歌姫と共に   作:ぶるうず

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才能と凡庸

テッラ盆地が近い。道の両脇に赤い土が露出し始めた。灌木の背が低くなり、風が遮るものなく地面を撫でていく。土の匂いが変わった。乾いていて、重い。地の精霊の領域に入りつつある。

 

ルセが歩きながら、不意にしゃがみ込んだ。

 

「ルセ?」

 

「ちょっと待って」

 

ルセが地面に手を置いた。赤い土に指を押し当てて、目を閉じる。数秒。ルセが立ち上がって、手についた土を払った。

 

「土の密度が変わってる。ここから先、盆地の中心に近づくほど精霊の力が強くなるよ」

 

「・・・どうして分かる?」

 

「水の祠の後からかな。足の裏で地面の硬さが分かるようになったんだよね。振動っていうか——水の祠で水の流れを肌で読む感覚を掴んだでしょ。あれと同じで、地面の中を流れてるものがあるの。風の祠で風を読むのと似てる。水は触感で、風は音で、地面は振動で」

 

ルセが当然のように説明した。当然のように——そこが、俺と違う。

 

水の祠と風の祠。二つの試練で得た感覚を、ルセは自分の中で繋げている。水は触感。風は聴覚。そして今度は地面の振動。全部が一つの体系として統合されている。

 

俺も二つの祠を経験した。水紋の谷で水の大精霊に認められた。セルペ高原で風の大精霊の試練を越えた。でも俺がやったことは——カルンの力を借りて「音で水を操った」。カルンの力を借りて「音で風を読んだ」。

 

共鳴なしでは何も残っていない。

 

祠の中ではできた。カルンの旋律があれば水も風も読めた。でも祠を出た後、日常の中で——ルセみたいに足の裏で地面を読むようなことは、俺には何もできない。

 

ルセは試練を「自分の経験」にしている。俺は試練を「カルンとの共同作業」でクリアしただけだ。

 

「フェズ? 聞いてる?」

 

「・・・ああ。すごいな」

 

「すごくないよ。ちょっと練習したら分かるようになっただけ」

 

ちょっと練習したら。

 

その言葉が、胸に刺さった。俺にとっては命がけだった試練の成果を、ルセは「ちょっと練習したら」で超えている。

 

ルセに悪意はない。本当に、ただ事実を言っているだけだ。ルセにとってはそれが自然なのだ。だからこそ——余計に、きつい。

 

---

 

丘を越えた先で、道が開けた。赤い土の台地が広がっている。テッラ盆地の入口だ。灌木がまばらに生え、見通しがいい。風が砂混じりに吹き抜けて、外套がはためいた。

 

前方に、何かがいた。

 

道の真ん中を塞ぐように、黒い塊がうずくまっている。猪ほどの大きさ——いや、もう少し大きい。土でできた体に、黒い斑点が浮き出している。目が濁っている。

 

黒斑病の精霊だ。土の精霊。前に街道で出くわした狐ほどの精霊よりずっと大きい。

 

ルセが剣を抜いた。俺も構えた。

 

「今度は俺もやる」

 

声に出して言った。前回はルセに先を越された。今度は——俺だって戦える。

 

精霊が俺たちに気づいた。濁った目がこちらを向いて——突進してきた。地面を割りながら走る。重い。地面が振動している。足元がぐらつくほどの圧。

 

俺は地形を見た。道の脇に窪みがある。岩が露出して段差になっている。あそこに誘導すれば足を取られて動きが止まる。声をかけようとした——

 

ルセが跳んだ。

 

精霊の突進に対して、横に——最小限の動きで軸をずらした。精霊の体が横をすり抜けていく。その瞬間にルセは背中に回り込んでいた。

 

一太刀。

 

精霊の背中の、黒い斑点が集中している一点——核だ。ルセの剣がそこを正確に捉えた。精霊が悲鳴のような音を立てて、崩れた。赤い土に還っていく。

 

考える暇もなかった。俺が地形を読んで戦略を立てている間に、ルセの体は動いていた。判断と実行が一つになっている。考えてから動くのではなく、体が状況に応答している。

 

「あ、またやっちゃった。ごめん、フェズ」

 

ルセが剣を振って土を払いながら振り返った。悪意はない。罪悪感もほとんどない。体が勝手に動いた。それだけのことだ。ルセにとっては。

 

「・・・いいよ」

 

剣を下ろした。

 

また出番がなかった。

 

腕が震えていた。悔しさじゃない。悔しさなら——まだましだった。悔しいということは、追いつける余地があるということだから。

 

これは違う。

 

俺が地形を読んで、誘導して、隙を突こうとしていた時間。ルセはもう斬っていた。同じ場面を見て、同じ瞬間に判断して——ルセの方が、何手も先にいる。

 

恐怖だった。自分は——いらないんじゃないか。ルセの隣にいる意味があるのか。戦えない巡祠者に、何の価値がある。

 

カルンが外套の中で光を揺らした。俺の感情が伝わっている。大丈夫、と言うように——でも今は、その光さえ目に入らなかった。

 

ルセが歩き出した。「先に行こう。暗くなる前に盆地の中に入りたい」

 

「・・・ああ」

 

ルセの背中を見た。まっすぐだ。迷いがない。ルセは自分の力で強くなっている。自分の感覚で世界を読んでいる。誰の力も借りていない。

 

俺は。

 

カルンがいなければ——何が残る。

 

その問いが、頭の中にこびりついた。

 

---

 

夜。

 

焚き火を囲んで夕食を取った。干し肉と麦のスープ。ペダーレで買い込んだ食料がまだ持っている。ルセが手際よくスープを温めて、俺の分を器に注いだ。

 

「地の大精霊、防御が固いって話だったよね。どう攻略する?」

 

ルセがスープを啜りながら聞いた。もう次の祠のことを考えている。さっきの戦闘のことは、ルセの中ではもう終わったことだ。

 

「・・・まだ考えてない」

 

「正面突破は無理だろうね。水の祠の時みたいに、環境を使う方向かな。あたしは弱点を探すかな——地の精霊って土でできてるから、何か崩れやすい箇所があるはず」

 

ルセが自然に「弱点を探す」と言った。水紋の谷の頃のルセは、正面からぶつかるタイプだった。考える前に動く。それが強みでもあり、危うさでもあった。

 

変わっている。風の祠の後で、ルセは自分の戦い方を広げていた。正面突破だけじゃない。状況を読んで、弱点を探して、最小限の力で最大の効果を出す。しかもそれを——自覚していない。当たり前のように成長している。

 

天才とは、こういうことだ。同じ時間を過ごして、同じ試練をくぐり抜けて——吸収の速度が違う。桁が違う。

 

「フェズ。あんたまた考え込んでる」

 

「・・・そうかな」

 

「そうだよ。ペダーレで会ってからずっとそう。何かに追われてるって話は前に聞いたけど——それだけじゃないでしょ」

 

ルセの目が真っ直ぐに俺を見ていた。焚き火の光が瞳に映っている。

 

「・・・ルセ」

 

「ん?」

 

「お前、水の祠の後から——どれくらい練習した」

 

「練習? 別に特別なことはしてないよ。歩きながら風を読んでみたり、地面の感触を気にしてみたり。祠で掴んだ感覚を忘れないようにしてただけ」

 

忘れないようにしてただけ。

 

それだけで——あれだけのことができるようになった。

 

俺は何をした。風の祠の後、何が変わった。カルンとの共鳴で風を読めるようになった。音の探知ができるようになった。衝撃波の精度が上がった。でもそれは全部——カルンの力だ。カルンなしの俺は。

 

「フェズ。何考えてるか当てよっか」

 

「・・・いい」

 

「あたしと自分を比べてるでしょ」

 

息が止まった。

 

ルセが焚き火に枝を足しながら、平然と言った。「あたしが精霊をあんたより先に倒しちゃうたびに、あんた黙るもん。分かりやすいよ」

 

返す言葉がなかった。

 

「別にいいんじゃない? 人それぞれだし」

 

ルセはそう言って、毛布にくるまった。ルセにとっては——たぶん、本当にそれだけのことだ。人には向き不向きがある。得意な分野が違う。それだけの話。

 

でもルセには分からない。俺が抱えているのは「向き不向き」の話じゃない。カルンがいなければ何も残らないという——空っぽの自分の話だ。

 

「おやすみ。明日は盆地の中を進むよ」

 

「・・・おやすみ」

 

ルセの寝息がすぐに聞こえ始めた。切り替えが早い。ルセは寝ると決めたら寝る。悩みを持ち越さない。それも——才能の一種だと思った。

 

---

 

焚き火が小さくなっていく。ルセの寝息。風の音。赤い大地の匂い。

 

立ち上がった。焚き火から離れて、暗い方へ歩いた。昨夜と同じだ。一昨日と同じだ。ルセが寝た後に、一人で——カルンと。

 

「カルン」

 

手のひらを開いた。外套の中からカルンが出てきて、俺の掌に降りた。

 

光が弱かった。

 

昨夜より弱い。一昨日より弱い。連日の共鳴がカルンを削っている。分かっている。分かっていて——

 

「共鳴するぞ。今夜は——もっと深くやる」

 

カルンが俺を見上げた。小さな体。弱い光。でも——頷いた。俺が望むから。俺に必要とされているから。フェズが求めるなら、カルンは応える。いつだってそうだった。

 

共鳴を始めた。

 

カルンの旋律が耳に流れ込む。今夜はいつもより——深い。探知だけじゃない。音の衝撃波をもっと鋭く。もっと速く。風の祠で使った「音の探知」を、リアルタイムの戦闘に組み込む訓練。

 

地の祠の試練。防御が固い大精霊。正面突破は無理だ。ルセは弱点を自分の感覚で探せる。俺にはそれができない。だから——カルンの音で探す。共鳴の精度を上げて、音で相手の構造を読んで、防御の隙を見つける。

 

それしかない。俺にはそれしかない。

 

共鳴の密度が上がっていく。カルンの旋律と俺の意識が深く絡み合う。周囲の音が膨張して、鮮明になっていく。百歩先の虫の羽音。二百歩先の風が岩を叩く音。地面の下を流れる水脈の音。全部が聞こえる。

 

もっと。

 

カルンの旋律が広がっていく。俺の焦りが共鳴を通じて流れ込んでいる。焦り。不安。ルセに追いつけない恐怖。自分が空っぽだという事実。もっと。もっと強く。

 

カルンが応えた。光を絞って意識を集中させている。旋律の精度が上がる。音の衝撃波を試しに放ってみた。地面に向けて——赤い土が砕けた。以前より鋭い。以前より速い。

 

でもカルンの光が明滅を始めた。体が震えている。体温が下がっている。限界が近い。

 

分かっている。

 

分かっていて——あと少しだけ、と思った。もう少しで掴めそうな感覚がある。衝撃波の角度を変えれば、探知と攻撃を同時にできる。あと少し。

 

カルンが光を絞り出した。明滅する光の中で、旋律がかすかに——震えていた。痛い、という響きではない。もっとこう——応えたい、という音だった。フェズのために。フェズに必要とされることが、カルンにとっても唯一の居場所だから。

 

俺がカルンを必要としている。カルンは俺に必要とされることを必要としている。

 

二人で互いに寄りかかっている。

 

共鳴が途切れた。カルンが力尽きて俺の手のひらに落ちた。光がほとんどない。目を閉じている。でもかすかに——俺の手のひらに顔を寄せていた。大丈夫、と言うように。まだやれる、と言うように。

 

「・・・ごめん、カルン」

 

カルンが首を振った。力なく。でもはっきりと。

 

俺はカルンを胸に抱えた。小さい体が冷たかった。心臓に当てるようにして、外套の中に戻した。

 

ごめん。ごめん。——でも明日もまたやるだろう。分かっている。止められない。

 

ルセは自分の力で強くなる。俺はカルンの力で補う。その差は、共鳴の回数を増やすほど広がっていく。カルンに頼るほど、カルンなしの自分はもっと空っぽになっていく。

 

分かっている。分かっていて止まれない。

 

焚き火の残り火のところに戻った。ルセが毛布にくるまって眠っている。寝息が穏やかだ。ルセは悩まず眠れる。自分の力で歩いているから。誰かに寄りかからなくても立てるから。

 

俺は——カルンなしでは立てない。

 

外套の中のカルンが、俺の胸元で小さく光った。微かな、消えそうな光。それでも——俺を照らそうとしている。

 

それを絆と呼ぶには、何かが歪んでいた。

 

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