歌姫と共に   作:ぶるうず

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足跡の先

三日目の朝。赤い土がいつの間にか変わっていた。

 

茶色い砂利が混じり始めた地面に、轍の跡がある。荷車が通った痕跡だ。木の根が地面を割っているところもあって、人の往来がある場所だと分かる。

 

街道だ。

 

フェズは立ち止まって地面を見た。足跡が——増えている。昨日までは四人分の足跡だけが赤い土の上に伸びていた。ここからは違う。荷車の轍、別の旅人のブーツの跡、裸足の子供の足跡。全部が混ざっている。

「見失う——」

声が出た。四人分の足跡が他の痕跡に紛れて、どれがどれだか分からない。

 

ルセが振り返った。フェズの視線を追って地面を見る。肩のピカがふわりと浮いてルセの周りを一周し、また肩に戻った。ルセはしゃがみ込んで、砂利の上の足跡を指でなぞった。

「落ち着きな。ブーツの踵に特徴がある」

「踵?」

「ここ。見て」

ルセが一つの足跡を指さした。他の旅人のものより深く踏み込んだ跡の、踵の部分。わずかに斜めに削れている。

「右足だけ踵の外側が減ってる。歩き方の癖だね。四人のうち一番体が大きい奴——たぶん護衛の一人。この跡だけ追えばいい」

 

フェズは目を凝らした。言われてみれば、確かに踵の外側が他の足跡より深い。だがこれを一瞬で見抜いたルセの目が——

「ルセ。よく分かるな」

「巡祠者だからね。一人で旅してると、足跡を読めないと野営地も見つけられないし、獣道も避けられない。基本だよ、こんなの」

 

基本。ルセにとっては基本だった。フェズは共鳴の探知に頼りすぎて、こういう技術を身につけてこなかった。カルンの音が全部教えてくれたから。足跡を読む必要がなかった。

 

ルセがいなければ、ここで追跡は終わっていた。

 

「行くよ。この踵の跡を見失わないで」

ルセが立ち上がって歩き出す。フェズはその後を追った。砂利混じりの道を、一つの踵の跡だけを頼りに。

 

---

 

街道沿いに小さな集落があった。石壁に囲まれた家が十軒ほど。畑と家畜小屋。井戸の周りで女たちが洗い物をしている。

 

ルセが迷わず歩いていった。井戸端の女の一人に声をかける。

「すみません。昨日か一昨日、四人組の男を見ませんでしたか。一人は背が高くて——丁寧な口調の」

女が顔を上げた。ルセの旅装を見て、それからフェズを見た。巡祠者だと思ったのかもしれない。警戒の色はなかった。

「ああ。昨日の昼頃に通ったよ。街道を西に歩いてた」

「何か特徴はありましたか。荷物とか、様子とか」

「そうだね・・・一人が何か小さいものを大事そうに抱えてたかな。布に包んでたみたいだけど」

 

フェズの手が震えた。

 

小さいもの。大事そうに。布に包んで。

 

カルンだ。

 

ルセがちらりとフェズを見た。何も言わなかった。

「他に何か気づいたことはありますか。急いでいたとか、怪我をしていたとか」

「急いではいなかったね。普通に歩いてた。あの丁寧な人が他の三人に何か指図してたかな。穏やかな声でさ」

 

穏やかな声。ヴェーノだ。穏やかな声でカルンを抱えて、急ぐこともなく、街道を歩いている。追ってくる者がいるとも思っていないのか——それとも、追いつかれても構わないと思っているのか。

 

「ありがとうございます」

ルセが頭を下げた。フェズは動けなかった。手が震えている。握り締めた拳の中に、カルンの温もりの記憶がある。あの小さな体。布に包まれて——ヴェーノの腕の中にいる。

 

「フェズ」

ルセの声が低い。

「行くよ。昨日の昼ってことは、まだ半日分の差がある。でも詰まってきてる」

「・・・ああ」

歩き出した。足が速くなっていた。自分でも分かっていた。

 

---

 

昼を過ぎた。

 

フェズの歩く速度が上がっていた。砂利を蹴る音が早くなる。前を歩いていたルセを追い越しかけて——

「ペース落として」

ルセが後ろから言った。

 

聞こえなかった振りをした。足を止めない。一秒でも早く。一歩でも近く。カルンがまだヴェーノの腕の中にいる。あの穏やかな声で話しかけられている。カルンは怯えている。光を消して、体を小さく丸めて——

「フェズ。ペース落としてって言ってるの」

ルセの声が鋭くなった。でも足は止まらない。

 

「追いつけなくなる」

「追いつけなくはならないよ。相手も歩いてるんだから」

「もしどこかに——売られたら」

声が掠れた。頭の中で最悪の想像が膨らむ。カルンは音楽の精霊だ。概念の精霊は数が少なく、力が強い。金持ちや権力者が欲しがる。もしヴェーノが誰かにカルンを渡したら——

 

「売らないよ」

ルセが断言した。足を止めて振り返る。フェズの目を真っ直ぐに見た。

「あの男、カルンを欲しがってたじゃん。自分のものにしたいんだよ。かつて精霊を失った穴を埋めたいの。あの男にとってカルンは金じゃない。代わりなんだよ。誰かに渡すわけない」

 

冷静な分析だった。ルセが正しい。ヴェーノはカルンを商品としてではなく、かつて失った精霊の代わりとして求めている。売るような男ではない。

 

分かっている。頭では分かっている。

 

でもフェズの足は止まらなかった。分かっていても、体が先に動く。一秒でも早く。カルンの元へ。

 

「フェズ!」

ルセが走ってきてフェズの腕を掴んだ。力が強い。

「食事してないでしょ。水も飲んでない。このペースで歩いたら夕方までに足が止まるよ。追いつくどころか倒れる」

「・・・大丈夫だ」

「大丈夫じゃないでしょ。唇が乾いてるし、顔色も悪い。はい、水」

ルセが水筒を押しつけてきた。フェズは一瞬だけ躊躇して——受け取った。水を口に含む。喉が乾いていたことに、飲んでから気づいた。

 

「干し肉も食べな。歩きながらでいいから」

ルセが干し肉を差し出す。フェズは受け取って、ちぎって口に入れた。味がしなかった。噛んで飲み込む。体のための作業だった。

 

「ペース、あたしに合わせて。あたしが落としたら落として。いい?」

「・・・ああ」

 

ルセが前に立って歩き出した。さっきよりは遅い。でも決して遅すぎない、一日歩き通せるちょうどいい速度だった。

 

フェズはその背中を追った。ルセの判断が正しいことは分かっている。分かっていて——体がそれを受け入れない。一秒でも、一歩でも。カルンがもう一刻、ヴェーノの手の中にいる。その事実が、胸の底で燃えていた。

 

---

 

夕方。景色が変わった。

 

平坦だった街道の両脇に、低い丘が現れ始めた。灌木が増える。岩がむき出しになった斜面が、道の左右に迫ってくる。街道が丘の間を縫うように曲がり始めた。

 

見通しが悪くなった。

 

ルセが足を止めた。丘の上を見上げている。

「この先に何かあるかも」

「何かって」

「丘が多い。見張りが立てやすい地形だ。拠点を構えるなら、こういう場所を選ぶ」

 

フェズが周囲を見回した。確かに、丘の上から街道を見下ろせば、近づく者は遠くから見える。迎え撃つにも、隠れるにも向いている。

「・・・拠点か」

「足跡もここから先、ペースが変わってる。間隔が広くなった——歩幅が伸びてる。慣れた道を歩いてる感じ。この先に目的地があるんだと思う」

 

ルセの観察だった。フェズには分からなかった。足跡の間隔が変わっていることすら気づけなかった。

 

ルセが振り返った。

「急がないで。偵察してから動こう。明日でいい」

 

明日でいい。

 

その一言が、胸に刺さった。

 

明日。あと一晩。カルンがもう一晩、ヴェーノの手の中にいる。暗い部屋で光を消して、知らない人間に囲まれて。怯えて。震えて。フェズを待っている——かもしれない。待っていないかもしれない。もう諦めているかもしれない。

 

「フェズ」

ルセの声が柔らかくなった。フェズの表情を見たのだろう。

「分かってる。あんたの気持ちは分かってる。でも暗くなったら地形が読めない。丘の向こうに何があるか分からないまま突っ込むのは——最悪だよ。カルンを取り返すためにも、準備が要る」

 

正しかった。全部正しかった。

 

「・・・分かった」

 

声が震えた。分かった、と言った。でも体は——受け入れていなかった。

 

---

 

野営。丘の陰に身を隠すように火を起こした。ルセが手際よく枯れ枝を集め、小さな焚き火を作る。煙が出にくいように枝を選んでいた。拠点が近いなら、煙は見られたくない。

 

フェズは焚き火の前に座っていた。食事を取らずに。

「食べないと動けなくなるよ」

ルセが焚き火の向こうから言った。

「・・・後で」

 

ルセが黙って干し肉をフェズの前に置いた。フェズはしばらくそれを見つめて——手を伸ばした。口に入れて噛む。味がしない。飲み込む。体のための作業だった。二度目の。

 

焚き火の音だけが丘陵に響いていた。風が灌木を揺らす。虫の声が遠くから聞こえる。静かな夜だった。

 

「フェズ」

ルセが膝を抱えたまま、焚き火の向こうからフェズを見た。

「追いついたら——あたしの言うこと聞いてくれる?」

「聞くって、何を」

「作戦。ちゃんと偵察して、数を把握して、隙を見て動く。あんた一人で突っ込むのだけはやめて」

 

フェズはルセの目を見た。焚き火の光がルセの顔を照らしている。真剣な目だった。からかいも冗談も、そこにはなかった。

「あの男は強い。あんた一人じゃ無理だよ。それはフェズも分かってるでしょ。だから——あたしの作戦に従って。カルンを取り返すことだけ考えて。ヴェーノと戦うことは考えないで」

 

正しかった。昨夜の会話の延長だった。フェズは戦えない。カルンなしでは。それは二日目の昼に証明された。

 

「・・・分かった」

 

口では言った。

 

ルセがフェズの目を見ている。長い沈黙。焚き火がぱちりと弾けた。

ルセの表情が——変わった。信じていない顔だった。分かった、とフェズは言った。でもルセはそれを信じていなかった。この人は約束を守れない。カルンのことになると理性が飛ぶ。それを、ルセは知っていた。

 

「・・・寝なよ。明日は早いから」

ルセが視線を外した。焚き火に目を落とす。何か言いたそうだったが——飲み込んだ。

 

フェズは毛布を引っ張り出して横になった。目を閉じる。眠れるとは思わなかった。

 

丘陵の向こうに、何かがある。ルセはそれを感じている。足跡の変化、地形の特徴、歩幅の広がり。全部が一つの結論を指している。ヴェーノの拠点が近い。

 

カルンが近い。

 

フェズは暗闇の中で手のひらを握った。空っぽの手を。カルンの温もりの記憶を握り締めるように。

 

明日。明日になれば——

 

約束は、した。ルセの作戦に従うと。言った。

 

守れるだろうか。

 

カルンの光が見えた時——止まれるだろうか。

 

答えは出なかった。出ないまま、三日目の夜が更けていった。

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