歌姫と共に   作:ぶるうず

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空白

カルンがいない朝が来た。

 

赤い大地がオレンジ色に染まっている。地の祠の岩の円環が、朝日を受けて長い影を落としていた。空気はまだ冷たい。砂が風に舞って、頬に当たる。テッラ盆地の朝は静かだった。いつもなら、カルンの光が朝日に混じってゆらゆらと揺れている時間だ。

 

フェズは地面に座ったまま動いていなかった。

 

いつからこうしているのか分からない。ヴェーノが去ってから、空が白んで、朝日が昇って——ずっと、ここにいる。

 

手のひらを見つめていた。右手には赤い土と乾いた血がこびりついている。左手は——空っぽだった。カルンがいつも収まっていた場所。小さな体の温もりが残っていた場所。今はもう、何もない。

 

ルセが傍にいた。肩にピカが止まっている。小さな光が心細そうに揺れていた。

 

構成員は二人とも動けなくなっている。一人はルセに叩きのめされて岩の陰に転がっていて、もう一人はどこかに逃げた。ルセの腕にも浅い切り傷がある。袖が裂けて、乾いた血が筋になっている。でもルセは立っている。

 

フェズだけが、座っている。

 

「フェズ」

 

ルセの声がした。近い。目の前にしゃがんでいる。

 

「怪我、見せて」

 

フェズは反応しなかった。ルセの声が聞こえている。意味も分かっている。でも体が動かない。動かないのではなくて——動く理由が見つからない。

 

ルセがフェズの肩に触れた。肩の傷を確認する。浅い。布の下で血は止まりかけている。脇腹も同じだ。試練中の傷と合わせて、じくじくと痛んでいるが、致命傷ではない。

 

体は——大丈夫だ。

 

体は。

 

「・・・守れなかった」

 

声が掠れていた。喉の奥が痛い。昨夜叫んだから。カルンの名前を叫んだから。

 

ルセが手を止めた。

「カルンは自分で飛んでいった。あんたを逃がすために」

「分かってる」

フェズが顔を上げた。目が赤かった。泣いてはいなかった。泣くほどの感情すら出てこなかった。ただ——空っぽだった。

「分かってるから——余計に」

 

守るはずだった。カルンを守ると決めて旅に出た。強くなると決めた。祠を巡ると決めた。全部カルンのためだった。カルンがいるから頑張れた。カルンの光があるから前に進めた。

 

カルンがフェズを守って、ヴェーノに追われている。

 

全部逆だ。

 

フェズの手のひらが震えた。握りしめようとして、何も握れなかった。いつもそこにあった温もりがない。小さな体の重さがない。微かな光の揺らぎがない。

 

「・・・今頃、どうしてるんだろう」

 

声が漏れた。独り言だった。

 

「怖がってる。カルンは人間が怖いんだ。ずっと追われてきたから。俺の前にいた時も、知らない人が近づくと隠れようとしてた。・・・今、知らない人間に囲まれて」

 

喉が詰まった。

 

ルセが何も言わずに水筒を差し出した。フェズはしばらくそれを見つめて、受け取った。水を一口含む。冷たい。喉の痛みが少しだけ和らいだ。

 

「フェズ。聞いて」

 

ルセの声が変わった。覚悟を決めたような声だった。

 

「一つ聞きたいことがある」

 

フェズが顔を上げた。ルセの目は真っ直ぐだった。怒っているのではない。でも——誤魔化しを許さない目をしていた。

 

「あんた、ずっとカルンと共鳴してたでしょ」

 

フェズの肩が強張った。

 

「歩いてる間も。休んでる間も。寝てる時以外ずっと。盆地に入ってからもずっと。あの子が弱ってたのは・・・そのせい?」

 

フェズは答えなかった。

 

答えられなかった。

 

ルセの声が続く。震えている。怒りではなかった。見たくないものを見てしまった人間の声だった。

 

「祠の試練でもカルンに全部任せてたんでしょ。あの子の力で防御を崩して、あの子の音で敵の動きを先読みして。・・・あたしが見た時、カルンの光、ほとんどなかったよ」

 

フェズの視線が地面に落ちた。赤い土。どこまでも赤い。

 

「あたしは祠の試練を自分の体で越えた。地面の揺れを足の裏で読んで、弱点を自分で探して。あんたは——カルンの音で越えたんでしょ」

 

正しかった。全部正しかった。

 

「あんたはカルンを守りたいって言ってた」

 

ルセの声が低くなった。

 

「でも——あたしにはカルンがあんたを守ってるようにしか見えなかった」

 

空気が止まった。

 

風が吹いている。赤い砂が舞っている。朝日が二人の横顔を照らしている。でもフェズには何も感じられなかった。ルセの言葉が胸に刺さっていた。刺さっているのに痛くなかった。痛くないのは、分かっていたからだ。

 

全部、分かっていた。

 

カルンに頼りすぎていた。共鳴を切れなかった。カルンの消耗を見て見ぬふりをした。「少し疲れてるだけだ」と言い続けた。大精霊の言葉が聞こえる。「その歌は、代わりに何を削っているか、知っているか」。知っていた。カルンを削っていた。知っていて——止まれなかった。

 

「・・・ごめん」

 

フェズが言った。ルセにではない。ここにいないカルンに向かって。

 

ルセが立ち上がった。拳を握っていた。唇を噛んでいた。何か言いたそうだった。もっときつい言葉が喉の奥にある。でも——今は言わなかった。フェズがこれ以上壊れたら、立ち上がれなくなる。それが分かっていたから。

 

ルセは怒鳴らなかった。まだ、その段階ではなかった。

 

「・・・取り戻しに行くんでしょ。カルンを」

 

フェズが顔を上げた。

 

「当たり前だ」

 

声に力が戻っていた。僅かだけど。空っぽの目に、一つだけ光が灯っていた。それしか残っていなかった。カルンを取り戻す。それだけが。

 

ルセが頷いた。

「じゃあ、まず体を治しな。今のあんたじゃ追いかけることもできない」

 

正しかった。悔しいほど正しかった。

 

---

 

夕方になった。

 

フェズは少しだけ動けるようになっていた。ルセが食事を作ってくれた。干し肉を焼いて、水で戻した穀物と一緒に木の皿に盛った。フェズは無理に食べた。味がしなかった。噛んで、飲み込む。体が栄養を必要としていることは分かっていた。

 

ルセが焚き火の向こうでフェズを見ていた。

 

フェズが懐から祠印を取り出した。三つ。水の祠印。風の祠印。地の祠印。手のひらに載せると、小さな金属片が冷たく光った。

 

全部、カルンと一緒に得たものだ。

 

水の祠では、カルンの共鳴がなければ水の中で戦えなかった。風の祠では、カルンの音が風を読んでくれなければ試練を越えられなかった。地の祠では——カルンの旋律がなければ、大精霊の防御に傷一つつけられなかった。

 

カルンがいなければ、祠印は一つも取れなかった。

 

フェズはそれを初めて——いや、初めてではない。分かっていた。ずっと分かっていて、見ないふりをしていた。

 

「ヴェーノって名前だった? あの男」

ルセが焚き火の向こうから聞いた。

「あんた、知り合い?」

 

フェズは祠印を懐にしまった。焚き火の炎を見つめた。揺れる炎がカルンの光に似ていた。似ていない。カルンの光はもっと柔らかかった。

 

「・・・ルセ。話すことがある」

 

ルセが黙った。待っている。

 

フェズは話し始めた。

 

今まで隠していた全部を。

 

蛇の目のこと。カルンが音楽の精霊で、自然由来ではない概念の精霊だから狙われやすいこと。ヴェーノが蛇の目の幹部で、かつて精霊を失った男で、カルンに執着していること。セルペ高原で初めて衝突して、それからずっと追われ続けていたこと。テッラ盆地に入ってからも尾行者がいたこと。全部——知っていたこと。

 

ルセは黙って聞いていた。表情が動いていた。驚きと、怒りと、信じたくないものが混ざった顔をしていた。

 

「それ——ずっと一人で抱えてたの」

フェズは焚き火を見つめたまま、小さく頷いた。

「・・・巻き込みたくなかった」

 

ルセの目が鋭くなった。

「巻き込むとか巻き込まないとかの話じゃない。あたしはもう巻き込まれてるんだよ。目の前で見たんだから。あんたが殴られてるのも、カルンが飛んでいくのも、全部見たの」

声が強かった。怒りだった。でもフェズに向けた怒りではなかった。フェズが一人で抱え込んでいたことへの——もどかしさだった。

「いつから? いつから追われてたの」

「・・・風の祠の前からだ。ヴェーノと初めて会ったのはセルペ高原だった」

「あの頃からって——ずっとじゃん。あたしと再会した時にはもう追われてたってこと?」

フェズが頷いた。

「言いなよ! なんで言わないの! あたし、あんたの隣にいたのに!」

 

ルセが立ち上がった。拳を震わせている。目が光っていた。

 

フェズは答えなかった。答えが分かっていた。ルセの前で弱さを見せたくなかった。追われていることを知られたくなかった。カルンが狙われていると言えば、ルセが危険に巻き込まれる。それが嫌だった。全部、自分でどうにかしなければならなかった。

 

でもどうにもならなかった。一人では。

 

「・・・ごめん」

 

フェズが言った。今日二度目の謝罪だった。

 

ルセが大きく息を吐いた。座り直した。焚き火の炎が揺れた。

「謝んないで。あんたが謝っても何も変わんない」

 

きつい言葉だった。でも本当だった。

 

しばらく沈黙が続いた。焚き火がぱちぱちと音を立てている。赤い大地が夕闇に沈んでいく。星が一つ、二つ、空に灯り始めた。

 

「フェズ」

ルセが口を開いた。声が落ち着いていた。

「ルセ。俺が行く。カルンを取り戻す」

「一人で?」

「・・・ルセには関係ない」

「関係なくないでしょ。今さっき全部聞いたじゃん」

ルセが焚き火越しにフェズを見た。目が据わっていた。

「あたしも一緒に行く」

フェズが口を開いた。断ろうとした。

「断るなら勝手に追いかけるから。あんた一人じゃ無理だよ。分かってるでしょ」

 

分かっていた。

 

今のフェズは——カルンなしのフェズは、黒斑病の精霊一匹にすら一人で対処できるか怪しい。共鳴を前提にした戦い方しかしてこなかった。カルンの音がない世界は、暗闇の中を目隠しで歩くのと同じだった。

ヴェーノに追いつけたとして、戦えない。カルンを連れ戻せない。

一人では。

 

フェズは手のひらを見た。空っぽの手のひら。カルンがいた場所。温もりの残像すらもう消えている。

 

「・・・ありがとう」

 

小さな声だった。かすれていた。

 

ルセが少し驚いた顔をした。フェズの口からその言葉が出るのを、初めて聞いたから。

 

「ルセ。ありがとう。・・・一人じゃ、無理だ」

 

弱さを認めた。

 

フェズが初めて、自分の弱さを言葉にした。

 

ルセが鼻を鳴らした。「当たり前でしょ。最初からそう言ってんの」

 

でも声は少し震えていた。

 

---

 

夜が深まった。

 

ルセが毛布にくるまって横になっている。まだ眠ってはいない。背中を向けているが、時々身じろぎする。フェズのことを気にしている。

 

フェズは焚き火の前に座っていた。

 

膝の上が軽い。いつもカルンが丸くなっていた場所。温かかった場所。カルンがフェズの膝にしがみつくようにして眠る姿が——もう、ない。

 

手のひらを広げた。

 

火の光が手のひらを照らす。傷だらけの手。赤い土が爪の間に入り込んでいる。この手でカルンを抱えていた。この手で守ると誓った。

 

守れなかった。

 

カルンを取り戻す。それだけが今のフェズに残された全てだった。

 

焚き火が弾けた。火の粉が舞い上がって、夜空に消えた。カルンの光みたいに——消えた。

 

ルセが隣にいる。一人ではないことが少しだけ救いだった。でもカルンがいない穴は、ルセでは埋まらない。誰にも埋められない。カルンだけが、あの場所にいた。

 

フェズは手のひらを握りしめた。

 

今度は空っぽではなかった。爪が掌に食い込む痛みがあった。小さな痛み。それだけが、今のフェズに残った現実だった。

 

取り戻す。何があっても。

 

たとえその先で、向き合わなければならないものがあるとしても。

 

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