、弧を描くように。

 

見張っている。

 

尾行者がまだいた。昼間の村の男とは違う位置だ。村からついてきたのか、ここで待っていたのか。どちらにしても——夜になっても、いる。

 

カルンの旋律が揺れた。俺の動揺が伝わっている。

 

共鳴を切った。

 

カルンが手のひらの上に崩れるように落ちた。光がほとんどない。消耗している。昨夜の練習に、今夜の探知。連日の共鳴がカルンの体を削っている。

 

「・・・ごめん」

 

カルンが首を振った。大丈夫、と言うように。俺の手のひらに額を寄せて、かすかに光を揺らした。

 

大丈夫じゃない。分かっている。でも——

 

歯を食いしばった。

 

もっと強くなれば。もっとカルンとの共鳴を磨けば。尾行者なんか追い払える。蛇の目の下っ端がどれだけ来ようと、俺が強ければ——もっとカルンと——

 

途中で言葉を飲み込んだ。

 

自分が何を言おうとしたか、一瞬だけ怖くなった。もっとカルンと——何だ。もっとカルンの力を使えば。もっとカルンに頼れば。もっとカルンを——

 

頭の奥で、ヴェーノの声が囁いた。

 

「いつか壊す」

 

振り払った。違う。俺は違う。守るためにやっている。

 

でもその恐怖も、焦りの中に沈んでいった。沈めた。考えたくなかったから。

 

カルンを手のひらに乗せたまま、丘の上に戻った。焚き火の残り火がかすかに赤い。ルセの寝息が聞こえる。

 

尾行者はまだいるだろう。丘のふもとのどこかで、夜通し俺たちを見ている。明日になれば、また別の誰かに引き継ぐのだろう。蛇の目の網は——切れない。

 

カルンを外套の中に戻した。カルンが俺の胸元にぴったりくっついて、動かなくなった。体温が低い。光がほとんどない。

 

眠れなかった。

 

尾行者は夜も見ている。俺は眠れない。カルンの光は弱い。

 

明日もまた歩く。逃げながら、強くなりながら、壊しながら。

 

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