朝日が昇った。カルンの光はまだ戻らない。
丘の裏手に朝の風が吹いた。乾いた灌木がかさかさと揺れる。空は薄い橙色で、雲の端が白く光っている。スコルダの廃砦がある方角からは何の物音もしなかった。追手は来ていない。
フェズは目を開けた。
体中が痛かった。脇腹の傷がずきずきと脈打っている。腕の斬り傷は乾いて皮膚が引きつり、動かすたびにぴりっと裂けそうになる。共鳴の反動で手足が痺れていて、指先の感覚がぼんやりしている。
手の中にカルンがいた。
光は——昨夜よりわずかに戻っている。呼吸のように弱く明滅する輝きが、かすかに。でも「回復した」とは言えなかった。目を閉じたまま、動かない。フェズの指の間に収まっている小さな体が、前より軽い気がした。
焚き火はとうに消えていた。灰が風に舞っている。その向こうに、ルセが座っていた。
フェズの方を見ていない。焚き火の跡の前で、両膝を抱えて座っている。外套のフードを被って、丘の向こうを見つめている。眠っていないのが分かった。一晩中、見張りをしていたのだ。
フェズが体を起こした。脇腹が軋む。息が漏れる。腕をつくと痺れた指が地面を掴み損ねて、体が傾いた。
「ルセ」
ルセが振り返らなかった。
「・・・昨日は、ごめん。作戦を——」
「作戦のことはいいよ」
平坦な声だった。怒りは消えていた。昨夜の激情の後に残ったのは、疲労と——何か重いものを飲み込んだ後のような、覚悟に似た色だった。
「結果的にカルンは戻ってきた」
ルセがゆっくり振り返った。目の下に隈がある。一晩眠っていない顔。でもフェズを見る目は、昨夜の怒りとは違うものを湛えていた。
「それよりカルン」
ルセの視線がフェズの手元に落ちた。
「・・・あの子、大丈夫なの?」
フェズがカルンを見た。弱い光。目を開けない。温もりはある。手のひらの上で、微かに。でも——
「分からない。こんなに弱ったのは——初めてだ」
声が掠れた。自分で言って、喉が詰まった。初めてだ。出会ってから今まで、カルンがこんなに動かなかったことは一度もない。怯えて身を縮めることはあった。疲れて光が弱まることもあった。でもこんなふうに——ほとんど消えかけたことは。
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ルセが立ち上がった。フェズのそばに来て、膝をついた。カルンを覗き込む。
「光がほとんどない」
ルセの声が低い。じっとカルンを見ている。消えかけた輝き。動かない小さな体。明滅する光が、呼吸なのか痙攣なのか、分からない。
「精霊って——こんなに弱ることあるの」
フェズは答えるのに時間がかかった。答えたくなかった。答えることが、現実を認めることだったから。
「ラリサが言ってた」
ラリサ。嵐の精霊を連れた姉弟子。精霊に関する知識はフェズの何倍もある。グラーヴェ市で修行していた頃、夜の焚き火の前で教えてくれた言葉が、今になって蘇る。
「精霊の核が傷つくと、光が消える。核が壊れたら——精霊は死ぬ」
自分で言って、血の気が引いた。
核を傷つけたのは——自分だ。
あの暴走的な共鳴。カルンの旋律が悲鳴に変わっても止めなかった。光が点滅しても搾り取った。守るためだと思っていた。カルンを取り返すために力が要ると思っていた。その結果が——これだ。
「死ぬって——」
ルセの顔色が変わった。怒りでも呆れでもなかった。恐怖だった。目が見開かれている。カルンを見ている。
「フェズ。それ——」
「大丈夫だ。まだ光がある。核が完全に壊れたわけじゃない」
口をついて出た。また「大丈夫」だ。昨夜、蓋が壊れたはずの、あの言葉。
「でも——このままだと」
続きが言えなかった。このままだと。このまま光が戻らなかったら。このまま弱り続けたら。カルンの核が少しずつ崩れていって——
ルセがフェズの顔を見た。言わなくても分かる、という目をしていた。
「どうすればいい。何ができる」
ルセの声は真っ直ぐだった。責めるでもなく、慰めるでもなく。ただ「次に何をするか」を聞いている。昨夜あれだけ怒って、泣きそうになって——それでもまだ「どうすればいい」と聞いてくれるルセの強さに、フェズは一瞬だけ目を伏せた。
「・・・共鳴しないこと。カルンに一切負担をかけないこと」
それだけは分かる。今のカルンに共鳴を求めたら、残っている核ごと砕ける。
「それでも——自然回復だけで足りるか、分からない」
ルセが黙った。フェズも黙った。
風が吹いた。灌木が揺れる。朝の光が丘の斜面を照らしている。廃砦の方角に鳥の影が過ぎった。静かだった。何もかもが静かで、その静けさの中にカルンの光が消えかけている。
答えがない。できることがない。
——いや。
フェズの頭の中で、何かが動いた。精霊の核の修復。自然回復では間に合わないなら。もっと大きな力。精霊の根源に触れるような力。
大精霊。
祠の試練を通じて大精霊と繋がることができれば。大精霊の力なら、精霊の核に触れられるかもしれない。カルンの傷ついた核を——
空の祠。
精神世界の試練だと、誰かが言っていた。体ではなく心を試す祠。精霊の本質に——魂の奥に触れる試練。
確信はなかった。大精霊がカルンの核を修復してくれる保証なんてどこにもない。試練を受ける資格があるかどうかも分からない。でも——
「空の祠に行く」
フェズの声が出た。掠れていたが、迷いはなかった。
ルセが目を丸くした。
「え?」
「空の大精霊なら——精神世界の試練だって聞いた。精霊の核に触れる力があるかもしれない。分からないけど——他に方法がない」
ルセが口を開いた。閉じた。もう一度開いた。
「・・・空の祠。ここからだと——」
「東だ。テッラ盆地を抜けて、ずっと東」
「遠いよ。フェズ、あんたその体で——」
「行くしかない」
フェズの目がカルンを見ていた。手の中の小さな体。消えかけた光。まだ温もりがある。まだ生きている。でもいつまで持つか分からない。
「何もしないで待ってたら、カルンは——」
言えなかった。言葉にしたくなかった。でもルセには伝わった。
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ルセが長い沈黙の後、息を吐いた。深く。腹の底から絞り出すように。
「分かった。空の祠に行こう」
フェズが顔を上げた。ルセは立ち上がっていた。外套の裾を払って、腰の剣の位置を直している。いつもの仕草だった。動く前に装備を確認する、ルセの癖。
「——でもフェズ。一つだけ約束して」
「何」
ルセの目がフェズを見た。昨夜の怒りとは違う。冷たくもない。ただ——譲らない目をしていた。
「着くまでカルンと共鳴しないこと。一度も。どんなことがあっても」
フェズの息が止まった。
共鳴しない。それは——カルンなしで旅をするということだ。精霊の探知がない。敵の気配を感じ取れない。戦闘になっても音の魔法は使えない。ヴェーノが追ってきたら。蛇の目の構成員に見つかったら。野盗に襲われたら。
ただの人間として。剣一本で。カルンの力なしで。
でも手の中のカルンを見る。
消えかけた光。これ以上削ったら——核が壊れる。カルンが消える。もう二度と光が戻らない。あの温かい輝きが、あの小さな旋律が、永遠に——
「・・・約束する」
今度は嘘ではなかった。嘘をつける状況ではなかった。昨夜の自分なら「分かってる」と言って、いざとなったら破っていたかもしれない。カルンのことになると止まれない。それを昨夜、思い知らされた。
でも——もうカルンが壊れるのを見たくなかった。
自分の手で壊すのを——二度とやりたくなかった。
ルセがフェズの目を見た。長い間。嘘を探すように。それとも——本気かどうかを確かめるように。
「・・・うん。信じる」
小さく言った。完全に信じてはいないかもしれない。でも信じようとしてくれている。それで十分だった。今は。
「じゃあ行こう」
ルセが手を差し出した。
フェズがその手を見た。傷だらけの、でもフェズより小さな手。昨夜、怒りに震えていた手。水筒を投げつけてきた手。でも——最初からずっと、フェズの側にあった手。
フェズがその手を取った。ルセが引っ張り上げる。体が軋む。脇腹が痛い。膝がぐらつく。でも立てた。立てた。
カルンをそっと外套の内側に入れた。胸元に。温かく。安全に。共鳴はしない。ただ抱えているだけ。それでもカルンの体がほんの少しだけ身じろぎした。温もりを感じたのか——フェズの心音を聞いているのか。
「ルセ」
「何」
「昨日言ったこと——全部、正しかった」
ルセが一瞬だけ目を見開いた。
それから——ふんと鼻を鳴らした。
「当然でしょ。あたしはいつも正しいんだから」
いつもの口調だった。少しだけ。昨夜の重さが完全に消えたわけではない。声の端に、まだ何かが残っている。でも——昨夜よりずっと良かった。ずっとましだった。
ルセが先に歩き出した。東に。空の祠がある方角に。フェズがその後を追う。体が重い。傷が痛い。一歩ごとに脇腹が軋んで、膝が笑う。共鳴の反動で手足が痺れたままだ。
でも歩ける。歩くしかない。
隣にルセがいる。手の中にカルンがいる。光はないけれど、温もりがある。
——変わらなければいけない。
ルセの言葉が頭の中で鳴っている。あの子を道具にしてるの分かってる? 分かっていなかった。分かっていたと思い込んでいた。守ると言いながら壊していた。カルンの悲鳴を聞きながら止められなかった。
このままでは二人とも死ぬ。
ルセが言わなかった言葉を、フェズは自分で聞いていた。ルセはそこまでは言わなかった。でも意味は同じだ。このままでは——カルンが消える。フェズも壊れる。共鳴のない体でヴェーノと戦えるわけがない。蛇の目から逃げ切れるわけがない。
でもだから変わる、では足りない。
ヴェーノの言葉が蘇る。あなたも同じことをしている。あの子に頼りすぎている。いつか壊す。
壊した。ヴェーノの予言通りに。
フェズは歩いた。丘陵地帯の乾いた道を東に向かって。足元の砂利がじゃりじゃりと鳴る。朝の風が外套を揺らす。胸元のカルンの温もりが、歩くたびに微かに揺れる。
答えは空の祠にあるかもしれない。ないかもしれない。
大精霊がカルンの核を治してくれる保証はない。精神世界の試練がフェズに何を突きつけるかも分からない。もしかしたら、フェズの中にある醜いものを——カルンへの執着を、共依存を、「守る」に縋る空っぽさを、全部暴かれるのかもしれない。
それでも行く。
カルンのために。——いや、それも正確ではない。カルンのためだけではない。自分のためでもある。このままの自分では、カルンの隣にいる資格がない。守ると言う資格がない。
「守る」の意味を、もう一度考えなければならない。
ルセが少し先を歩いている。肩のピカが小さく光っている。時々振り返る。フェズの歩みが遅いから。でも急かさない。歩幅を合わせて、少しだけペースを落としてくれている。
気づいているのかいないのか。ルセはそういうところがある。口では生意気なことを言うくせに、気づかれないように手を差し伸べる。それをフェズは——何度も見てきた。何度も助けられてきた。
「ルセ」
「何。さっきから名前呼びすぎ」
「・・・ありがとう」
ルセが肩越しに振り返った。怪訝な顔をしている。
「何が」
「全部」
ルセが顔を背けた。耳が赤い。
「・・・馬鹿。全部って何よ、具体的に言いなさいよ」
具体的に言えなかった。全部だった。追跡を手伝ってくれたことも、作戦を立ててくれたことも、怒ってくれたことも、見張りをしてくれたことも、今こうして一緒に歩いてくれていることも。
全部。
ルセが前を向いた。何か小さく呟いた。聞こえなかった。聞こえなくてもいい。
二人は歩いた。東に向かって。空の祠に向かって。
フェズの歩みは遅い。体が痛い。でも隣にルセがいて、胸の中にカルンがいる。
カルンの光が戻る日まで、フェズは音のない世界を歩く。共鳴のない。旋律のない。カルンの歌が聞こえない、静かな世界を。
今度は、自分の足で。