歌姫と共に   作:ぶるうず

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スコルダの廃砦

丘を登り切った時、朝日の中にそれが見えた。

 

崩れかけた石壁。半分が瓦礫になった外壁の向こうに、一つだけ修復された見張り塔が立っている。朝日が塔の先端を赤く染めていた。石壁には苔が生えて、長い間放棄されていたのが分かる。でも塔の周りだけ——人の手が入っている。

「ルセ」

「うん。見えてる」

 

ルセが丘の稜線の手前で身を低くした。フェズも倣って灌木の陰に体を滑り込ませる。朝露に濡れた葉が頬に触れた。冷たかった。

 

丘の上から見下ろすと、廃砦の全体が見えた。スコルダの廃砦。英雄戦争時代の前線基地の跡だ。石壁が四角く敷地を囲んでいて、南側が大きく崩れている。地面に散らばった石が草に埋もれかけている。でも北側の壁はまだ立っていて、その内側に——人の気配があった。

 

「見張りが二人」

ルセが目を細めて呟いた。フェズにも見えた。廃砦の入口——北側の壁に開いた門の両脇に、男が二人立っている。剣を帯びている。朝の冷気の中で手を擦りながら、時折あくびをしていた。

 

「あそこだね。見張りが二人。中に何人いるか分かんないけど——多くはないと思う。あの男が連れてたのは三人だった」

「じゃあ五人か。ヴェーノ含めて」

「もっといるかもしれない。拠点なら補給や連絡の人間もいるはず。少なくて五、多くて十」

 

ルセの声は平坦だった。冷静だった。偵察の仕方も、数え方も、全部が手慣れている。巡祠者として一人で旅を続けてきた経験がそこにあった。

 

フェズは聞いていた。聞いていたが——目が廃砦から離せなかった。あの壁の内側にカルンがいる。地下かもしれない。小さな部屋に閉じ込められて、光を消して、怯えて——

「フェズ。聞いてる?」

「・・・聞いてる」

ルセが横目でフェズを見た。何か言おうとして——やめた。

 

「日が暮れてから動こう。見張りの交代を確認して、手薄な時間に入る」

「・・・分かった」

 

分かった、と言った。口ではそう言った。

 

---

 

昼過ぎになっていた。

 

ルセは丘の陰を移動しながら、廃砦の見張りの動きを観察し続けていた。小さな枝を折って地面に並べ、交代の時刻を記録している。フェズにはそんな器用なことはできない。ただ灌木の陰に伏せて、崩れた壁の隙間から見える中庭を見つめていた。

 

見張りが一度交代した。朝の二人が引っ込んで、別の二人が出てきた。これで最低四人は中にいる。

 

動きがあった。

 

中庭に——人が出てきた。

 

フェズの息が止まった。

 

ヴェーノだった。

 

長い外套を纏った背の高い男が、地下への入口から中庭に出てきた。朝日の名残が差し込む中庭で、ヴェーノは一度空を仰いだ。それから——

手のひらを、目の前に持ち上げた。

その上に、何かが乗っている。

 

小さな体。光が——弱い。ほとんど消えかかっている。布に包まれてはいない。ヴェーノの素手の上に、直接乗せられている。動かなかった。身じろぎもしなかった。

 

カルンだ。

 

フェズの視界が狭まった。カルンしか見えない。あの小さな体が。あの弱い光が。ヴェーノの手のひらの上で、まるで——

 

ヴェーノが何か話しかけていた。声は届かない。でも表情が見えた。穏やかな顔。優しい目。カルンに向かって微笑んでいる。指先で——カルンの体を撫でていた。丁寧に。壊れ物を扱うように。

 

フェズの拳が握り締められた。爪が掌に食い込む。

 

ヴェーノはカルンを傷つけていない。殴ってもいない。蹴ってもいない。優しく扱っている。話しかけて、撫でて、外の空気を吸わせている。

 

それが——一番許せなかった。

 

あの穏やかな表情は本物だ。ヴェーノはカルンを大事にしている。でもそれは「大事にしている」のではなく「所有している」だ。かつて失った精霊の代わりとして。自分のものとして。あの手のひらの上でカルンは——ヴェーノの所有物になっている。

 

カルンが微かに身じろぎした。

 

光が一瞬だけ揺れた。弱い。弱すぎる。あの揺れは——恐怖だ。ヴェーノの手の中で怯えている。逃げたいのに、逃げる力がない。体が動かない。光を出す力もない。ただ震えて——

 

フェズの息が浅くなった。胸が痛い。心臓が耳の奥で鳴っている。手足が勝手に力む。今すぐ丘を駆け下りたい。あの壁を越えて、ヴェーノの手からカルンを——

 

肩を掴まれた。

 

「駄目」

ルセの声が耳元で低く響いた。いつの間にか隣に来ていた。フェズの体が前のめりになっていたことに、掴まれるまで気づかなかった。

「今動いたら全部台無しになる。見張りが四人いる。ヴェーノもいる。昼間だから丸見えだよ。あんた一人で突っ込んだら——カルンを取り返すどころか、捕まるか殺されるかだよ」

「・・・分かってる」

 

分かっていなかった。体が勝手に動きそうだった。ルセの手が肩を掴んでいなければ——立ち上がっていた。

 

ルセが力を込めた。フェズの体を灌木の陰に引き戻す。

「見てなさい。夕方まで見張りの交代をもう一回確認する。パターンが分かれば隙が見える。フェズ——聞いてる?」

「聞いてる」

声が掠れていた。目だけが廃砦の中庭を見ていた。ヴェーノがカルンを手のひらに乗せたまま、地下への入口に戻っていく。カルンの弱い光が——闇の中に消えた。

 

拳の中に爪が食い込んでいた。血が滲んでいた。

 

それから何時間も、フェズは動けなかった。

 

ルセが丘の反対側に移動して廃砦の裏手を確認している間も、フェズは同じ場所にいた。膝を抱えて、灌木の陰で。手のひらを見つめていた。空っぽの手のひらを。三日前まで、ここにカルンがいた。あの温もりがあった。

 

午後の日差しが丘を照らしている。風が乾いた草の匂いを運んでくる。遠くで鳥が鳴いた。静かな午後だった。戦場の跡だとは思えないくらい。

 

ルセが戻ってきた。

「裏手の壁、一カ所崩れてて人が通れそう。地下への入口は正面の中庭からと、もう一つ——裏手にもあるかもしれない。石段みたいなのが見えた」

フェズは頷いた。声が出なかった。

 

ルセがフェズの隣に座った。しばらく何も言わなかった。それから、小さな声で。

「カルン・・・光が弱かったね」

 

フェズの体が強張った。

「うん」

「回復してないんだ。ヴェーノの所にいても」

「・・・うん」

 

カルンの消耗はあの日から続いている。ヴェーノに奪われる直前——自分の意志でフェズの囮になって、力を使い果たした。あれから何日も経つのに回復していない。ヴェーノが優しく扱っていても。外の空気を吸わせても。カルンの光は戻らない。

 

それは、カルンがヴェーノを拒んでいるからだ。

 

精霊は共鳴した相手から力を受け取る。信頼した人間の傍にいることで回復する。カルンにとってその相手は——フェズだ。ヴェーノではない。どれだけ優しくされても。カルンはヴェーノを受け入れていない。だから回復しない。だから光が戻らない。

 

「・・・早く行かないと」

声が震えた。

ルセが何か言おうとして——やめた。フェズの顔を見て、口を閉じた。

 

---

 

夕方。丘の裏手。

 

ルセが地面に線を引いて、廃砦の見取り図を描いていた。枝を折って見張りの位置を示している。

 

「見張りは二時間交代。昼に一回、夕方にもう一回変わった。日没後の最初の交代直後が一番手薄になるはず。交代直後は気が緩むからね。そこを狙う」

 

フェズは黙って聞いていた。聞こえてはいた。

 

「あたしが正面から見張りの注意を引く。石を投げるとか、音を立てるとか。見張りが正面に気を取られたら、フェズは裏手の崩れた壁から入って」

ルセが地面の図を指さした。南側の崩壊した壁。人が通れるくらいの隙間がある。

「中に入ったら、カルンを探して。地下にいる可能性が高い。見つけたらすぐ出て。裏手の壁から来た道を戻って。あたしは正面で時間を稼ぐから——合流地点はこの丘の裏」

ルセが丘の方を指さした。

 

「フェズ。大事なのは、カルンを取り返すことだけ。ヴェーノと戦わないで。構成員と鉢合わせても、戦わないで。逃げて」

「ヴェーノがいたら?」

「逃げて。あの男とまともにやり合ったら勝てない。カルンを抱えて走って」

 

正しい作戦だった。ルセが昼間ずっと観察して組み立てた、理にかなった作戦だった。

 

でもフェズの中で何かが軋んだ。

 

逃げて。カルンを抱えて走って。

 

それは正しい。ルセの言う通りだ。カルンを取り戻すことが最優先で、ヴェーノと戦う必要はない。理屈としては分かる。

 

でも——昼間見た光景が頭から離れない。ヴェーノの手のひらの上のカルン。あの穏やかな顔。あの優しい指先。カルンをまるで自分のもののように扱っていた。

 

逃げて終わりにしたら、ヴェーノは追ってくる。また同じことが起きる。カルンはまた奪われる。今度こそ取り返せないかもしれない。

 

逃げるのではなく——ヴェーノを倒す。二度とカルンに手を出せないと思い知らせる。それが「守る」ということだ。

 

・・・本当にそうだろうか。

 

守りたいのか。それとも——ヴェーノに奪われたことが許せないのか。カルンを取り戻したいのか。それとも、ヴェーノに勝ちたいのか。

 

分からなかった。分からないまま、フェズの中で怒りだけが膨らんでいた。

 

「フェズ。聞いてる?」

ルセの声が割り込んできた。フェズの顔を覗き込んでいる。眉が寄っている。不安の色だった。

「大事なのはカルンを取り返すことだよ。ヴェーノに勝つことじゃない」

「・・・ああ。分かってる」

 

ルセが黙った。フェズの目を見ている。長い沈黙だった。焚き火も起こしていない。煙を出すわけにはいかないから。冷たい夕風が灌木を揺らした。

 

ルセが視線を外した。地面の見取り図に戻る。でも手が止まっていた。

 

分かっている。ルセは分かっている。フェズの「分かった」が嘘であることを。カルンの光を見た時——あの弱い光を、ヴェーノの手の上で震えるカルンを見た時——フェズの目がどうなっていたか。ルセは見ていた。

 

止まれない。この人はカルンのことになると、止まれない。

 

「・・・日が沈むまでもう少しある。休んでな。動く時に体が動かないと意味ないから」

 

ルセの声が柔らかかった。優しさではなかった。諦めに似た何かだった。

 

フェズは岩に背を預けて目を閉じた。瞼の裏にカルンの弱い光が焼きついていた。ヴェーノの指先に撫でられる小さな体。怯えた揺れ。逃げる力もない——

 

日が沈んでいく。

 

廃砦の影が丘陵に長く伸びた。見張り塔の先端が最後まで夕日を受けて——消えた。

 

ルセの作戦は正しかった。冷静で、合理的で、リスクを最小限にする作戦だった。

 

フェズが従えれば、の話だが。

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