歌姫と共に   作:ぶるうず

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赤い大地

テッラ盆地を歩いて五日目。

 

赤い土が靴底にこびりついて、もう取れなくなっていた。ルセの靴も同じだ。革の色が分からないぐらい赤く染まっている。ペダーレの宿で買った新しい靴紐も、三日目には赤茶けた。

 

盆地の中央に近づくにつれて、景色が変わっていった。初日は灌木がまばらに生えていて、小さな虫の音が聞こえた。二日目にはそれも減った。三日目には灌木すら消えて、赤い岩盤がむき出しになった。四日目の朝から、地面が温かかった。靴越しに伝わる熱。太陽のせいではない。もっと深いところから——地の精霊の力が、土そのものに染みている。

 

フェズはカルンと共鳴を繋いだまま歩いていた。いつもと同じだ。外套の中のカルンが旋律を紡いで、音が周囲の気配を拾ってくる。

 

でも——おかしかった。

 

旋律に雑音が混じっている。普段のカルンの探知は、透き通った音が広がって、障害物や生き物の気配を反響として返してくれる。それが今日は、返ってくる音にざらついたノイズが乗っている。地面の下で何かが低く唸っているような重い振動が、カルンの旋律をかき消しかける。

 

「・・・カルン。聞こえにくいか」

カルンが小さく体を揺らした。はい、と言うように。旋律を強めようとして——すぐに弱まる。地の精霊の気配が濃すぎて、音の探知が埋もれてしまう。

フェズの眉が寄った。二百歩先までクリアに聞こえていた探知が、今は五十歩がやっとだ。それすら不安定で、雑音の合間に一瞬だけ気配が見えて、すぐに消える。

 

ルセが立ち止まった。片膝をついて、地面に手のひらを押しつけている。目を閉じて、しばらく動かない。

「地の精霊の力がすごい。フェズ、分かる? 地面が震えてる。ほら、手を当ててみなよ」

フェズは膝をついて地面に触れた。微かな振動が伝わってくる。心臓の鼓動のような、ゆっくりとした脈動。盆地全体が息をしているように。

「・・・ああ。震えてる」

「祠が近いんだよ。この振動、盆地に入った時は感じなかったもん。中心に近づくほど強くなってる」

 

ルセは自分の五感で環境を読んでいた。足の裏で、手のひらで、肌に触れる空気の温度で。ピカはルセの肩の上で光を揺らしているだけだ。共鳴なしで。ルセはピカの力を借りない。借りる必要がない。自分の体で十分だから。

フェズはカルンの探知で同じ情報を得ようとしていた。でも地の精霊の気配に埋もれて、ほとんど何も分からない。音の探知が万能ではないと分かっていたはずなのに、実際に精度が落ちると焦りが喉の奥にせり上がってくる。

 

「ルセ。あとどれくらいだ」

「今日中に見えるかも。明日には着ける」

ルセが立ち上がって砂を払った。フェズも立ち上がった。共鳴は繋いだままだ。精度は落ちても、繋いでいないよりはましだ。

 

——尾行者が来たら。

その一念が、共鳴を切る選択肢を消していた。

 

---

 

午後になって、カルンがフェズの肩から滑り落ちそうになった。

 

「——カルン!」

フェズが反射的に手を伸ばして、カルンの小さな体を支えた。外套の中で肩に乗っていたカルンが、力なくずるりと滑って、フェズの手のひらに落ちた。

光がほとんど消えていた。いつもなら淡い金色の光を纏っているカルンの体が、今はくすんだ灰色に近い。目を閉じている。旋律も途切れた。共鳴が一瞬、完全に切れた。

 

フェズの手が震えた。

「カルン。カルン、おい」

カルンが弱く身じろぎした。フェズの手の中で、かすかに光を揺らす。大丈夫、と言うように。でも大丈夫ではなかった。光がほとんど戻らない。以前なら共鳴を切って少し休めばすぐに光を取り戻していたのに、今は——

 

ルセが足を止めて振り返った。

「フェズ? どうした——」

フェズの手の中のカルンを見て、ルセの表情が変わった。

「今、あの子——滑り落ちた?」

「大丈夫だ。少し疲れてるだけだ」

口が勝手に言い訳を紡いでいた。ペダーレにいた頃と同じ台詞。何度目だろう。少し疲れてるだけだ。すぐ戻る。大したことない。

ルセの目がフェズの手の中のカルンを見つめている。光がない。体が丸まっている。小さな翼がだらりと垂れている。

「・・・それ、少し疲れてるって言うレベルに見えないんだけど」

「大丈夫だ」

繰り返した。声が硬い。

 

ルセが何か言おうとして——口を閉じた。また、踏み込めない。フェズの事情は分からない。精霊のことは分からない。でもカルンの光がどんどん弱くなっているのは、見ていれば分かる。

「・・・少し休む?」

「いや。・・・歩ける」

 

フェズは共鳴を一度切った。完全に。カルンの旋律が消えて、世界がしんと静まり返る。地の精霊の脈動だけが、足の裏から伝わってくる。

 

共鳴を切った途端、不安が押し寄せてきた。周囲の気配が分からない。音の探知がない。百歩先に誰かがいても気づけない。蛇の目の誰かが岩陰に潜んでいたら。尾行者が追いついていたら——

 

カルンの光が、ゆっくりと戻り始めた。灰色だった体に、かすかな金色が差してくる。目は閉じたまま。でも光は戻っている。少しずつ。

 

五分。

五分で共鳴を繋ぎ直した。

 

カルンがまた旋律を紡ぎ始めた。回復しきっていない光で。音にまだ雑音が混じっている。地の精霊の気配も、カルンの消耗も、両方が探知の精度を落としている。

 

でもゼロよりはましだ。

 

「祠に着けば休める。祠を越えたら少し休もう」

フェズは自分に言い聞かせた。カルンに言ったのではない。自分に。「休む」の定義は、夜の練習を減らすこと。共鳴を使わない日を作ること——ではなかった。

 

カルンがフェズの肩にしがみついている。光は弱い。でも離れない。フェズが必要としているから。フェズが繋いでいるから。

ルセが何も言わずに歩き出した。フェズも続いた。

 

赤い大地。赤い砂。赤い空。何もかもが赤い。

 

---

 

夕方。

 

遠くに、何かが見えた。赤い大地の地平線に、巨大な影が聳えている。岩だ。ただの岩ではない。赤い巨石が円を描くように並んでいる。高さは人の十倍ぐらいある。自然にできた地形とは思えない整然さで、等間隔に配置されている。

 

地の祠だった。

 

「あれだね」

ルセが足を止めて目を細めた。「思ったより大きい」

大きかった。遠くからでも分かる。赤い岩が環状に並んで、夕日を受けて黒い影を落としている。大精霊の力で形作られた門。自然地形を造り変えるほどの力が、ここには眠っている。

「明日だな」

フェズが呟いた。明日、挑める距離だ。

 

二人は祠の手前で野営することにした。岩の円環が見える場所。風がない。盆地の中央は空気が淀んでいて、高原のように風が吹き抜けることがない。焚き火の煙がまっすぐ上に昇っていく。

焚き火を囲んで座る。干し肉を噛みながら、フェズは岩の円環を眺めた。夕日が沈みかけている。赤い大地に赤い空。岩の影が長く伸びて、こちらに手を伸ばしているようだった。

 

「フェズ。明日、どうする? 一緒に入る? それとも別々に挑む?」

ルセが火の向こうから聞いた。

「・・・巡祠の試練は一人で挑むものだろう」

「そうだけど。別に決まりがあるわけじゃないよ。水紋の谷だって、あたし入口で待ってたし」

ルセはさらりと言った。フェズが一人で水の祠に入っていくのを、外で待ってくれていた時のことだ。

「一人でやる」

即答した。

 

ルセの前で苦戦したくない。それが理由の半分だった。もう半分は——カルンとの共鳴を試練で全開にするところを、ルセに見せたくなかった。音の探知。音の衝撃波。カルンの旋律を使って戦うところを見られたら、ルセはきっと気づく。フェズがどれだけカルンに頼っているか。

「分かった。あたしも一人で行くよ。先に行く? 後にする?」

「俺が先に行く」

先にクリアしたかった。ルセが先に出てきて、フェズがまだ中にいるなんてことには——

「・・・じゃあ朝一番で行きな。あたしはその後で」

 

ルセが頷いた。何か言いたそうな顔をした。口が開きかけて——止まった。カルンのことか。フェズの顔色のことか。分からない。でもルセは何も言わなかった。焚き火のぱちぱちという音だけが、二人の間を埋めた。

 

カルンがフェズの膝の上にいた。光はまだ弱い。でもフェズの手に寄り添っている。体を丸めて、フェズの体温に沈み込むようにしている。明日の試練のことを分かっているように。明日もフェズが共鳴を求めてくることを、分かっているように。

フェズがカルンの背を指先で撫でた。

「明日だ、カルン。三つ目」

カルンがかすかに光を揺らした。弱い光。でも消えない。フェズがいるから。フェズに必要とされているから。

 

応えることをやめない。

 

それが絆なのか、それとも——

 

フェズはそこで考えるのをやめた。計画を頭の中で組み立てる方が楽だった。地の大精霊は防御が固い。正面からは無理だ。カルンの音で構造を探る。弱い箇所を見つけて、そこに共鳴の衝撃波を叩き込む。もっと精密に。もっと深く。もっと——

計画はカルンの力が前提だった。カルンなしでは何も始まらない。

分かっている。分かっていて、それでも——他にどうすればいいか分からなかった。

 

---

 

地の祠が赤い夕日の中に立っていた。

 

巨石の影が長く伸びて、盆地の赤い土に暗い筋を引いている。明日、三つ目の試練。岩盤と一体化した大精霊。圧倒的な防御。

フェズの手の中でカルンが眠っている。光が弱い。体が小さい。こんなに小さくて、こんなに弱って——それでも明日、フェズはカルンに全てを預けるだろう。預けるしかない。

ルセが焚き火の向こうで毛布にくるまっている。もう眠っているのか、目を閉じているだけなのか。

 

フェズは空を見上げた。星が出ている。赤い大地と暗い空。星の光がカルンの弱い光と混じって、手の中がほんの少しだけ明るく見えた。

 

——それでも行くしかなかった。

 

止まったら追いつかれる。止まったら離される。止まったら——

止まれない理由ばかりが増えていく。フェズの膝の上で、カルンが寝返りを打った。小さな手がフェズの指にしがみついた。離さないように。

 

それとも——離れられないように。

 

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