ルセが泣いていた。
いや——泣いてはいない。怒っていた。今まで見たどの顔よりも怒っていた。
焚き火がぱちりと爆ぜた。ルセが枯れ枝を折って火に放り込んだ。折る手が荒い。枝がばきりと鳴って、火の粉が夜空に散った。
フェズは横たわったままルセの背中を見ていた。体が動かない。共鳴の反動で全身が軋んで、指先すら満足に曲がらなかった。胸の上にカルンがいる。光はない。温もりだけが、かすかに。
ルセが水筒を掴んだ。布を濡らして、フェズのそばに来た。膝をつく。腕の傷を見る。肩の傷を見る。地下通路でつけられた切り傷が何本も走っている。
手当てをしようとして——水筒をフェズの胸に叩きつけた。
「何やってんの」
低い声だった。ルセの声が低くなるのを、フェズは初めて聞いた。
「カルンを——取り返した」
「見れば分かるよ!」
ルセが立ち上がった。焚き火の前を行ったり来たりする。肩が震えている。声が丘に響く。
「そうじゃない! なんであたしの作戦無視して一人で突っ込んだの! 日没後の交代を待ってって言ったでしょ! 裏手から入って、カルンを見つけたらすぐ出てって——あたし、全部説明したよね!」
「・・・間に合わないと思った」
「間に合うように計画したんだよ!」
ルセの拳が膝を叩いた。乾いた音が焚き火の爆ぜる音に重なった。
「見張りの交代時間も調べた。手薄な時間も確認した。あたしが囮になる段取りも組んだ。全部——全部あんたのためにやったのに! あんたが勝手に壊したんでしょ!」
フェズは何も言えなかった。ルセが正しかった。作戦は正しかった。壊したのはフェズだ。待てなかった。カルンがもう一秒でもヴェーノの手の中にいることが、耐えられなかった。
それは理由にならない。ルセに言い訳として差し出せるものではない。
「ルセ。悪い。俺が——」
「謝るのは後!」
ルセが振り返った。目が赤かった。泣いてはいない。でも——近い。怒りの向こう側に、別のものが透けて見える。
「あんた、自分が何したか分かってる? あたしが正面で見張りを引きつけてる間、中で暴れ回って——あたしの存在ごと無視してくれたよね。あたしが何のためにここまで来たと思ってんの」
フェズの喉が詰まった。ルセは——ルセのためじゃなかった。フェズのために来てくれた。カルンを取り戻すために。一人で追跡もできないフェズの代わりに足跡を追い、作戦を立て、囮を買って出て。
それを全部、無駄にした。
「・・・ごめん」
「だから謝るのは後だって言ってるでしょ」
ルセが膝をつく。フェズの前に。カルンを見る。
消えかけた光。動かない小さな体。呼吸のように微かに明滅するだけの、かすかな輝き。
ルセの表情が変わった。怒りが一瞬引いて、別のものに塗り替えられる。恐怖に近い色だった。
「・・・フェズ」
声が変わっていた。怒鳴り声の後の、静かな声。低くて、重くて——怒鳴るよりずっと怖かった。
「あんた、あの子を道具にしてるの分かってる?」
---
焚き火が爆ぜた。火の粉が散って、闇に溶けた。
フェズの息が止まった。
「・・・道具なんかじゃない」
声が掠れた。反射的に出た言葉だった。でも自分の声が、どこか遠くから聞こえる。
「じゃあ何」
ルセの目がフェズを見据えている。逸らさない。逃がさない。
「守るって言いながら、限界まで力を搾り取って。あの子が苦しんでるの、分かってたでしょ。フェズ」
分かっていた。
「共鳴の途中で旋律が途切れてたでしょ。あの音——あたしにだって聞こえた。歌じゃなかった。悲鳴だった。カルンが痛がってたの、聞こえてたでしょ」
聞こえていた。
「それでも止めなかった。——それを道具って言うんだよ」
フェズの拳が握り締められた。爪が掌に食い込む。反論したい。違うと言いたい。カルンは道具なんかじゃない。カルンを守るために。カルンを取り返すために。ヴェーノの手から——
でもその「守るために」が、カルンを壊した。
言葉が出なかった。何も言い返せなかった。全部——全部、ルセが正しかった。
ルセが息を吸った。深く。そして吐いた。目が赤い。肩が震えている。でも声は震えなかった。
「あたしが前に言ったの、覚えてる? フェズ」
覚えている。テッラ盆地の後。カルンが囮になってフェズを逃がした後。ルセが困惑した顔で言った言葉。
「カルンがあんたを守ってるようにしか見えなかったって。あたし、あの時そう言った」
言った。ルセの声が揺れていた。困惑と——何か掴みかけている感覚。あの時のルセは、まだ言葉にできていなかった。
今は違う。
「今もそう。カルンはあんたに使われてるんじゃない。あんたのために自分を差し出してるんだよ」
焚き火の灯りがルセの顔を照らしている。怒りの下に——悲しみがある。カルンに対する悲しみだ。
「あんたが求めるから。カルンは断れないの。分かる? あんたが力を貸してくれって言ったら、カルンは応えるしかないんだよ。あの子には——嫌だって言う方法がない。精霊だから。言葉が話せないから」
フェズの視界が歪んだ。
求めるから、断れない。
力を貸してくれと言った。カルンは応えてくれた。応えたくて応えてくれた。でもそれは——カルンが望んだことなのか。カルンにとって「応えたい」は、「嫌だと言えない」と同じことだったのか。
分からない。
分からないことが、一番怖かった。
カルンは精霊だ。言葉を持たない。感情は光の揺れと旋律の色でしか伝わらない。フェズが読み取れるものだけが、カルンの意思として認識される。カルンが本当は何を思っているのか——聞く手段がない。
「嫌だ」ではなかったかもしれない。カルンは本当にフェズに応えたかったのかもしれない。この人の役に立ちたい。この人を助けたい。そう思って力を差し出したのかもしれない。
でもそれが「健全な意志」なのか、それとも「断れなかっただけ」なのか。
フェズには区別がつかない。区別がつかないまま、力を搾り取った。
「ルセ」
「何」
「俺は・・・カルンに、ひどいことをした」
「分かってるなら——」
「分かってたら、やらないだろ。普通は」
ルセが口を閉じた。
フェズが天を仰いだ。星が見えた。月は雲の向こうに隠れている。カルンがいた頃——カルンの光が元気だった頃は、星の光に混じってカルンの輝きが揺れていた。夜空の端で、小さく、温かく。
今は星だけだ。冷たい光が瞬いているだけだ。胸の上のカルンの光は、ほとんど見えない。
「分かってて——止められなかった」
声が震えた。初めてだった。フェズが自分の声の震えを隠さなかったのは。
止められなかった。分かっていた。カルンの旋律が悲鳴に変わっていくのを聞いていた。光が点滅するのを見ていた。それでも手を離せなかった。力を引き出すのをやめられなかった。
ヴェーノを倒さなければカルンを連れ戻せない。カルンを守るためにカルンの力が要る。その矛盾の中で——止まれなかった。
「大丈夫だ」と言い続けてきた。ルセと再会した頃から。テッラ盆地から。ずっと。大丈夫。分かってる。なんとかなる。全部——蓋だった。見たくないものに被せる蓋。
その蓋が、壊れた。
ルセが黙っていた。長い沈黙だった。焚き火がぱちぱちと鳴っている。夜風が灌木を揺らしている。丘の向こうに、スコルダの廃砦の影がうっすらと見える。
ルセが何か言おうとした。口を開いて——閉じた。もう一度開いて——また閉じた。
今のフェズにこれ以上言葉を叩きつけたら、壊れる。ルセにはそれが分かっていた。怒りたかった。もっと言いたいことがあった。でも——壊すために怒ったんじゃない。
「・・・あたし、見張りする」
ルセが立ち上がった。外套の裾を払う。
「寝な。・・・カルンのこと、考えてから寝な」
ルセが焚き火の向こうに移動した。丘の縁に腰を下ろす。フェズに背中を向ける。
怒りではなかった。
背中が語っていた。信じている、と。フェズが考えることを。変われることを。怒ったのは見捨てたからじゃない。見捨てないから怒ったのだ。
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フェズはカルンを胸に抱いた。
光がない。あの柔らかい、温かい輝きが。フェズの手の中で踊っていた、あの光が。もうどこにもなかった。
温もりだけがある。かすかに。消えそうなほどかすかに。でも——ある。まだ、ある。
「ごめん。カルン」
声が出た。涙は出なかった。でも体が震えていた。
力を貸してくれと言った。カルンは応えてくれた。応えたくて応えてくれた。でもそれは——カルンを壊すためじゃなかった。カルンだってそんなつもりじゃなかった。フェズが求めたから。フェズの役に立ちたかったから。
その「役に立ちたい」が、カルンを削った。
フェズの「守りたい」が、カルンを壊した。
似ている。
二人とも、相手のためだと思って——自分を差し出していた。フェズは体を。カルンは力を。互いに削り合って、互いに壊し合って。それを「絆」だと思っていた。
ルセの言葉が頭の中で鳴っている。
道具にしてるの分かってる?
分かっていなかった。分かっていたと思い込んでいた。カルンを大切にしている。カルンのために戦っている。カルンを守る——その言葉の裏側で何をしていたか、見ていなかった。
ヴェーノの言葉も聞こえてくる。あの子をそこまで使って。私と同じだ。あなたも、同じことをしている。
同じだった。
ヴェーノは精霊を失った。精霊を酷使して、壊して、失った。フェズは今——同じことをしている。同じ道を歩いている。カルンの手を握ったまま。
カルンが微かに身じろぎした。
フェズの胸の上で。ほんの少し。光はない。でも——体が動いた。フェズの指に触れるように。寄り添うように。
まだここにいる。
そう言っているのかもしれない。あるいは——怖い、と言っているのかもしれない。
フェズには分からなかった。カルンの気持ちが。共鳴のない今、カルンが何を感じているか、何を思っているか。光の揺れも旋律の色もない。ただ温もりだけがある。
その温もりが——こんなに頼りないものだと、知らなかった。
「俺は・・・お前に、何をしてたんだろう」
誰にも聞こえない声で呟いた。カルンにも聞こえていないかもしれない。
答えはなかった。カルンの光は返事を返さなかった。
星が冷たく瞬いている。焚き火が小さくなっていく。ルセの背中が丘の縁に見える。動かない。見張りをしている。フェズが寝るのを待っている。
考えてから寝な、とルセは言った。
考えている。考えている。でも答えが出ない。守りたかった。間違いなく守りたかった。カルンを——ヴェーノから。蛇の目から。世界中の敵から。
でも「守る」がいつの間にか「手放せない」に変わっていた。カルンを守る自分でいたかった。カルンに必要とされる自分でいたかった。それは——カルンのためだったのか。自分のためだったのか。
分からない。全部が混ざっている。カルンへの想いと、自分の空っぽさと。カルンがいなくなったら何も残らない。その恐怖が——「守る」を歪ませた。
目が閉じていく。体が限界だった。傷と疲労と、共鳴の代償が全部のしかかっている。意識が遠くなる。
手の中のカルンの温もりだけが、最後まで消えなかった。
謝って済むことではないと、分かっている。でも他に言葉がなかった。
——カルンの光は、返事を返さなかった。