ヴェーノが通路の向こうに立っている。
剣を抜いていない。腕を組んで、壁にもたれるようにして。松明の灯りが長い影を引いていた。その顔に——笑みが浮かんでいる。
「その子を抱えたまま、どこへ逃げるつもりですか?」
穏やかな声だった。怒っていない。責めてもいない。ただ——事実を述べている。フェズが逃げ場のないことを。
フェズはカルンを左腕に抱いて後ずさった。背中が石壁にぶつかる。冷たい。通路の行き止まりではない——来た道がある。でもそちらには構成員がいる。三人倒したが、まだいる。さっき廃砦全体が動いた音を聞いた。
「無理をしましたね」
ヴェーノが一歩、前に出た。構成員たちを手で制している。自分だけが前に。
「傷だらけだ。肩の傷、まだ血が出ていますよ。——その子もまだ回復していないでしょう。返していただけませんか」
フェズの腕の中でカルンが震えた。小さな体が強張って、光が揺れる。ヴェーノを見ている。怯えている。五日間、あの籠の中にいた。この男の手の中にいた。穏やかに扱われながら——自由を奪われていた。
「怖がらせるつもりはないんです」
ヴェーノの声が柔らかくなった。カルンに向けている。まるで壊れ物を扱うように。
「あの子には穏やかに過ごしてほしい。——あなたの隣にいるより、ずっと安全に」
「黙れ」
フェズの声が低かった。喉の奥から絞り出した音だった。
ヴェーノの目が細くなった。松明の灯りが瞳の中で揺れている。同情でも嘲りでもない——理解している、という顔だった。フェズの怒りの理由を。フェズがなぜ黙れと言ったかを。
「怒るのは構いません。でも事実は変わらない」
ヴェーノが視線を落とした。フェズの腕の中のカルンを見ている。
「あなたはあの子を削り続けている。見えていますか? その手の中の光が、どれだけ弱くなったか」
フェズは言葉に詰まった。
カルンの光は弱い。手のひらの中で息をするように明滅しているだけ。あの温かい、柔らかい光が——ほとんど消えかけている。五日前に離れた時よりも。いや、もっと前から。共鳴を重ねるたびに。地の祠の試練の後から。ずっと——
ヴェーノの言葉が正しいと分かっているから、余計に怒りが燃えた。
「お前には関係ない」
「関係はありますよ。あの子を見ていると——思い出すんです」
ヴェーノの声が少しだけ変わった。穏やかさの下に、何か硬いものが覗いた。
「私も同じことをしていた。求めて、頼って、応えてくれるのをいいことに。——気づいた時にはもう遅かった」
フェズの手が握り締められた。ヴェーノの過去。かつて概念の精霊と共鳴していた男。精霊を失った男。この男は——自分の未来を見せようとしている。
「黙れって言った」
「ええ。では——力ずくで取り返しますか。あの子を抱えたまま」
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フェズが剣を構えた。
右手に剣。左腕にカルン。片手で戦うしかない。体は限界に近い。肩の傷から血が流れている。足がふらつく。三人の構成員を突破してきた疲労が全身にのしかかっている。
ヴェーノが溜息をついた。本当に残念そうな、静かな溜息だった。
「仕方ありませんね」
剣を抜いた。
ヴェーノの剣は細身で、松明の灯りを吸い込むように鈍く光った。構えは自然体。力みがない。この男は——剣を振ることに慣れすぎている。
フェズが斬りかかった。右から横薙ぎに。片手の一撃は軽い。それでも——
ヴェーノが軽く受けた。刃と刃が噛み合う甲高い音が通路に反響した。そのまま弾き返す。フェズの体勢が崩れる。片手では受け止められない。腕が痺れる。
よろめいた。壁に手をついて踏み留まる。カルンが腕の中で揺れた。光が怯えるように震える。
体勢を立て直す。もう一度。左から——ヴェーノが躱した。半歩ずらすだけ。それだけでフェズの剣が空を切った。振り抜いた腕が伸びきって、がら空きの脇腹が晒される。
カウンターが来た。
ヴェーノの剣がフェズの腕を掠めた。浅い。でも確実に当てている。殺す気はない。カルンを傷つけたくないからだ。
もう一度。踏み込んで突く。ヴェーノが片手で刃を逸らした。フェズの剣先が壁を擦って火花が散った。石壁の破片が頬を掠める。
「やはり。共鳴なしでは、この程度ですか」
静かな声だった。判定を下す声。試験官が答案を見るような、感情のない正確さで。
フェズは歯を食いしばった。分かっている。カルンなしでは勝てない。テッラ盆地であいつと離れてから、ずっと分かっていた。共鳴がなければ探知もできない。相手の剣筋が読めない。間合いが測れない。カルンの力があって初めて戦えるようになった。カルンがいなければ——ただの、弱い人間だ。
それでも退けなかった。ここで退いたらカルンはまたあの籠に戻される。あの暗い小部屋に。ヴェーノの手の中に。
叫んで斬りかかった。右、左、右。がむしゃらだった。剣術でも何でもない。ただ振り回しているだけだ。ヴェーノは全て見切っている。受け流して、躱して、時折浅い傷を返してくる。遊ばれている。分かっている。分かっていて——止められない。
ヴェーノが踏み込んだ。
一閃。速かった。フェズが剣で受けようとして——弾かれた。手から剣が離れそうになる。握り直す暇もなく、二撃目が来た。肩を打たれた。剣の腹で。峰打ち。殺さない。でも衝撃で体が吹き飛んだ。
壁に叩きつけられた。背中に鈍い衝撃が走る。息が止まった。視界が白くなって、膝が折れた。カルンを庇うように腕で包みながら、石床に崩れ落ちた。
ヴェーノが見下ろしている。剣を下ろして。息一つ乱れていない。
「返してください。フェズ」
名前を呼ばれた。初めてだった。
「これ以上あの子を苦しめないで。——あなたはもう、限界でしょう」
フェズは倒れたまま、腕の中のカルンを見た。
カルンが見上げていた。弱い光。ほとんど色を失った淡い輝き。でも——フェズの顔を見ている。瞳がフェズを映している。
離れたくない。
光がそう言っていた。怖いけど。弱いけど。力がないけど。この人の隣がいい。この人の腕の中がいい。
カルンがフェズの指にしがみつくように体を寄せた。小さな体が震えている。でも——離れない。
フェズの中で何かが壊れた。
---
カルンに手を重ねた。
左手で包み込むように。指先がカルンの体に触れる。温もりがある。弱い温もり。でもある。まだ、ここにいる。
「カルン」
声が震えていた。
「——力を貸してくれ」
カルンが一瞬、光を揺らした。戸惑いの色。今の自分に力はほとんどない。体が軋んでいる。核が——もう限界に近い。
でもフェズが求めている。フェズの声が聞こえている。フェズの手が温かい。この人が求めるなら——応えたい。応えなければ。この人を守りたい。この人のそばにいたい。だから——
光が、応えた。
共鳴が始まった。
五日ぶりの共鳴。カルンの旋律がフェズの中に流れ込んでくる。
弱い。あの試練の頃とは比べものにならないほど弱い。地の祠で「歌う剣士」として戦った時の、あの力強い旋律とは——まるで別物だった。途切れ途切れの、か細い音。壊れかけた楽器が最後の一音を絞り出すような。
でもフェズは引き出した。
無理やり。カルンの奥に残っている力を。もっと。もっと深く。カルンの中にまだあるはずの——
カルンが光を明滅させた。痛みの色。体が軋んでいる。核が悲鳴を上げている。旋律が歪む。音が割れる。でもフェズが求めるから——応える。応えてしまう。断れない。断りたくない。この人が求めるなら。
力が溢れた。
暴走的な力だった。カルンの力を「引き出す」のではなく「搾り取る」共鳴。地の祠で見つけた「歌う剣士」の技法——同じ技術のはずだった。同じ共鳴のはずだった。でも動機が違う。あの時は大精霊と対峙するための、カルンと呼吸を合わせた旋律だった。
今は違う。
音が歌ではなく——叫びになっている。
フェズが立ち上がった。目が据わっている。痛みが消えている。体の限界が消えている。カルンの力が全身を駆け巡って、傷も疲労も焼き消している。
剣を拾った。握り直した。刃に音が乗る。空気が震える。だがそれは旋律ではなかった。不協和音。カルンの苦痛が混じった、耳の奥を引っ掻くような音。
ヴェーノが表情を変えた。
初めてだった。あの穏やかな顔が——崩れた。目が見開かれている。驚きではない。恐怖でもない。それは——怒りだった。
「——それは」
ヴェーノの声が低くなった。敬語が消えかけている。
「馬鹿な。あの子をそこまで削って——何がしたい」
フェズが斬りかかった。
速かった。さっきとは段違いだった。共鳴の力が体を押し上げている。筋肉が軋む。関節が悲鳴を上げる。でも止まらない。
ヴェーノが剣で受けた。受けて——弾けなかった。音の衝撃が剣を通じてヴェーノの腕に伝わる。痺れが走る。ヴェーノの構えが崩れた。
初めてだった。ヴェーノの構えが崩れたのは。
「——っ」
ヴェーノが後退した。一歩。二歩。体勢を立て直そうとして——フェズがもう追いついている。
二撃目。横薙ぎ。不協和音が通路の壁を震わせた。石壁にひびが入る。粉塵が舞う。ヴェーノが受ける。受けて——腕が痺れる。剣を握り直す。
「やめろ」
ヴェーノの声が変わっていた。穏やかさが消えていた。
「あの子が壊れる。分かっているのか——」
フェズには聞こえていなかった。
聞こえていたのはカルンの旋律だけだった。悲鳴のような旋律。途切れかけの、歪んだ音。それでもまだ鳴っている。カルンがまだ応えている。フェズが求めるから。止めてと言えないから。言いたくないから。
三撃目。フェズの剣がヴェーノの腕を掠めた。血が散った。ヴェーノの血だ。
力がある。カルンの力がフェズの体を駆け巡る。今なら勝てる。今ならこの男を倒せる。カルンを脅かした男を。カルンを奪った男を。カルンを——
——それが何を代償にしているか、フェズはもう見ていなかった。
手の中でカルンの光が、一つ、また一つと消えていく。