歌姫と共に   作:ぶるうず

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地の試練

石段を降りた先に、赤い岩の大広間が待っていた。

 

地面が——呼吸している。

 

足の裏に伝わる脈動が、地上とは比べものにならないほど重い。一段降りるごとに空気の密度が変わった。肺を満たす土の匂い。湿気はない。乾いた、古い、途方もなく古い大地の気配が、石段の壁を通じてフェズの肌を押してくる。

 

カルンが外套の中で身じろぎした。光が揺れている。地の精霊の力が濃すぎて、カルンの旋律にまた雑音が混じっている。昨日より酷い。

 

「・・・大丈夫だ。ゆっくり降りる」

 

フェズはカルンに囁いて、石段を一歩ずつ降りていった。壁は赤い岩盤で、ところどころに細い筋が走っている。岩自体がかすかに発光していた。地の精霊の力が壁に染みて、薄暗い石段を赤い光で照らしている。松明は要らなかった。

 

最後の段を降りた。

 

広い。

 

天井が遠い。見上げると、赤い岩盤の天蓋が薄暗い空のように広がっている。壁も遠い。大広間の端がどこにあるのか、目では追えない。ただ赤い岩の壁面が延々と続いて、暗がりに消えている。

 

そして——大広間の中央に、それはいた。

 

巨大だった。

 

最初、岩だと思った。赤い岩盤が盛り上がって、丘のようになっている。甲羅だ。赤い岩盤そのものでできた甲羅が、床から半分生えるようにして広間の中央に鎮座している。直径はフェズの十歩分——いや、もっとある。甲羅の表面に無数の亀裂が走っていて、そこから薄い赤光が漏れている。床と甲羅の境目が分からない。この広間の一部なのか、それとも広間がこの存在の一部なのか。

 

地の大精霊。テッラ。

 

目が開いた。

 

ゆっくりと、甲羅の縁から顔が出てくる。亀の頭だ。岩盤と同じ赤い肌。皺だらけの、古い顔。目だけが違った。深い琥珀色の瞳が、フェズを見下ろしている。

 

古い。途方もなく古い存在の目。

 

テッラが動いた。

 

それだけで広間全体が揺れた。足元が揺れる。壁が軋む。天井から砂粒が降ってくる。岩盤と一体化した体が、ゆっくりと起き上がる。甲羅が持ち上がると、四本の太い脚が見えた。岩の柱そのものだ。地面を踏みしめるたびに、広間が脈打つ。

 

フェズは剣を抜いた。

 

柄を握る手に力を入れる。深呼吸。土の匂いが肺を焼くほど濃い。

 

カルンが外套から出た。フェズの隣に浮かぶ。光が弱い。昨日肩から滑り落ちたカルンの光は、一晩寝ても完全には戻っていなかった。でもカルンは試練に応えようとしている。旋律を紡ぎ始める。弱い音。雑音まみれの探知の音。

 

「カルン。無理するな」

 

カルンが首を振った。行く、と言うように。フェズが行くなら、一緒に行く。

 

——ありがとう。

 

共鳴を深めた。カルンの旋律がフェズの中に流れ込んでくる。音が広間を走る。壁に当たって返ってくる。テッラの甲羅に当たって——弾かれる。何も分からない。地の精霊の気配が厚すぎて、探知がほとんど通らない。

 

テッラがフェズを見ている。琥珀色の瞳が、待っている。挑戦者が何をするのか。

 

フェズは走った。

 

---

 

まず地形を見た。

 

大広間の壁際に太い石柱が何本も立っている。自然にできたものか、テッラの力で生やされたものか分からない。とにかく柱の陰に入れば、直接の攻撃は避けられる——水の祠でやったように。柱を使って回り込む。背面を取る。水の大精霊との戦いでは、それで隙を作れた。

 

フェズは最寄りの石柱に向かって駆けた。テッラの右側。甲羅の縁に沿って走る。足が赤い土を蹴る。

 

石柱が——沈んだ。

 

フェズが隠れようとした柱が、地面にずるりと呑まれていく。赤い土が柱を飲み込んで、平らな地面に戻った。あっという間だった。

 

隠れ場所が、消えた。

 

「なっ——」

 

回り込もうとした。壁際の別の柱へ。走る。テッラの後ろに回ろうとした瞬間、壁が動いた。赤い岩盤の壁面が膨らんで、前に迫ってくる。通路が狭まる。壁と壁の間がどんどん詰まっていく。

 

逃げた。元来た方向へ。壁が追いかけてくるわけではない。ただ、フェズが行こうとした場所の地形が、先回りして変わる。柱が消える。壁が迫る。床が隆起して足場が傾く。

 

地形が——テッラそのものだった。

 

水の祠では大精霊の攻撃の隙を突いて、環境を利用して戦えた。風の祠では速さで翻弄して、風穴の配置を読んで攻めた。でもここでは——地形を使おうにも、地形が敵の体だ。隠れ場所は敵が作って敵が消す。通路は敵の意志で開いて閉じる。

 

この広間全体が、テッラの手足だった。

 

「——仕方ない」

 

フェズは正面からテッラに向かった。迂回は無意味だ。ならば直接叩く。

 

甲羅が目の前にある。赤い岩盤の壁。剣を構えた。振り抜く——甲羅の側面に刃が当たった。

 

金属と岩がぶつかる硬い音。

 

手首が痺れた。衝撃が腕を駆け上がって肩を打つ。刃が弾かれた。傷一つつかない。岩を斬ろうとしているようなものだ。実際にそうだった。テッラの甲羅は岩盤そのものだ。鉄の剣で岩盤が斬れるわけがない。

 

脚を狙った。甲羅から出ている太い前脚。ここなら甲羅より柔らかいかもしれない。フェズは姿勢を低くして、前脚の付け根に斬りつけた。

 

刃が滑った。

 

脚も同じだ。甲羅と同質の岩の肌。刃が表面を滑って火花を散らしただけで、テッラは微動だにしない。

 

テッラが反撃した。

 

動きは遅い。体が大きいから、脚を上げて地面を踏むだけで一拍かかる。でもテッラの反撃は脚ではなかった。

 

床が動いた。

 

フェズの真下から石柱が突き出す。腹を突き上げるように、赤い岩の柱が地面から生える。

 

「——!」

 

跳んだ。横に飛んで躱す。石柱がフェズのいた場所を貫いて、天井に届きそうなほど伸びた。着地する。着地した場所の地面が隆起した。足元が傾く。バランスを崩す。片膝をついた。

 

立ち上がる前に、壁が迫ってきた。左右から。壁と壁が挟み込むように近づいてくる。赤い岩盤が軋みながら狭まっていく。

 

「カルン!」

 

共鳴を深めた。カルンの旋律がフェズの中で膨らむ。フェズはカルンの音を束ねて、壁に向けて放った。音の衝撃波。空気を震わせる見えない力が壁にぶつかる。

 

岩にひびが入った。壁が砕ける。破片が散る。なんとか空間を確保した。挟まれずに済んだ。

 

息が荒い。カルンの光が一瞬明滅した。衝撃波一発で、これだけ消耗する。

 

でもそれだけだ。壁は砕けた。でもテッラ本体には——傷一つない。

 

フェズは甲羅を見た。さっき剣を当てた場所。何も変わっていない。刃の跡すらない。

 

衝撃波を甲羅に叩き込んだら?

 

やった。

 

カルンの旋律を束ねて、テッラの甲羅に向けて音の衝撃波を放つ。空気が震えて、赤い光の中を見えない力が走る。

 

甲羅に当たった。弾かれた。衝撃波が散って、広間の空気をかき乱しただけ。甲羅が揺れもしない。

 

もう一発。もっと強く。カルンの旋律を限界まで束ねて——

 

弾かれた。同じだ。何も変わらない。

 

「・・・くそ」

 

剣も駄目。衝撃波も駄目。地形利用は論外。何をやっても——テッラの防御が完全すぎる。

 

---

 

何度目か分からなかった。

 

フェズは甲羅に剣を叩きつけて、弾かれた。脚に斬りつけて、滑った。腹甲に潜り込もうとして、床から生えた石柱に弾き飛ばされた。

 

背中を打った。息が詰まる。

 

カルンの探知で石柱の出現を先読みしようとしたが、地の精霊の気配に埋もれて分からない。テッラの体と広間の床が同じ素材で、同じ気配を発している。探知で区別がつかない。

 

全部が敵の体だから。この広間に、安全な場所はない。

 

テッラが石柱を次々に生やした。一本。二本。三本。フェズの退路を塞ぐように、前後左右から赤い柱が突き出してくる。

 

跳ぶ。躱す。柱の隙間を縫って逃げる。でも柱は増え続ける。広間の中央に追い立てられていく。テッラの甲羅に向かって。

 

壁が後ろから迫る。前にはテッラの甲羅。左右は石柱。

 

背中が壁に当たった。

 

冷たい岩盤の感触。赤い光が壁から漏れている。もう下がれない。テッラの琥珀色の瞳が、正面からフェズを見下ろしている。

 

息が上がっている。膝が震えている。肩で息をしながら、フェズは剣を構えた。刃先が揺れている。握っている手に力が入らない。

 

カルンの光が明滅した。

 

弱い。弱い光が、点いて、消えて、また点いて。旋律が途切れかけている。常時共鳴を繋いだまま探知と衝撃波を使い続けた。カルンの消耗が限界に近い。

 

「カルン・・・」

 

カルンがフェズの傍で浮いている。羽ばたきが弱い。体が少しずつ高度を落としている。でもフェズの側を離れない。離れようとしない。

 

テッラが一歩踏み出した。

 

広間が揺れた。振動が壁を伝って、フェズの背中に響く。甲羅が近づいてくる。巨大な、岩の山が迫ってくる。

 

——駄目だ。

 

何をしても通じない。剣では傷つけられない。衝撃波は弾かれる。地形は敵の体。逃げ場がない。

 

カルンの力をもっと使えば——

 

それは頭にあった。もっと深い共鳴。もっと強い衝撃波。カルンの旋律を全力で引き出せば、あの甲羅を砕けるかもしれない。

 

でもカルンはもう限界だ。これ以上引き出したら——

 

テッラの脚が上がった。踏みつぶすためではない。脚が地面を踏んだだけだ。でもそれだけで、フェズの足元の地面が波打った。バランスを崩す。膝が折れる。片膝を突いた。

 

剣の切っ先が地面に刺さった。体を支えるために剣を杖にした。情けなかった。

 

その時——

 

カルンが旋律を紡いだ。

 

探知のためではなかった。衝撃波を作るためでもなかった。何かを伝えようとするような、必死な旋律だった。途切れ途切れの、弱い音。でも確かに方向があった。

 

テッラの甲羅に向かって、カルンの旋律が飛んでいった。

 

音が甲羅の表面に当たる。弾かれない。衝撃波のような力はないから、弾く必要がない。ただの音だ。ただの旋律。甲羅の表面に触れて、跳ね返ってくる。

 

反響音。

 

フェズの耳に返ってきた音は——ほとんど同じだった。甲羅のどこに当たっても、硬い反響が返ってくる。密度の高い岩盤そのもの。

 

でも——一箇所だけ違った。

 

甲羅の右肩。甲羅と脚の境目の少し上。節目のような亀裂が入っている部分。そこから返ってきた反響音が、他より低かった。

 

ほんの少しだけ。ほんの少しだけ音程が低い。

 

低い音は、密度が薄い。中が詰まっていない。硬さが足りない。

 

——穴ではない。でも他より「柔らかい」。

 

フェズの目が見開いた。

 

カルンがもう一度旋律を紡ぐ。さっきと同じ場所に。同じ反響が返ってくる。低い音。やっぱり低い。間違いない。甲羅全体が均一な岩盤に見えて——一箇所だけ、構造が違う。

 

音で分かった。

 

目では見えない。手で触れても分からない。剣で叩いても区別がつかない。でも——音が教えてくれた。カルンの旋律が、甲羅の中の構造を映し出した。

 

フェズはカルンを見た。カルンが弱い光でフェズを見返している。気づいた? と言うように。

 

気づいた。カルン。

 

——音で弱点を探す。

 

テッラの琥珀色の瞳が、フェズを見ている。変わらない。待っている。挑戦者が何を見出すか。

 

フェズの口元が引き結ばれた。

 

剣は通じない。力でも技でも崩せない。

 

でも——音なら、見える。

 

カルンの旋律が、岩の向こう側を映し出す。

 

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