歌姫と共に   作:ぶるうず

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追跡

翌朝。フェズとルセはヴェーノの痕跡を追い始めた。赤い土の上に、足跡が西に向かって伸びている。

 

四人分。等間隔で踏み込みが浅い。走っていない。急いでいない。

 

ヴェーノは余裕がある。カルンを手に入れて、追ってくる者もいないと——そう思っている。

 

フェズは歩いていた。

 

共鳴がない。音の探知がない。世界がとても静かだった。

 

いつからだろう。音のない世界がこんなに不安になったのは。旅に出る前は、これが当たり前だった。自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の足で歩いていた。カルンと出会って、共鳴を覚えて——ルセと再会した頃には常時つなぎっぱなしだった。歩いている間も、休んでいる間も。カルンの旋律が常に世界を教えてくれた。

 

今は何も聞こえない。

 

風が吹いた。赤い砂が舞って頬に当たる。ただの風だった。共鳴があった頃は、風の中に精霊の気配を読めた。どこから吹いているか、何を含んでいるか、危険なものが混じっていないか。全部カルンの音が教えてくれた。

 

今は——風がどっちから吹いているかも分からない。

 

「南西の風だね。乾いてるから、しばらく雨は降らないと思う」

ルセが言った。前を歩いている。肩のピカが風に揺れている。自分の足取りに迷いがない。ルセは自分の五感で世界を読んでいる。風を肌で感じて、空を目で見て、地面を足の裏で踏んで——それだけで、フェズがカルンの探知で得ていた情報と同じものを読み取っている。

 

いや。同じではない。ルセの方が正確だった。

 

フェズは足跡を追った。赤い土に刻まれた痕跡。四人分。一定の歩幅。ブーツの底の跡が鮮明に残っている。昨夜の風で少し崩れているが、まだ新しい。

 

「足跡は真っ直ぐ西に向かってる。何かの拠点があるのかも」

ルセが振り返った。フェズの顔を見て、少し眉を寄せた。

「フェズ。聞いてる?」

「・・・ああ。聞いてる」

 

聞いていなかった。頭の中ではカルンのことばかり考えていた。今カルンはどうしている。怖がっている。光が弱いまま、知らない人間に囲まれて——ヴェーノの手の中で。

 

カルンは人間が怖い。ずっと追われてきたから。フェズの前にいた時も、知らない人が近づくと外套の中に隠れようとした。あの怯えた仕草。体を小さく丸めて、光を消して、見つからないようにする——

 

今もそうしているのだろうか。ヴェーノの前で光を消して、必死に体を小さくして。

 

「フェズ」

 

ルセの声が鋭くなった。

 

「考えるな。今は歩くことだけ考えて」

 

フェズは顔を上げた。ルセが足を止めてこちらを見ていた。怒った顔ではない。でも心配している顔でもない。冷静な目だった。

 

「暗い方に落ちていったら動けなくなる。追いつけるものも追いつけなくなるよ」

「・・・分かってる」

「分かってるなら足動かして。あたしが道を読むから、フェズは足跡だけ追いな」

フェズは頷いた。ルセが前を向いて歩き出す。その背中を追う。

 

足跡を追うだけなら、共鳴は要らない。目で見ればいい。赤い土の上の痕跡を。一歩ずつ。それだけでいい。

 

それだけで——いいはずなのに。

 

手の中が空っぽだった。いつもカルンがいた左手。指先がカルンの体温を覚えている。小さくて柔らかくて、光が温かかった。その記憶が、歩くたびに指先を刺す。

 

---

 

昼過ぎに、精霊が飛び出した。

 

灌木の陰から。小型の精霊だった。黒い斑点が体に浮いている。黒斑病だ。正気を失って暴走している。牙をむいてフェズに向かってきた。

 

フェズの体が反射的に動いた。共鳴を——

 

使えない。カルンがいない。

 

一瞬、体が固まった。共鳴を求めて意識が空を掴む。いつもそこにあった旋律が、ない。音の先読みがない。精霊がどこから来るか、次にどう動くか——何も分からない。

 

剣を抜いた。精霊が跳ぶ。左から。目で見て、体をひねって避ける。遅い。いつもなら音で先読みして、体が勝手に動いていた。今は目で見てから動くしかない。反応が一拍遅れる。

 

精霊の爪がフェズの袖を裂いた。浅い。だが——

 

かわしきれなかった。こんな小型の精霊に。

 

「フェズ!」

 

ルセが飛び込んできた。剣を一閃。精霊の突進を正面から叩き落とす。精霊が地面に弾かれて転がり、灌木の向こうに逃げていった。

「大丈夫。あたしがやるから」

ルセが剣を構えたまま、精霊が去った方向を見ている。追ってはこない。黒斑病の精霊は暴走しているだけで、執拗ではない。

 

フェズは剣を握ったまま立っていた。袖が裂けている。腕に薄い引っかき傷がある。大したことない。大したことないのに——

 

「・・・ごめん」

 

声が出た。

 

ルセが振り返った。「謝んないで。あんたが謝ることじゃない」

 

違う。謝りたいのはルセにではない。自分自身に対してだ。

 

黒斑病の精霊。小型。トルニオの下で修行していた頃、初めて実戦で戦った時と同じレベルの相手だ。あの頃は——カルンとの共鳴を使わずに、自分の剣と体で戦っていた。下手くそだったけれど、かわすことはできた。自分の目で見て、自分の体で動いて。

 

今はそれができない。

 

共鳴を前提にした体の使い方しかしていなかったから。カルンの音が先に教えてくれるから、自分の目で判断する必要がなかった。カルンの旋律が動きを導いてくれるから、自分の体で反応する必要がなかった。

 

全部、カルンに任せていた。

 

いつの間にか、共鳴なしのフェズはトルニオの修行を始める前より弱くなっていた。あの頃はまだ共鳴の甘さを知らなかったから、自分の体で戦えた。今は——カルンがいないだけで、黒斑病の小型精霊にすら手こずる。

 

ルセがいなかったら。

 

考えたくなかった。でも答えは分かっていた。一人では——危うかった。

 

「フェズ。行くよ」

 

ルセが歩き出した。何も言わなかった。フェズが戦えなかったことを責めなかった。それが逆に痛かった。

 

フェズは剣を鞘に収めて、ルセの後を追った。

 

---

 

日が傾き始めた頃、足跡が変わった。

 

「ここで休憩してる。火を焚いた跡がある」

ルセが地面にしゃがんで痕跡を調べている。消し炭が散らばっていた。四人分の座った跡。食事をした形跡。

「半日以上前だね。追いついてはいないけど、離されてもいない」

 

フェズが周囲を見回した。赤い大地が広がっている。テッラ盆地から西へ出かけているが、まだ赤い土が続いている。灌木がまばらに生えている。遠くに丘陵の影が見える。

 

「このまま行けば・・・どこに出る」

「分かんない。あたし、この辺の地理は詳しくないんだ。でも西にはいくつか街道がある。街道に出られたら、誰かに聞ける」

ルセが立ち上がった。「今日はここで野営しよう。暗くなったら足跡が追えない」

 

正しかった。フェズの体もまだ完全に回復していない。試練の消耗と、ヴェーノとの戦闘の傷。歩くだけで脇腹が痛む。

 

でも——止まりたくなかった。止まるとカルンのことを考える。カルンが今どこにいるか。怖がっているか。光が戻っているか。

 

「フェズ。座りな」

 

ルセが焚き火の準備を始めていた。枯れ枝を集めて、火打ち石を打つ。パチパチと音がして、小さな炎が灌木の枝に移った。

 

フェズは焚き火の前に座った。

 

膝の上が軽い。カルンがいない。二日目の夜。まだ二日しか経っていないのに、もうずっと昔のことのように感じる。カルンの温もりが膝にあった頃が。

 

焚き火の炎が揺れた。赤い。カルンの光とは違う赤。カルンの光はもっと柔らかくて、温かくて、生きていた。炎は——ただ燃えているだけだ。

 

「ねえ」

ルセが焚き火の向こうに座った。干し肉を齧りながらフェズを見ている。

「追いつけると思う?」

「追いつく。絶対に」

即答だった。迷いはなかった。

「・・・追いついて、それから?」

ルセの声が低くなった。冗談ではない真剣な声だった。

「あの男、強かったよ。フェズ。あたしが言うのもなんだけど、あの男は強い。精霊がいなくて、あれだけ動ける人間はそういない」

 

フェズは黙った。

 

「あんた、今カルンなしで戦えるの?」

 

答えが分かっているから黙った。今日の昼間に証明された。黒斑病の小型精霊にすら一人で対処できなかった。ヴェーノに追いついたところで——

 

「戦えない」

 

フェズが言った。小さな声だった。認めるのが苦しかった。でも嘘をつく余裕はもうなかった。

 

「今の俺は——戦えない。カルンなしだと、まともに戦えない」

 

ルセが干し肉を噛む手を止めた。フェズの口からそんな言葉が出るのを、予想していなかったのかもしれない。

 

「でも、行く。戦えなくても行く。カルンを——置いていけない」

「分かってる」

ルセが頷いた。焚き火の向こうで、目が据わっていた。

「あたしも一緒に戦うから。あんたはカルンを連れて逃げることだけ考えなよ」

 

「・・・ルセ」

「何」

「なんで——ここまでしてくれるんだ」

 

声がかすれた。聞きたかった。ずっと。ルセには関係ない。ルセの巡祠にはカルンも蛇の目も関係ない。なのにルセはここにいる。フェズの足跡の隣に、自分の足跡を刻んでいる。

 

ルセが少し考えた。干し肉を飲み込んで、空を見上げた。星が出始めている。赤い大地の上に、白い点がぽつぽつと灯っていく。

 

「・・・分かんない。理由とか、あんまり考えてない」

ルセが視線を戻した。焚き火の光がルセの目に映っている。

「でも——あの子が自分から囮になったの見たら、放っておけないじゃん」

 

声が静かだった。いつものルセの断定的な口調ではなかった。

 

「あの子はあんたを助けたかったんだよ。言葉も喋れないのに、体で、光で、それだけで——あんたを守ろうとした。それくらい、あたしにも分かる」

 

フェズの胸が軋んだ。

 

カルンが振り返った瞬間が目に焼きついている。弱い光。フェズを見た。言葉はなかった。共鳴も途切れていた。でも——大丈夫、あなたを逃がすから。そう言っていた。光だけで。

 

「だからさ」

 

ルセが膝を抱えた。焚き火に目を落とした。

 

「取り戻したら——ちゃんと考えなよ。あの子とのこと。あんたのやり方のこと」

 

フェズは答えなかった。

 

今は考える余裕がない。カルンを取り戻す。それだけで頭がいっぱいだった。あの子がどこにいるか。どうすれば追いつけるか。追いついてどうするか。

 

でもルセの言葉は聞こえていた。取り戻した後のこと。カルンとの関係。共鳴のこと。「使った」という言葉。大精霊の問い。全部——繋がっている。

 

全部、分かっている。分かっていて——今は、向き合えない。

 

「・・・ああ」

それだけ答えた。約束ではなかった。でも聞こえた、ということだけは伝えたかった。

「ああ、じゃないでしょ。ちゃんと返事しなよ」

「・・・考える。取り戻したら」

 

ルセが少しだけ笑った。笑ったのは初めてではないけれど——今の状況で笑えるルセが、少しだけ眩しかった。

 

「よし。じゃあまず取り戻すとこからだね」

ルセが毛布を引っ張り出した。「あたし先に寝るから。フェズ、見張りよろしく。・・・無理しないでね。眠かったら起こして」

「ああ」

ルセが毛布にくるまって横になった。背中を向けている。でもしばらく身じろぎしていた。眠れないのだろう。フェズのことを気にしている。

 

フェズは焚き火の前に座っていた。

 

赤い大地に二人分の足跡が刻まれている。その先に——ヴェーノの足跡が続いている。西へ。カルンが連れ去られた方向へ。

 

手のひらを広げた。空っぽだった。カルンがいない。二日目の夜が終わろうとしている。

 

取り戻す。何があっても。

 

たとえその先で向き合わなければならないものがあるとしても——まず、カルンの元へ。

 

フェズは西の闇を見つめた。星明かりの下、赤い大地がどこまでも続いている。足跡は見えない。でも方向は分かっている。西。ヴェーノは西に向かっている。

 

明日も歩く。明後日も。追いつくまで。

 

ルセが隣にいる。一人ではない。カルンなしでは戦えない。でも一人ではない。それだけが——今のフェズに残された、前に進む理由だった。

 

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