テッラ盆地に入った。
赤い大地がどこまでも広がっている。灌木が点在しているだけで、木らしい木はない。空が広い。高原の風とは違う、乾いて重い空気が肌に張りつく。地面を踏むたびに、赤い砂が靴の先に絡みついた。
どこかにいるはずの尾行者の気配を、フェズは共鳴で探っていた。
カルンとの共鳴を、ごく薄く繋いだまま歩いている。外套の中のカルンが小さな旋律を紡ぎ続けて、その音が周囲の気配を拾ってくる。二百歩先の足音。百歩先の精霊の気配。地面の下を走る水脈の微かな振動。全部が音になって耳に届く。
これがあれば、不意を突かれることはない。精霊の接近も、尾行者の動きも——全て分かる。
ルセより先に危険を察知できる。
「フェズ。ここ、風が変わったね。盆地に入ると風の抜け方が違う」
ルセが歩きながら言った。足を止めずに風の変化を読んでいる。共鳴なんか使わずに、自分の肌で。
「・・・ああ。風が弱いな」
「盆地だからね。周りの丘に囲まれてるから、風が中に溜まるんだ。高原とは全然違う」
ルセが当たり前のように答えた。フェズは頷いた。フェズにも風の変化は分かっていた。でもそれはカルンの旋律が教えてくれたからだ。
——これくらいなら大丈夫だ。
カルンの光は弱い。昨日の夜の練習でかなり消耗している。でも昼間のこの程度の共鳴は——大丈夫だ。夜の練習が負担なのであって、昼間の探知はそこまでカルンに無理をさせていない。はずだ。
そう自分に言い聞かせて、共鳴を切らなかった。
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「ねえ、フェズ」
昼を過ぎた頃、ルセが不意に声をかけてきた。
「ん?」
「あの子。大丈夫?」
ルセの目がフェズの肩にいるカルンに向いていた。カルンはフェズの肩の上にじっとしがみついている。光が弱い。以前のように飛び回ることもない。外套の隙間から顔を覗かせているだけで、体を丸めている。
「ずっと光が弱くない? ペダーレで会った時はもうちょっと元気だった気がするんだけど」
「・・・共鳴の練習をしてるから、少し疲れてるだけだ。すぐ戻る」
ルセが何か言いたそうな顔をした。口が開きかけて——止まった。
フェズの事情は分からない。精霊と人間の共鳴がどれだけ負荷になるのか、概念系精霊がどれだけ特殊なのか、ルセは詳しくない。自分が口を出していい領域なのか、判断がつかない。
「・・・そう。まあ、無理させないようにね」
一般的な忠告だった。踏み込めない距離からの言葉。
「分かってる」
フェズは短く答えた。分かっていなかった。
カルンがルセの方を一瞬だけ見た。小さな体がわずかに動いて、光がかすかに揺れた。何かを伝えたいような——でもカルンには言葉がない。その揺れはすぐに収まって、カルンはまたフェズの肩にしがみついた。
ルセは前を向いて歩き出した。フェズも続いた。共鳴は繋いだままだ。
赤い大地を歩く。足元に赤い砂が舞う。カルンの旋律が、微かに——途切れかけた。一瞬だけ。フェズは気づかなかった。
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テッラ盆地の真ん中で野営をした。
見渡す限りの赤い大地。灌木の陰で焚き火を起こした。空が近かった。星が手を伸ばせば届きそうなほど明るく、地平線の端まで何も遮るものがない。
ルセが地図を広げて、火の光で確認している。
「あと四日か五日で祠に着くはず。盆地の中央に祠があるって宿の主人が言ってたから、このまま南に進めばいい」
「ああ」
フェズは祠印を取り出して眺めた。手のひらに二つ。水と風。大精霊の魔力が込められた金属片が、焚き火の光を反射してわずかに光る。
次は地。三つ目。
「ルセ。地の祠、一緒に行くのか」
「当然でしょ。同じ場所に行くのに別々に行く理由ある?」
ルセが呆れたように言った。フェズは頷いた。ルセと一緒なら心強い。
——でも。
ルセの前で試練に挑むのが怖かった。
水紋の谷では一人で挑んだ。セルペ高原でも一人で挑んだ。だから苦戦しても、カルンに頼りきっても、誰にも見られていなかった。
ルセがいたら——また差を見せつけられるかもしれない。ルセが先に突破して、俺が苦戦して。ルセが自分の力で道を切り開いて、俺がカルンの力を借りてやっと追いつく。
その恐怖を振り払うように、頭の中で計画を組み立てた。
地の祠。防御が固い大精霊。正面突破は無理だ。ルセが言ったように弱点を探す方向——でも、ルセは自分の感覚で弱点を見つけるだろう。足の裏の振動で、地面の密度の変化で。
俺にはそれができない。
だから——カルンの音で探す。共鳴の探知で、大精霊の構造を音で読んで、防御の隙を見つける。音の衝撃波で弱い箇所を叩く。共鳴の精度を上げて、もっと深く、もっと精密に——
計画はカルンの力が前提だった。カルンなしでは何も始まらない。
カルンがフェズの膝の上で眠っていた。光がとても弱い。でもフェズの膝から離れようとしない。ここが自分の場所だと言うように、小さな体を丸めてフェズの体温に寄り添っている。
フェズがカルンの頭を指先で撫でた。
「次の祠も、一緒にやろう」
カルンが眠ったまま、かすかに光を揺らした。応えるように。——約束するように。
それは絆のようで。
縛りのようでもあった。
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目を覚ましたのは、空が白み始めた頃だった。
焚き火はもう灰になっている。ルセが毛布にくるまって眠っている。寝息が穏やかだ。赤い大地の地平線が、東の空から滲むように明るくなっていく。
立ち上がって、盆地を見渡した。
広い。どこまでも赤い大地が続いている。灌木の影が長く伸びている。地の精霊の気配が濃い。土の中に何かが脈打っているような——盆地全体が、生きている感じがする。
共鳴を繋いだ。
意識しなくても、手が勝手にカルンに触れていた。外套の中のカルンが微かに光って、旋律が流れ始める。朝の空気の中に、音が広がっていく。二百歩先。三百歩先。地平線の向こうに、人の気配はない。尾行者は——いない。今のところは。
安堵する。安堵して——共鳴を切らない。
いつからだろう。歩いている間はずっとカルンと繋がっている。寝ている間と、ルセと話している時以外は、ほとんど常に共鳴している。探知を止めると不安になる。見えない手が背中を掴んでくるような感覚がある。蛇の目の誰かが、見えないところからこちらを見ている。
共鳴を繋いでいれば、その手に気づける。
だから——切れない。
「・・・これくらいなら大丈夫だ」
呟いた。カルンに言ったのか、自分に言ったのか。カルンの光がまた揺れた。弱く。でも途切れない。フェズが望むから。フェズに必要とされているから。
ルセが毛布の中でもぞもぞ動いた。
「ん・・・フェズ、もう起きてんの。早いね」
「ああ。・・・朝日が綺麗だぞ」
「ふうん。見る」
ルセが毛布から顔を出して、地平線を見た。赤い大地の向こうに、朝日が昇り始めている。オレンジ色の光が盆地全体を染めていく。赤い土がさらに赤く輝いて、灌木の影が長い帯を引いている。
「きれいだね」
ルセがまっすぐにそう言った。裏表なく。ただきれいだと思ったから言った。
フェズも見ていた。きれいだと思った。思ったけれど——頭の中では「今日はどこまで進めるか」「尾行者は来るか」「夜の練習でカルンの衝撃波の角度をもう少し調整したい」が回り続けていた。
きれいだと思う余裕が、なかった。
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テッラ盆地の地平線に朝日が昇っていく。三つ目の祠が待っている。
フェズの隣にはルセがいる。手の中にはカルンがいる。旅は順調に見える。ペダーレで合流してから大きなトラブルもなく、食料もまだ持っていて、地の祠までの道も分かっている。追跡者の影は薄くなっている。
順調に見える。
でもフェズの内側で、何かが少しずつ軋んでいた。
止まれないまま、祠を目指す。
強くなるために。守るために。壊さないために。
——その三つが、もう矛盾していることに気づかないまま。