目を覚ましたのは、金属の音がしたからだ。
剣が鞘から抜かれる音。低く、短い。フェズは聞き間違えない。何百回と自分で抜いてきた音だ。でもこれは自分の剣ではない。方向が違う。距離が——近い。
フェズの体が反射的に跳ね起きようとした。
起きられなかった。
体が重い。筋肉が悲鳴を上げている。試練の反動がまだ全身に残っている。腕が、脚が、指先までもが鈍い。脇腹の傷が引きつれて痛んだ。
焚き火はもう消えていた。炭の灰が風に舞っている。薄い煙の匂い。空はまだ暗い。夜明け前だ。東の空の端が、ほんの少しだけ青みを帯びている。
ルセが毛布にくるまったまま身じろぎしている。まだ眠っている。
フェズは膝の上を見た。カルンがいる。光は弱い。夕方よりは少し戻っているが、まだ蝋燭の炎ほどしかない。フェズの膝に小さな体を預けて、眠っている。
金属音がもう一度聞こえた。
今度は複数だった。足音も。砂利を踏む音。一人じゃない。
フェズは左手でカルンを包み込んだ。右手で腰の剣に触れる。抜く。——重い。いつもの半分の速さでしか腕が動かない。
暗闇の向こうに、人影が見えた。
岩の円環——地の祠の外縁部の巨石の陰から、影が滑り出てくる。一つ。二つ。三つ。四つ。
四人。
三人は両脇に散開している。武装している。剣。短剣。一人は弓を構えている。動きに無駄がない。訓練された人間の動きだ。
そして——中央に、背の高い影が立っていた。
見覚えがあった。
あの背丈。あの立ち方。片手を剣の柄に置いて、もう片方の手を軽く広げる、あの独特の構え。
セルペ高原以来。
闇の中から、穏やかな声が聞こえた。
「お久しぶりです、フェズくん」
ヴェーノだった。
「祠の試練、お疲れ様でした。大変だったでしょう。地の大精霊は手強い。よく越えましたね」
声に棘はなかった。本気で労っているような口調だった。それが——怖かった。
「・・・今なら、あの子を渡していただけませんか」
フェズの血が凍った。
待っていた。祠の試練で消耗するのを、ここで。計画的に。最初から。
テッラ盆地に入ってから感じていた視線。時折見かけた、遠くの丘の上の人影。あれは偵察だったのだ。フェズの行動を見て、体力の回復速度を測って、祠に入るタイミングを計って——出てきた直後を狙った。
蛇の目は組織だ。ヴェーノ一人の思いつきではない。偵察がいて、報告があって、計画がある。
「ルセ」
フェズが低い声で呼んだ。
返事がない。まだ眠っている。
「ルセ!」
ルセが毛布の中で身じろぎした。「・・・ん、何・・・」
「起きろ。来てる」
ルセの目が開いた。暗闇に慣れていない目が瞬きして——人影を捉えた瞬間、ルセの体が跳ね起きた。手が剣に伸びる。反射的に、一瞬で臨戦態勢に入る。肩のピカが弾かれたように宙に浮いて、小さな光を明滅させている。さすがだった。
ヴェーノが微笑んだ。「お連れの方も一緒でしたか。お騒がせして申し訳ない」
ルセがフェズを見た。「誰。あれ」
「蛇の目。ヴェーノ」
ルセの目が細まった。名前は昨晩聞いていない。でも「蛇の目」の意味は伝令ギルドの噂で知っている。精霊を狙う犯罪組織。
「カルンを渡せって言ってる」
「は? ふざけんな」
ルセが剣を抜いた。フェズも剣を構える。左手にカルンを包んだまま。
ヴェーノが一歩踏み出した。両脇の構成員が動く。
「お二人とも試練の直後でお疲れでしょう。無駄な抵抗はやめていただきたいのですが」
穏やかだった。交渉から入る。いつもそうだ。断られるまでは。
フェズはカルンを庇うように体の前に左手を引き寄せた。
カルンが光を揺らした。
弱い光。でも揺れている。フェズの中に何かが流れ込んでくる。共鳴しようとしている。自分もまだ消耗しきっているのに——フェズのために、力を出そうとしている。
「駄目だ、カルン。お前はまだ——」
カルンが首を振った。小さな体で、はっきりと。
弱い光が——でも、振った。一緒に戦う、と言っている。
フェズの喉が詰まった。
「・・・分かった」
ヴェーノが首を傾げた。「交渉決裂ですか。残念です」
声の温度が変わらなかった。だがヴェーノの右手が剣の柄を握り直した。構成員が動く。
---
構成員の二人が前に出た。
左右から同時に。連携が取れている。一人が正面から斬りかかり、もう一人が右に回り込む。
フェズが剣で正面の斬撃を受けた。
重い。
腕に力が入らない。いつもなら弾き返せる一撃が、受けるだけで精一杯だった。衝撃が手首から肘に走る。歯を食いしばる。
右の構成員の斬撃が来る。体を捻って躱す——躱しきれない。肩を浅く斬られた。布が裂ける音。じわりと熱が広がる。
「フェズ!」
ルセが叫んだ。三人目の構成員に斬りかかっている。弓を構えていた四人目も剣に持ち替えてルセに向かう。ルセ一人に二人。フェズに二人。
カルンが共鳴を紡いだ。
音の探知。攻撃の先読み。——左の構成員が次に踏み込んでくる。右足から。下段の斬り上げ。
フェズの体が反応する。共鳴が伝える情報で、目より先に動く。左に半歩ずれて斬り上げを空振りさせ、返す刃で構成員の手首を打つ。剣が弾け飛ぶ。
——一人。
でもカルンの旋律がすぐに途切れた。音が掠れる。続かない。
右の構成員が踏み込んでくる。今度はカルンの先読みがない。フェズは目で見て判断する。遅い。構成員の剣が振り下ろされる。受ける。腕が震える。力比べになったら——負ける。
膝が折れかけた。
「——っ!」
フェズが歯を食いしばって押し返す。かろうじて弾いて、距離を取る。息が上がっている。心臓が痛い。
カルンがもう一度旋律を紡ごうとする。光が明滅する。点いて、消えて、点いて——消える。
「カルン、無理するな・・・!」
駄目だった。カルンの消耗は限界を超えている。共鳴を維持できない。探知が途切れる。先読みが消える。
フェズは自分の目と耳だけで戦うしかなくなった。
ルセが構成員の一人の剣を叩き落とした。続けて蹴りを入れて吹き飛ばす。もう一人に向き直る。ルセは強い。試練の疲労があっても、フェズよりずっと動けている。
だが二人を相手にしながらフェズを助ける余裕はない。
ヴェーノが動いた。
ゆっくりと。構成員たちの後ろから、散歩でもするように前に出てきた。剣を抜いている。
フェズの前に立った構成員が道を開けた。
ヴェーノとフェズが向かい合う。
「やはり今のあなたでは無理がある。分かっていたでしょう、フェズくん」
ヴェーノが剣を持ち上げた。構えは正面。基本に忠実な構え。だが——重い。気配が。精霊を失ってなお、残留する共鳴の残滓がヴェーノの体に染みついている。その残滓が剣に纏っている。
「あの子に頼りすぎている。あの子が動けない今——あなたは何ができますか」
ヴェーノが踏み込んだ。
速い。フェズの反応が追いつかない。剣が——
受けた。両手で。柄を握りしめて。ヴェーノの一撃を真正面から受けた。
衝撃が両腕を貫いた。骨が軋む音がした。膝が折れる。地面に片膝をつく。
「守れないでしょう。今のあなたでは」
ヴェーノが剣を引いて、もう一度振り下ろした。フェズが横に転がって躱す。赤い土が舞い上がる。立ち上がる。——遅い。体が動かない。
ヴェーノの三撃目。横薙ぎ。フェズが剣を立てて防ぐ。衝撃で体ごと吹き飛ばされる。二歩、三歩よろめいて、背中が岩に当たった。
息ができない。
視界が揺れている。
「あの子を渡してください。あなたでは守れない。壊してしまう。それは分かっているでしょう」
ヴェーノの声が近い。穏やかで、冷たくて、正しい。
正しいから——痛い。
フェズの左手の中で、カルンが震えていた。
---
ヴェーノがフェズの前に立っていた。
フェズは岩に背中を預けたまま、剣を構えている。腕が震えている。まともに構えられていない。
ヴェーノが剣を振った。フェズの剣を弾く。軽く。片手で。金属の甲高い音がして、フェズの剣が手から離れた。赤い土の上に転がる。
フェズの右手が空になった。
ヴェーノが蹴った。腹を。フェズの体が岩から剥がれて前に倒れる。地面に叩きつけられる。赤い土が口に入った。脇腹の傷が裂けて、熱い血が流れた。
「カルン——」
左手を庇う。カルンを包んだ左手を胸の下に押し込む。潰されないように。
ヴェーノの靴がフェズの視界に入った。
「フェズくん。もう十分でしょう」
声が降ってくる。上から。穏やかに。
「あなたは弱い。それ自体は悪いことではない。でもあの子を抱えたまま弱いのは——罪です」
フェズの体が動かなかった。起き上がれない。力が入らない。地面に倒れたまま、カルンを抱えることしかできない。
ヴェーノがしゃがんだ。フェズの顔を覗き込む。
「さあ。渡してください」
手を伸ばしてきた。フェズの左手に向かって。カルンに向かって。
「・・・触るな」
声が掠れていた。喉から血の味がした。
「触るな。カルンに——」
ヴェーノの手がフェズの左手に触れた。指を一本ずつ剥がそうとする。
フェズは握りしめた。全力で。腕が震える。指が痺れている。力が入らない。一本、また一本、指が開いていく。
「やめろ・・・!」
カルンの光が揺れた。恐怖。フェズの手の中で、カルンが震えている。ヴェーノの気配を感じている。あの手に触れられることを、怖がっている。
フェズの指が三本開いた。あと二本。親指と人差し指だけがカルンを握っている。
もう——保てない。
その時、カルンが動いた。
フェズの指の間から、するりと抜け出した。
自分から。
カルンがフェズの手を離れた。弱い光が宙に浮く。ヴェーノが反射的に手を伸ばす。
カルンはヴェーノの手の届かない方へ飛んだ。
フェズから離れる方向へ。ヴェーノから離れる方向へ。——二人の間を通って、暗闇の中へ。
ヴェーノの目が追った。
「逃がしませんよ」
ヴェーノが立ち上がった。カルンを追って走り出す。武器を失った構成員もヴェーノの後を追う。
カルンが飛んでいく。弱い光が暗闘の中を揺れながら進む。遅い。いつものカルンなら一瞬で見えなくなる速さで飛べるはずだ。でも今は——消耗しきった体で、必死に羽ばたいている。
フェズから離れていく。
「カルン!!」
フェズが叫んだ。
地面に倒れたまま、手を伸ばした。届かない。カルンはもう十歩以上先にいる。弱い光が闇の中を揺れている。
カルンが振り返った。
一瞬だけ。飛びながら、小さな体をくるりとこちらに向けた。
弱い光がフェズを見た。
言葉はなかった。共鳴も途切れている。音も、旋律も、何もない。ただ——光が、フェズを見ていた。
大丈夫。
あなたは逃げて。
あなたを守るから。
カルンの光がそう言った気がした。気がした、ではなく——そう言っていた。確かに。
カルンが前を向いた。弱い光が暗闇の奥へ消えていく。ヴェーノが追う。構成員が追う。足音が遠ざかる。
フェズは地面に倒れたまま、伸ばした手を下ろせなかった。
ルセが残った構成員を蹴り倒して駆け寄ってきた。「フェズ! カルンは——」
「・・・行った」
声が出なかった。喉が詰まっている。
「行ったって・・・まさか、自分から?」
フェズは答えなかった。答える代わりに、手のひらを見た。
空っぽだった。
さっきまでカルンがいた場所。温かかった場所。小さな体が収まっていた場所。
赤い土がこびりついているだけだった。
ルセが追いかけようとした。「待って、あたしが——」
「やめろ」
フェズが掠れた声で止めた。
「ヴェーノは強い。お前一人じゃ・・・」
「でも!」
「・・・追いつけない。カルンが——カルンが、わざとやったんだ。俺を逃がすために」
声が震えた。
カルンは自分の意志で飛んだ。フェズが動けないから。フェズが守れないから。フェズが倒されたら、ヴェーノの手にカルンが渡る。それなら——自分が囮になって、フェズを逃がす。
守られるはずの精霊が、守るはずだった人間を守った。
全部逆だ。
フェズは赤い土の上で、動けなかった。
体が動かないのではなかった。もう動かない理由がなかった。カルンがいない。カルンの光がない。カルンの温もりがない。手の中が空っぽで、胸の中も空っぽで——
「フェズ。フェズ、しっかりして」
ルセの声が遠くから聞こえた。
フェズの目が虚ろだった。手のひらを見つめている。赤い土。血。空白。
守るはずだった。カルンを守ると決めて旅に出た。強くなると決めた。巡祠の覇者になると決めた。全部、カルンを守るためだった。
なのに——カルンに守られた。
カルンの光が暗闇に消えていくのを見ているしかできなかった。地面に倒れて、手を伸ばして、届かなかった。
空が白み始めていた。東の空が薄い橙色に染まっている。夜明けが来る。赤い大地に朝日が差す。岩の円環が黒い影を落としている。
カルンがいない。
手の中が空っぽだ。
守るはずだった精霊が、自分を守って消えた。
フェズは赤い土の上で動けなかった。