音が鳴っている。
だがそれは歌ではなかった。カルンの旋律が——悲鳴に聞こえた。
フェズの剣がヴェーノに迫る。四撃目。渾身の横薙ぎ。不協和音が石壁を震わせ、天井から砂埃が降った。カルンの力が刃に乗って、空気を引き裂く。
ヴェーノが受けた。受けて——腕が弾かれた。構えが崩れる。
「——っ」
よろめいたヴェーノの肩口にフェズの剣先が走った。浅い。でも確実に血が散る。ヴェーノの左肩から、赤い筋が松明の灯りに光った。
「まだだ」
フェズの声が低かった。自分の声に聞こえなかった。体が勝手に動いている。カルンの力が全身を突き動かして、痛みも疲労も——何もかも消している。
ヴェーノが壁に背をつけた。体勢を立て直す。目が変わっていた。穏やかさが完全に消えている。あの余裕も、慈悲めいた微笑みも。残っているのは——剥き出しの怒りだった。
「——そうですか。そこまで、あの子を」
ヴェーノの声が低く変わった。残留する共鳴の残滓——かつて概念の精霊と共にあった頃の力の残り香。それを全開にする。空気が歪んだ。ヴェーノの周囲に力の波紋が広がる。
精霊を失ってなお、この男は強い。残滓だけでこれだけの力を出せる。本来の共鳴があった頃は——どれほどだったのか。
ヴェーノが踏み込んだ。
速かった。残滓の力で強化された一閃がフェズの胴を狙う。フェズが剣で受ける。音の衝撃と残滓の力がぶつかった。通路の壁にひびが走る。石壁が崩れ、破片が宙を舞う。
押し合った。互角——いや、フェズが押している。ヴェーノの残滓には限りがある。底が見える力だ。でもフェズにはカルンがいる。カルンという「源泉」がある。
——源泉を枯らしながら。
「やめなさい」
ヴェーノの声が割れた。敬語が完全に崩れている。
「あの子が壊れる——見えないのか。旋律が悲鳴になっているのが、聞こえないのか」
聞こえていた。
カルンの旋律が途切れかけている。音が歪んで、割れて、引きちぎれるような不協和音になっている。あの柔らかい旋律が——痛みの色に塗り潰されている。
聞こえていて、止められなかった。
フェズが踏み込んだ。五撃目。渾身の一撃。カルンの力を限界まで搾り取った刃が、ヴェーノの剣と激突する。
衝撃波が通路を駆け抜けた。
ヴェーノの剣が——弾き飛ばされた。
金属が石床を跳ねる甲高い音が反響する。ヴェーノの手から剣が離れ、通路の壁にぶつかって落ちた。
ヴェーノが膝をついた。壁にもたれる。肩の傷から血が流れている。腕が痺れて動かない。
息を切らしている。初めて見た。ヴェーノが息を切らす姿を。
「・・・満足ですか」
掠れた声だった。ヴェーノがフェズを見上げている。怒りの下に——何か別のものがあった。悲しみに近い色。かつて同じことをした男の、同じ過ちを見つめる目。
「あの子をそこまで使って。——私と同じだ。あなたも、同じことをしている」
フェズは答えなかった。
答える余裕がなかった。体が動いている。カルンを抱えて走っている。地下通路を逆に戻る。来た道を。構成員が通路の向こうから駆けてくる。二人。三人。
音の衝撃波を放った。カルンの残った力を——使い切るように。
衝撃波が通路を満たした。不協和音が壁を震わせ、構成員たちが吹き飛ばされる。壁にぶつかり、床に転がる。立ち上がれない。
走った。足がもつれる。共鳴の負荷が体を蝕んでいる。手足の感覚が薄れている。視界がぶれる。それでも足は止まらない。カルンを——連れて帰る。それだけが頭にあった。
階段を駆け上がった。石段を二段飛ばしで。膝が軋む。足首が捻じれそうになる。壁に手をついて体を支え、最後の数段を這い上がるように登った。
地上に出た。
夜の空気が冷たかった。汗が一気に冷える。月が雲の切れ間から顔を覗かせている。廃砦の中庭。崩れた石壁の向こうに——
「フェズ!」
ルセの声だった。
廃砦の外から駆けてくる。息を切らしている。手に剣を持っている。見張りを倒して、中に入ろうとしていたのだ。フェズが暴走して突入してから——ずっと外で戦っていた。
「カルンは——」
「取り返した」
声が掠れた。喉がひりつく。足がふらついて、一歩、二歩とよろめく。カルンを抱えた腕が震えている。力が入らない。共鳴の反動が、今になって全身に襲いかかっている。
ルセが駆け寄った。フェズの肩を支える。フェズの状態を見る。
血だらけだった。肩の傷。腕の傷。地下通路で受けた切り傷が何本も走っている。そして——共鳴の代償で体が軋んでいる。筋肉が痙攣している。指先が白くなっている。
「走れる? ここにいたら追手が来る」
「・・・ああ」
走った。ルセに肩を支えられながら。廃砦の崩れた壁を越えて、丘を下る。灌木を掻き分け、岩場を避けて。月明かりだけを頼りに。
追手は来なかった。ヴェーノも構成員も、今は動ける状態ではない。フェズがそれだけの傷を負わせた。カルンの力で。
丘を二つ越えた。三つ目の丘の裏手で——フェズの足が止まった。止まったのではない。崩れ落ちた。
膝から地面に落ちた。そのまま横に倒れる。ルセが慌てて支えるが、もう立てなかった。共鳴の反動で全身が軋んでいる。手足の感覚がない。視界が二重になっている。
「フェズ! しっかり——」
「・・・大丈夫」
大丈夫ではなかった。嘘だと自分でも分かっていた。でもそれしか言葉が出てこなかった。
---
カルンを手のひらに乗せた。
震える指で、そっと。
カルンの光が——ほとんど消えていた。
あの柔らかい、温かい輝きが。フェズの手の中で踊っていた、あの光が。呼吸するように微かに明滅しているだけだった。ほとんど闇に溶けている。目を閉じている。動かない。
「カルン」
名前を呼んだ。返事がなかった。光が揺れもしない。
「カルン——」
もう一度。声が震えた。手のひらの上の小さな体に触れる。温もりがある。かすかに。でも前よりずっと弱い。冷たくなりかけている。
精霊の核が——損傷している。
共鳴の酷使で。フェズが力を搾り取り続けたせいで。カルンの中にある一番大切なもの——精霊としての核が、砕けかけている。
ラリサが教えてくれた言葉が頭をよぎった。精霊の核が壊れたら——精霊は死ぬ。
「・・・嘘だろ」
声がこぼれた。自分に向けた言葉だった。
ルセがフェズの隣にしゃがんだ。カルンを見る。息を呑んだ。
「フェズ。あの子——」
「大丈夫だ。大丈夫。少し休めば——」
「大丈夫じゃないでしょ!」
ルセの声が震えていた。怒りと恐怖が混じった声だった。カルンの光を見ている。消えかけた光を。動かない小さな体を。
「見てよ。光がほとんどない。さっきまで——あんたが共鳴してた時、あの音。あれ——あれは歌じゃなかった。悲鳴だった。フェズ——」
フェズは何も言えなかった。
分かっていた。分かっていた。カルンの旋律が途切れかけていたのを。音が歪んで叫びに変わっていたのを。カルンが痛がっていたのを。全部——聞こえていた。
聞こえていて、止めなかった。
ヴェーノを倒すために。カルンを取り返すために。カルンを——守るために。
守るために、壊した。
その矛盾が、今になって全身に突き刺さった。
「・・・ルセ」
「何」
「俺が——やったんだ。カルンをこうしたのは」
声が震えていた。手が震えていた。手のひらの上で、カルンの光が一瞬だけ戻った。微かに。フェズの指に触れるように。
まだここにいる。
そう言っているように見えた。
でもその光はすぐに消えた。力がなかった。もう、応える力が残っていなかった。
ルセが何か言おうとして、口を閉じた。開いて、また閉じた。目が赤い。泣いてはいない。でも——近かった。
「・・・今は寝な。朝になったら——話そう」
ルセが外套を脱いでフェズの肩にかけた。手が震えていた。怒っているのか、怖がっているのか、それとも——両方か。
フェズはカルンを胸の上に乗せた。光のない、小さな体。温もりだけがかすかにある。
生きている。まだ生きている。
でも——どれだけ削った。どれだけ壊した。力を貸してくれと言った。カルンは応えてくれた。応えたくて応えてくれた。断れないから。断りたくないから。フェズが求めるから。
「——ごめん」
カルンに向けた言葉だった。唇から零れ落ちた、かすれた声だった。
カルンの光は、返事を返さなかった。
星が見えた。月が雲に隠れて、星だけが瞬いている。カルンがいた頃は——カルンの光が星に混じって揺れていた。今は星だけが冷たく光っている。
手の中のカルンが、どれだけ小さくなったか。どれだけ軽くなったか。
守るために奪い返した。守るために共鳴を求めた。守るために——壊した。
全部、フェズがやったことだった。
意識が薄れていく。体が限界だった。共鳴の反動と傷の痛みが混ざって、もう何が何だか分からない。ただ——カルンの温もりだけが、胸の上にあった。
消えないでくれ。
それだけを思って、フェズは目を閉じた。
カルンの光は戻らなかった。手の中で、精霊の核が軋んでいる。——守るために壊したものが何だったのか、フェズはまだ分かっていなかった。