歌姫と共に   作:ぶるうず

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夜襲

月が雲に隠れた。

 

ルセが手を上げた。合図だった。正面に向かう。見張りの注意を引く。フェズは裏手に回る。——それが作戦だった。

 

フェズは合図を待たなかった。

 

月が翳った瞬間、体が動いていた。裏手の崩れた壁に向かって、灌木の間を駆ける。膝が草を踏む音が妙に大きく聞こえた。心臓が喉の奥まで上がってきている。

 

ルセが正面で石を投げる音が聞こえた。乾いた音が夜の丘陵に響いて、見張りの一人が「誰だ」と声を上げた。もう一人の見張りも正面に意識を向けている。今だ。

 

南側の壁。崩れた石の隙間。昼間ルセが確認した場所だ。体を横にして滑り込む。石壁の角が肩を擦った。痛みは——どうでもいい。

 

中に入った。

 

廃砦の内側は暗かった。月明かりが遮られて、崩れた石壁が影の塊になっている。中庭の端だ。正面に門があって、その向こうで見張りがルセの方を警戒している声が聞こえる。

 

地下への入口が見えた。中庭の奥——石段が闇に沈んでいる。昼間、ヴェーノがカルンを抱えてそこから出てきた。あの階段の下にカルンがいる。

 

静かに。音を立てないで。見つかったら終わりだ。ルセの声が頭の中で響いた。作戦を守れ。カルンを見つけたらすぐ出ろ。戦うな。

 

分かっている。分かっているのに——足が速くなる。

 

石段を降りた。一段、二段。足元が見えない。壁に手をついて、指先で道を探る。石壁は冷たくて湿っていた。地下の空気が重い。松明の匂い——誰かがここを使っている証拠だ。

 

通路が見えた。壁に松明が一本、低い炎を揺らしている。石造りの通路は幅が二メートルほどで、天井が低い。英雄戦争時代の兵站通路だろう。物資を運ぶために造られた道。

 

カルンの気配を感じた。

 

共鳴は切れている。あの日からずっと。なのに——体が覚えている。カルンがいる方向を。五日間ずっと一緒にいた温もりの残り香を。右だ。通路の奥。この先にカルンがいる。

 

走り出していた。

 

足音が石壁に跳ね返る。静かに行くはずだった。ルセとの約束だった。でも体が言うことを聞かない。カルンが近い。もうすぐ届く。あと少し——

 

「誰だ!」

通路の曲がり角。松明の灯りの中に、男が立っていた。蛇の目の構成員。剣を帯びている。こちらに気づいて、目が見開かれた。

 

フェズが剣を抜いた。

 

構成員も剣を抜く。暗い通路で刃が交差する。金属が噛み合う甲高い音が通路を走った。

 

弱い。カルンなしのフェズは。共鳴がなければ探知もできない。相手の剣筋が見えない。暗くて距離感も掴めない。

 

でも——狭い。通路が狭い。大きく剣を振れない。構成員が体勢を変えようとした瞬間、フェズが肩から体当たりした。相手の体が壁にぶつかる。よろめいた隙に、剣の柄で顎を殴った。

構成員が崩れ落ちた。

 

技術じゃない。力任せですらない。ただの——執念だった。

 

息が荒い。手が震えている。構成員を踏み越えて走る。通路の奥から足音が聞こえた。今の音で気づかれた。もう隠密なんて破綻している。

 

構わない。

 

---

 

地下通路は思ったより広かった。

 

英雄戦争時代の前線基地だけあって、兵站用の空間がある。通路が枝分かれしていて、壁に松明が等間隔に刺さっている。誰かが整備した痕跡。蛇の目がこの廃砦を拠点にしている証だった。

 

走る。足音が響く。もう隠密は破綻している。廃砦全体が動き出す気配がある。上の方——中庭あたりから怒声が聞こえた。「地下だ! 侵入者が地下にいる!」

 

構成員が集まってくる。

 

分岐点。左の通路の奥に松明の灯りが揺れている。右は暗い。カルンの気配は——左だ。

 

左に走った。

 

二人目の構成員。通路の分岐を曲がった先で鉢合わせた。こちらは走っている勢いそのまま。構成員は立ち止まっていた。その差が全てだった。

フェズが斬りかかった。構成員が受ける。剣が噛み合って——押し負けた。フェズの勢いに。でも構成員の剣が滑ってフェズの肩を掠めた。

 

熱い。浅い傷。血が袖を濡らす。

 

構わない。肩で押し退けて駆け抜ける。背後で構成員が体勢を立て直す音がした。追いかけてくる。でも振り返らない。前だけ見ている。カルンの気配が近い。

 

三人目。

 

通路が少し広くなった場所——倉庫の入口のような空間。そこに構成員が立っていた。もう体がふらついている。走り続けて、戦い続けて、肩から血が流れて。足が重い。

 

でも止まらない。止まれない。カルンの気配がすぐそこにある。この先。もうすぐ。

 

三人目が剣を構えた。フェズが突っ込んだ。剣が交差する。一合、二合。相手の方が腕がいい。体勢を崩されて——膝をつきかけた。

剣の柄を握り直した。歯を食いしばって立ち上がる。構成員が踏み込んでくる。その踏み込みの瞬間に、フェズは剣を振るのではなく——柄の端で相手の手首を殴った。

構成員の剣が落ちた。怯んだ隙に、もう一度柄で顎を殴る。倒れた。

 

拳が痺れている。血が手首を伝う。自分の血か、相手の血か、分からなかった。

 

通路の奥に部屋がある。扉が開いている。薄い灯りが漏れている。

 

その中に——

 

---

 

部屋に飛び込んだ。

 

石造りの小部屋だった。物置のような空間。天井が低くて、壁が近い。蝋燭が一本だけ灯っている。揺れる炎が壁に影を踊らせていた。

 

その光の中に——

 

カルンがいた。

 

小さな籠の中に。金属の細い格子で編まれた、手のひらに乗るくらいの籠。その中にカルンが丸くなっていた。

光がほとんどなかった。あの淡い、温かい光が——消えかかっている。目を閉じている。動かない。籠の底に体を預けたまま、まるで——

 

「カルン」

声が出た。掠れていた。喉が張りついていた。

 

フェズが籠に駆け寄って膝をついた。手を伸ばす。震えている。指先が籠の格子に触れた。冷たい金属。この中にカルンが——こんな小さな箱の中に閉じ込められて——

 

カルンが目を開けた。

 

弱い光がフェズを見た。一瞬——怯えた。体が強張って、光が震えた。人間が来た。また何かされる。また触られる。また——

でもすぐに止まった。瞳がフェズを捉えて——光が揺れた。恐怖とは違う揺れ。微かに。弱々しく。

 

フェズだ。

 

光が震えた。怯えと安堵が混じった、壊れそうな揺れだった。

 

フェズが籠の蓋を開けた。手が震えていて、留め金に指がうまくかからない。三回やり直して——開いた。

 

カルンを手のひらに乗せた。

 

軽かった。前よりずっと軽い。五日前に最後に抱えた時より——こんなに。光が弱すぎる。体温も低い。手のひらの上で、カルンがかすかに身じろぎした。

しがみつくように。フェズの指に寄り添うように。

光が少しだけ強くなった。温もりが戻る。ほんの少しだけ。——でもすぐに弱まった。力がなかった。光を保つ力が、もう残っていなかった。

 

「来たよ。迎えに来た」

声が震えていた。目の奥が熱かった。カルンの体が手のひらの中で小さく動いた。頷くように。ここにいる、と言うように。

 

背後で足音がした。

 

振り返った。通路の奥——松明の灯りに照らされた石壁の向こうから、足音が近づいてくる。複数。構成員だ。追いかけてきている。

 

そして——その足音の中に、一つだけ違う音があった。落ち着いた、一定の間隔の足音。急いでいない。慌てていない。分かっていたかのように、ゆっくりと。

 

「やはり来ましたか」

声が通路に響いた。穏やかな声。聞き覚えのある——

 

ヴェーノだった。

 

通路の向こうに立っている。松明の灯りが長い影を伸ばしていた。外套の裾が石床に触れている。構成員が左右に控えていたが、ヴェーノが手で制した。一歩、前に出る。

「——予想通りです」

微かに笑っていた。フェズが来ることを分かっていた。無謀に突入してくることを。ルセの作戦など守れないことを。カルンのためなら理性を捨てることを。

 

全部——見透かされていた。

 

フェズがカルンを胸に抱いた。剣を握り直す。手のひらが血で滑る。肩の傷が熱い。足がふらつく。それでも——退かない。

 

ヴェーノが首を傾げた。構成員たちを見渡して、それから視線をフェズに戻す。

「その子を抱えたまま、どうするつもりですか」

 

カルンは手の中にある。取り戻した。でもまだ終わっていない。

 

通路の向こうにヴェーノが立っている。背後の退路には構成員がいるかもしれない。ルセは正面で時間を稼いでいるはずだった——だがそれは作戦通りに動いた場合の話だ。フェズが作戦を壊した。ルセがどこにいるか分からない。

 

ヴェーノの足音が、一歩分近づいた。

 

ルセの作戦は破綻した。フェズが壊したのだ。

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