眠れなかった。
当たり前だ。あの言葉が頭の中でずっと回っている。
この子を預かれ。
暖炉の火は落ちていて、部屋は冷えていた。窓から差し込む月明かりだけが、石の壁をぼんやりと照らしている。ラリサが用意してくれた毛布に包まって壁にもたれていたけれど、体は少しも温まらない。
膝の上にカルンがいた。俺の胸元に顔を押しつけて、丸くなっている。昨夜あんなに震えていたのに、今は静かだった。でも光が弱い。いつもの淡い輝きがほとんど消えかけていて、時折ちらちらと瞬くだけだ。
俺が不安だから、カルンも不安なんだ。
一晩中、考えていた。トルニオの言ったことは正しい。俺は弱い。精霊ハンター三人に何もできなかった。共鳴は一瞬で途切れた。ラリサが来なければ死んでいた。カルンも奪われていた。
それが現実だ。
でも、手放す? カルンをラリサに預けて、俺はリトルネッロに帰る? 何事もなかったみたいに、また誰にも必要とされない日々に戻る?
・・・無理だ。
理屈じゃなかった。カルンが俺を選んでくれた。あの崖の上で、精霊の方から共鳴を仕掛けてきた。名前が頭に流れ込んできた。あの瞬間を、なかったことにはできない。
でもそれは感情だ。トルニオが聞いているのは感情じゃない。
堂々巡りだった。何度考えても同じところに戻ってくる。手放したくない。でも根拠がない。守れなかった。でも手放したくない。
答えなんか出るわけがなかった。
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朝日が窓から差し込んで、目を細めた。
いつの間にか少しだけ眠っていたらしい。首が痛い。壁にもたれたまま寝落ちしていたみたいだ。右肩はラリサが昨夜のうちに手当てしてくれていて、布が巻かれている。動かすとまだ痛むけれど、昨日よりはましだった。
カルンが膝の上で身じろぎした。顔を上げて、俺を見る。光は相変わらず弱い。でも目が合って、小さく首を傾げた。大丈夫? と聞かれている気がした。
「・・・おはよう」
声がかすれた。一晩黙っていたせいだ。
扉が開いた。
「フェズさん、おはようございます! 朝ごはん持ってきました」
ラリサだった。木の盆に皿を載せて入ってくる。固そうなパンと、干し肉と、何かの煮物。湯気が立っている。
「・・・ありがとう」
「食べてくださいね。昨夜、何も食べてないでしょう?」
言われて気づいた。確かに昨日の夕食は喉を通らなかった。ラリサが出してくれたのに。
「・・・ごめん、昨日のも」
「いいですいいです。気にしないでください」
ラリサは明るく笑ったけれど、目が笑っていなかった。気まずそうに視線を逸らして、盆をテーブルに置く。
「あの・・・フェズさん」
「うん」
「師匠、怖いこと言いましたけど・・・悪い人じゃないんです。本当に」
「・・・分かってる」
分かっている。言ってることが正しいから怖いんだ。間違っていてくれたら、反論できるのに。
ラリサが何か言いかけて、やめた。代わりに小さく息を吐いて、椅子を引いた。
「師匠、もうすぐ来ると思います」
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足音が聞こえた。重くて、一定で、迷いのない足音。
トルニオが部屋に入ってきた。昨夜と同じ顔。表情は読めない。厳しいんじゃなくて、最初からそういう顔なのかもしれない。
食卓の椅子に腰を下ろした。俺の向かい側。ラリサは隅の椅子に座っている。間に入る気はないらしい。いや、入れないのか。
トルニオが俺を見た。
「昨夜の話だ。答えは決まったか」
静かな声だった。急かしてはいない。ただ聞いている。お前はどうするんだ、と。
カルンを手放すかどうか。
一晩考えた。答えは出なかった。根拠もない。論理もない。でも、一つだけ確かなことがあった。
「手放さない」
声が震えた。情けない。でも目は逸らさなかった。
トルニオの表情は変わらない。
「理由を聞こう」
来ると思った。手放さないと言うだけなら簡単だ。問題はその先だ。
言葉を探した。昨夜ずっと考えていたのに、いざ口にしようとすると何もまとまらない。弱いのは分かっている。守れなかったのも事実だ。でも。
「強くなる。この子を守れるぐらい、強くなってみせる」
トルニオは瞬きひとつしなかった。
「それは願望だ。根拠を聞いている」
一言で切り捨てられた。
根拠。そんなものはない。俺は弱い。昨日死にかけた。共鳴は一瞬で途切れた。精霊ハンター相手に枯れ木を倒すのが精一杯だった。何ひとつ、証明できるものがない。
口の中が乾いた。喉が詰まる。
ラリサが椅子の上で身じろぎした。何か言いたそうだ。でもトルニオの前では口を挟めないでいる。
「・・・根拠は、ない」
自分で言って、情けなくなった。
「ない。けど」
言葉が途切れる。何を言えばいい。願望じゃない根拠。弱い俺が強くなれる証拠。そんなもの、あるわけない。
でも。
「手放さない」
同じ言葉を繰り返した。それしか出てこなかった。
トルニオが黙った。俺を見据えている。長い沈黙。朝日が窓から差し込んで、テーブルの上に光の四角を作っている。埃が舞っているのが見えた。
「・・・ならば一つ聞く」
トルニオの声が少しだけ低くなった。
「巡祠の覇者を知っているか」
「・・・名前だけは」
祠巡り。大精霊の祠を巡って試練を受ける。それに挑む者を巡祠者《じゅんししゃ》、すべての祠で認められた者を巡祠の覇者と呼ぶ。リトルネッロ村にいても、それくらいは聞いたことがある。
「どこまで知っている」
「・・・全部の祠で大精霊に認められた人のこと、ぐらいしか」
トルニオが頷いた。説明するつもりらしい。テーブルに肘をつき、指を組んだ。
「この大陸に5つの大精霊の祠がある。巡祠者はそれぞれの祠で大精霊と戦い、認められれば祠印を受け取る。5つの祠印をすべて集めた者が、巡祠の覇者だ」
知っている。でも黙って聞いた。トルニオの口調は講義じゃない。事実を並べている。
「現在、大陸全土で覇者の称号を持つ者は十数人。中には数十年をかけて達成した者もいる。志半ばで命を落とした者の方が、遥かに多い」
十数人。数十年。死んだ者の方が多い。
トルニオが一瞬だけ目線を横に動かした。ラリサの方だ。
「そこにいるラリサもその一人だ」
え、と声が出た。
ラリサを見た。隅の椅子に座っていたラリサが、ばつが悪そうに小さく手を振った。
「・・・まあ、はい。一応」
一応? この子が? 昨日俺を助けてくれたラリサが、世界で十数人しかいない巡祠の覇者?
トルニオは構わず続けた。
「こいつは俺の元弟子で、5つの祠印をすべて持っている。覇者がどういう存在か、お前は昨日目にしたはずだ」
ラリサの戦闘を思い出した。嵐を纏って、精霊ハンター三人を一瞬で無力化した、あの圧倒的な力。あれが覇者の強さだったのか。
言葉の重さが、遅れてのしかかってきた。
「覇者の称号を持つ者に手を出す者はいない。5つの大精霊すべてに認められた人間を相手に勝てる想像がつく者はいない。仮に概念の精霊を奪えたとしても、覇者に追われる代償の方が遥かに大きい」
つまり、狙うだけ損だと言っている。強さそのものが盾になる。
「お前がその精霊を手放さないと言うなら、巡祠の覇者になれ」
トルニオの目が俺を射抜いた。
「それ以外に、あの精霊を守る方法はない」
息が止まった。
巡祠の覇者。世界で十数人。数十年。死んだ者の方が多い。それを、昨日精霊ハンター三人に殺されかけた俺に。
「今のお前では最初の祠にすら辿り着けない。それが現実だ」
現実。
その一言が、一番重かった。夢物語を語っているんじゃない。お前には無理だと言っている。無理だけど、それしか方法がないと言っている。
黙った。何も言えなかった。
テーブルの上の光の四角が少しだけ動いた。朝日が昇っている。時間が過ぎている。俺は何も言えないまま座っている。
カルンが膝の上で顔を上げた。俺を見ている。光が微かに揺れている。不安でも恐怖でもない。ただ俺を見ていた。
その目を見た。
「やる」
声が出た。自分でも驚くぐらい、はっきりと。
トルニオが眉を動かした。
「死ぬぞ」
「それでもやる」
「最初の祠にすら辿り着けないと、今言ったばかりだ」
「強くなる方法があるなら、やらない理由がない」
言ってから、自分の言葉に驚いた。理屈じゃなかった。根拠でもなかった。ただ、それだけだった。方法があるなら、やる。やらない理由がない。弱いから。弱いなら、強くなるしかない。強くなる道があるなら、それを行く。それ以外に何がある。
トルニオが一瞬、目を細めた。
何かを見定めるような目だった。俺の言葉を量っている。願望じゃない。根拠でもない。ただの執念。空っぽだからこそ失うものがない。怖気づく条件を、何も持っていないから受け入れられる。
長い沈黙。
トルニオが立ち上がった。椅子が石の床を擦る音がした。俺から目を離して、窓の外を見た。朝日がトルニオの横顔を照らしている。
「いいだろう」
背中越しの声だった。
「俺が鍛える」
心臓が跳ねた。え、と声が出かけた。
トルニオが振り向いた。
「ただし条件がある」
やはり、そう簡単にはいかない。
「お前が無理だと俺が判断した時点で、精霊は取り上げる。文句は言わせない」
重い言葉だった。鍛えてやる。でも甘くはしない。お前に期待しているわけじゃない。試すだけだ。ダメなら本当に取り上げる。
反論したかった。取り上げるなんて、と。でもトルニオの目を見て、分かった。これがこの人の筋の通し方だ。機会はくれる。でも情けはかけない。
拳を握った。爪が掌に食い込む。
「・・・分かった」
声が掠れた。悔しかった。条件付きだ。認められたんじゃない。試されるだけだ。でも、それでいい。試される機会すらないよりは、ずっといい。
ラリサがほっと息を吐いた。ずっと黙っていたのに、肩の力が一気に抜けたのが見えた。両手で膝を掴んでいたのを、ようやく離した。
「フェズさん」
ラリサが小さく笑った。さっきまでの気まずさが消えて、いつもの元気な顔に戻りかけている。
「よかった・・・です」
トルニオがラリサを見た。
「お前も手を貸せ。共鳴の指導はお前の方が向いている」
「はい!」
即答だった。嬉しそうに背筋を伸ばしている。
トルニオが再び俺を見た。
「今日から始める。覚悟しておけ」
「・・・はい」
トルニオが部屋を出て行った。足音が遠ざかる。重くて、一定で、迷いのない足音。
静かになった。
カルンが膝の上でもぞもぞ動いた。見ると、さっきより光が少しだけ明るくなっている。ほんの少しだけ。でも確かに。
「ラリサ」
「はい?」
「・・・ありがとう。昨日から」
ラリサが目を丸くして、それから笑った。
「お礼なら師匠に言ってください。泊めたのも、手当ての薬を出したのも師匠ですから」
「でも手当てしてくれたのはラリサだろ」
「・・・まあ、それはそうですけど」
ラリサが照れたように頬を掻いた。
「フェズさん、ご飯食べてくださいね。今日から師匠の訓練始まるなら、体力つけないと」
テーブルの上のパンと干し肉を見た。冷めているだろうけど、今なら食べられる気がした。
パンをちぎって口に入れた。固い。でも噛んでいると甘みが出てくる。干し肉は塩気が強くて、空っぽの胃に染みた。
カルンが俺の手からパンの欠片をじっと見ていた。精霊は食べないはずだけど、興味はあるらしい。
「食べる?」
小さな欠片を差し出すと、カルンが鼻先を近づけて、匂いを嗅いで、ぷいっと顔を背けた。
ラリサが吹き出した。
「あはは、精霊はご飯食べないですよ! でも匂い嗅ぐの可愛いですね」
カルンがびくっとして、また俺の胸に顔を埋めた。耳が赤い・・・のかどうかは光っていてよく分からないけれど、恥ずかしがっているのは伝わった。
巡祠の覇者。世界で十数人。数十年かけても届かないかもしれない。俺が無理だと判断されたら、カルンは取り上げられる。
それが現実だ。
でも今は、固いパンが美味しかった。
カルンが膝の上にいた。窓から朝日が差し込んでいた。ラリサが隣で笑っていた。
旅は、始まる前から期限付きだ。
でも、始まった。