嵐が来た。
そうとしか言えなかった。さっきまでの風とはまるで違う。空気の重さが変わった。呼吸するだけで肺が押しつぶされそうな圧力。木々が軋む音。遠くで雷が鳴っている。
森の木々の間から歩いてくるのは、小柄な少女だった。
俺より背が低い。年も近いか、もしかしたら下かもしれない。なのに纏っている空気が桁違いだ。風が少女の周りだけ渦を巻いている。髪が暴れて、服の裾がはためいて、それでも歩調はまったく乱れない。嵐の中心にいるのに、嵐に触れられていない。
「・・・誰だ」
リーダー格の声がかすれていた。剣を構え直しているけれど、さっきまでの余裕が消えている。
風使いの男が一歩後ずさった。
「まずい。この嵐、精霊の力だ。しかもこの規模は・・・」
「分かってる。黙れ」
リーダー格が風使いを制した。けれど目は少女から離せていない。
少女が立ち止まった。俺とハンターたちの間、ちょうど中間あたり。静かに二人を見渡して、それから俺の方をちらりと見た。
「大丈夫ですか?」
明るい声だった。場違いなくらい普通の、元気な声。
「・・・え」
「もう大丈夫です。あとは任せてください」
にっこり笑った。笑ってから、ハンターたちに向き直る。
風使いが動いた。手を前に突き出して、風を飛ばす。精霊の力を乗せた突風。木の枝を折るぐらいの威力がある。
少女の嵐が、それを飲み込んだ。
飲み込んだ、としか言えない。風使いの風が嵐に触れた瞬間、丸ごと呑まれて消えた。川に小石を投げ込んだみたいに、何の抵抗もなく。
「う、嘘だろ・・・!」
風使いが両手を突き出す。さっきより強い風。俺でも感じるくらいの圧力。
無駄だった。嵐が一段と強まって、風使いの精霊ごと押し返した。男の体が宙に浮いて、背中から木の幹に叩きつけられる。鈍い音。男はずるずると地面に崩れ落ちて、動かなくなった。
リーダー格が剣を抜いて斬りかかった。
速い。さっき俺に振り下ろした時より遥かに鋭い踏み込み。本気だ。この男、俺相手には手を抜いていたのか。
でも少女は動かなかった。
突風が吹いた。リーダー格の体が横に弾き飛ばされる。剣が手から離れて宙を舞う。男は地面を転がり、砂利と土を巻き上げながら木の根元で止まった。
その拍子に、男の懐から何かが飛び出した。金属の光。地面に落ちて、カランと乾いた音を立てる。
少女の動きが止まった。
さっきまでの笑顔が消えている。地面に転がった金属片を見つめて、ゆっくりと歩み寄る。拾い上げる。手のひらに乗せて、じっと見つめた。
丸いメダルだった。遠目でも分かる。蛇のような模様が刻まれている。
「・・・これ」
少女の声が低くなった。さっきまでの元気さが嘘みたいに。でもすぐに顔を上げて、リーダー格を見た。男はまだ地面に倒れている。意識はあるようだけど、起き上がれない。
少女はメダルを懐にしまった。何も言わずに。
リーダー格がようやく体を起こした。少女を見て、倒れた風使いを見て、舌打ちした。
「・・・撤収だ」
風使いの腕を引っ張って立たせる。二人は森の奥に消えていった。崖から落ちた大柄な男のことは気にもしていないらしい。
嵐が静まった。
風が止まると、森はさっきまでの静けさを取り戻した。虫の声が遠くから聞こえる。夕日が木々の隙間から差し込んで、あたりをオレンジ色に染めていた。
足の力が抜けた。膝が折れて、地面に座り込む。体中が痛い。右肩は枯れ木に体当たりした時からずっとおかしくて、共鳴の消耗で頭がぼんやりしている。
「ちょっと、大丈夫ですか!」
少女が駆け寄ってきた。しゃがんで俺の顔を覗き込む。近くで見ると、やっぱり俺より年下だ。大きな目が心配そうに揺れている。
「・・・たぶん、大丈夫」
「大丈夫じゃないですよ。肩、腫れてます。あと顔色悪いです。すっごく悪い」
容赦ない。でも嘘じゃないんだろう。
少女の視線が俺の左腕に移った。そこで抱えているカルンに目を留めて、息を飲んだ。
「え・・・その精霊」
「・・・うん」
「音楽の精霊・・・ですか? 自然じゃない概念の精霊。しかもこの魔力の残り香・・・上位の」
少女が目を丸くしている。さっきまで嵐を従えていた人間と同じ人物とは思えないくらい、素直に驚いている。
「概念の精霊って、数がすごく少ないんです。私も話に聞いたことしかなくて・・・音楽の精霊なんて、本物を見たの初めてです」
「だから狙われてたのか・・・」
「狙われて当然です。金持ちや権力者は喉から手が出るほど欲しがりますし、精霊ハンターにとっては一攫千金の獲物ですから」
ラリサの言い方にちょっと引っかかったけれど、カルンを見る目は純粋な好奇心だった。
「あ、それに・・・共鳴してますよね? この子と」
「え、分かるの?」
「分かりますよ! 魔力の残り香がお兄さんにも残ってます。共鳴したばっかりですよね、ムラがあるので」
「共鳴って・・・さっき、頭の中にこの子の名前が流れ込んできて、体の奥から何かが溢れてきた。あれが共鳴なのか?」
「はい! 精霊と人間が繋がることです。共鳴すると精霊の力が人間に流れ込んで、体が強くなったり、精霊に応じた魔法が使えるようになったりします。あと、繋がっている間は精霊が何を感じてるか、なんとなく伝わるようになるんです」
言われてみれば。さっきカルンが目を覚ました時、怯えている気配がはっきり伝わってきた。言葉じゃないのに、感情が流れ込んでくる感覚。あれは共鳴のおかげだったのか。
「・・・でもすごいですね、概念の精霊と共鳴するなんて」
すごい、と言われて反射的に否定しそうになった。すごくない。さっき一瞬で途切れたし、体が耐えられなくて膝をついた。でもカルンが俺を選んでくれたのは本当で、否定したらカルンに悪い気がした。
「あ、自己紹介がまだでした。私、ラリサっていいます。精霊使いです。嵐の精霊と契約してます」
「・・・フェズ。精霊使いっていうか、さっき共鳴したばっかりで・・・」
「フェズさんですね! えっと、怪我の手当てしないと。近くに私の師匠がいるんです。手当てできますし、精霊のことも詳しいですから。行きましょう」
ラリサが立ち上がって手を差し伸べた。俺はカルンを抱えたまま、ラリサの手を取って立ち上がる。右肩が軋んで顔をしかめた。
「肩貸しますね」
「・・・悪い」
「気にしないでください。一人であの人数相手に戦ってたんでしょう? それだけでも十分すごいですよ」
ラリサが俺の左側に入って肩を支えてくれる。歩き出すと、足元がふらついた。思ったより消耗してる。
「師匠って、どんな人?」
「トルニオっていうんですけど・・・グラーヴェの祠の主です。私の師匠で、元弟子っていうか。もう独り立ちしてるんですけど」
「祠の主?」
グラーヴェの祠。名前だけは知ってる。グラーヴェ市の近くにある大精霊の祠。祠巡りっていう試練の場所。それの管理者が近くにいるのか。
「はい。怖い人ですけど、悪い人じゃないです。たぶん」
「・・・たぶん?」
「たぶん、です。・・・まあ、大丈夫ですよ!」
全然大丈夫じゃなさそうなフォローだった。
カルンが俺の腕の中でもぞもぞ動いた。見ると、ラリサの周りを漂っている小さな光――嵐の精霊だろう――をちらちら見ている。怯えてはいるけど、ちょっとだけ首を伸ばして覗こうとしている。
好奇心、だろうか。さっきまで怯えて震えてばかりだったカルンが、別の精霊に興味を示している。
「あ、気になります? うちの子、見た目は地味ですけどすごいんですよ!」
ラリサが嬉しそうに言った。カルンがびくっとして俺の胸に顔を埋める。
「・・・驚かせないでやって」
「あ、ごめんなさい・・・」
森を抜けて、道に出た。グラーヴェ市の方角だ。日が傾いて、空が赤く染まっている。歩いているうちにだんだん暗くなっていく。
「フェズさんは、どこから来たんですか?」
「リトルネッロ村。グラーヴェに買い出しに来て、帰りにカルンが襲われてるのを見つけて」
「一人で買い出し?」
「・・・うん」
ラリサが何か言いたそうな顔をしたけれど、何も言わなかった。
しばらく歩くと、木々の向こうに建物の影が見えた。質素だけど頑丈そうな石造りの住居。周りに柵もなくて、ぽつんと建っている。祠の近くらしいけれど、祠そのものは見えない。
「着きました。ここが師匠の家です」
ラリサが声を張った。
「トルニオ師匠ー! 怪我人です!」
扉が開いた。
出てきたのは、大柄な男だった。50歳くらいだろうか。肩幅が広くて、背筋がまっすぐで、目つきが鋭い。一歩外に出ただけで空気が変わった。ラリサの嵐とは違う、地面に根を張ったような重さ。
俺の姿を一瞥した。肩の腫れ、ふらつく足取り、抱えている精霊。全部を一瞬で見て取ったみたいだった。
それからカルンに目を止めた。
「・・・自然由来ではないな」
低い声だった。独り言みたいに。
「概念の精霊か」
音楽の精霊とまでは言わなかった。でも一目で普通の精霊じゃないと見抜いている。
ラリサがトルニオに駆け寄った。背伸びをして耳元に何か囁いている。さっきのメダルのことだろう。懐からメダルを見せた。
トルニオの表情が変わった。もともと険しい顔がさらに硬くなる。メダルを受け取って一瞥し、懐にしまった。
「中へ入れ」
俺に向かって言った。命令だった。
石造りの家の中は質素だった。木のテーブルと椅子がいくつか。棚には薬草の束や瓶が並んでいる。暖炉に火が入っていて、部屋は暖かい。
ラリサが椅子を引いてくれて、俺は座った。右肩が熱い。カルンを膝の上に乗せると、カルンは小さく身じろぎして俺の腹のあたりに顔を押しつけた。
トルニオが俺の前に立った。
見下ろされている。物理的にも、それ以外の意味でも。
「名は」
「・・・フェズ」
「リトルネッロの子か」
知ってるのか。いや、この辺りの集落ならグラーヴェの祠の主なら把握しているのか。
「その体で何を守るつもりだった」
声が低い。怒っているんじゃない。ただ事実を聞いている。事実として、俺の体はボロボロで、右肩は腫れ上がっていて、共鳴の消耗で立つのもやっとだ。
何も言えなかった。
「この精霊はお前の手には余る。ラリサ、この子を預かれ」
「・・・え?」
俺とラリサの声が重なった。
トルニオはラリサを見た。
「概念の精霊だ。しかも共鳴済みとはいえ、この子供の体では維持できまい。お前なら適切に保護できる」
「師匠、でも・・・」
「反論があるなら聞く」
ラリサが口を開きかけて、閉じた。気まずそうに俺を見る。
俺は立ち上がろうとした。言い返さなきゃ。カルンを渡すなんて、そんなのは。
トルニオの目と合った。
言葉が出なかった。
射すくめられた、というのが近い。怒りでも威圧でもない。ただ、こちらの全部を見透かしているような目だった。お前に何ができる、と。お前はさっき死にかけたんだぞ、と。その目が語っている。
そして、言っていることは正しかった。
俺一人じゃカルンを守れなかった。ラリサが来なければ、二人とも終わっていた。肩は動かない。共鳴は一瞬で途切れた。精霊ハンターどころか、その辺の野犬にだって勝てるかどうか怪しい。
何も言い返せない。喉が詰まって、言葉が形にならない。
ラリサが何か言おうとした。間に入ろうとしている。でもトルニオが手で制した。
「今夜は泊まれ。話は明日だ」
冷たい声だった。突き放すような響き。なのに、追い出さずに泊まれと言っている。その矛盾に気づいたけれど、それで救われるわけじゃなかった。
俺は何も言い返せないまま、カルンを抱きしめていた。
カルンが俺の腕の中で小さく震えた。光が揺れている。弱々しく、不安定に。俺の感情に反応してるんだ。怖くて、悔しくて、どうしようもなくて。カルンにはそれが全部伝わっている。
ごめん。
声には出さなかった。出したら崩れそうだった。
この子を預かれ。
その言葉が、頭の中でずっと鳴っていた。
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