旅を始めて三日目。世界がこんなに静かだったことを、フェズは知らなかった。
テッラ盆地の東端を歩いている。足元の赤い土が、いつのまにか灰色の礫に変わっていた。砂利を踏む音がじゃり、じゃりと鳴る。それだけだ。風が吹いている。灌木が揺れている。でもそこに旋律はない。精霊の気配が音として立ち上がることもない。ただの風。ただの砂利。ただの足音。
東にアリア山脈の稜線が見え始めていた。青灰色の山々が、乾いた空の下に連なっている。あそこに空の祠がある。精神世界の試練。
外套の内側に手を入れた。胸元にカルンがいる。
眠っている。三日間、ずっと。光はごく微かに明滅していた。息をするように——いや、息かどうかも分からない。弱い輝きが点いて、消えて、また点く。消えかけた蝋燭の炎に似ていた。
生きている。でも目を開けない。
フェズは無意識にカルンに触れた。指先が小さな体に触れる。共鳴ではない。ただ触れるだけ。温もりを確かめるだけ。カルンの体は温かかった。微かに。頼りなく。でも確かに温かかった。
——カルンと共鳴していた頃は、世界が違った。
風の中に旋律が聞こえた。岩の下の水脈が低い音で唸っているのが分かった。遠くの精霊の気配が、高い音で空気を震わせていた。世界は音で溢れていて、フェズはその音の中を泳ぐように歩いていた。
今は何もない。風は風だ。岩は岩だ。砂利は砂利でしかない。世界から楽譜が消えて、ただの景色だけが残っている。
前を歩いているルセが、振り返った。肩のピカが朝の光を受けて淡く輝いている。
「フェズ。遅い」
「・・・ああ。すまない」
「謝んないで。足動かして」
ルセの声は平坦だった。怒ってはいない。急かしてもいない。ただ事実を言っている。フェズが遅い。だから言った。それだけだ。
三日前の出発の時より、ルセとの間にある空気は少しだけ柔らかくなっていた。あの夜の怒りは消えていない。完全には。でもあの剥き出しの激情は収まって、代わりに——ぎこちないが日常の会話ができる程度には、戻っていた。
フェズは足を速めた。灰色の礫が靴の下で崩れる。
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道が山地に入った。
赤い土が完全に消えて、灰色の岩場に変わる。灌木から低木林へ。地面に苔が増え始める。傾斜がゆるやかに始まっていた。アリア山脈の西麓だ。
フェズが岩場で足を滑らせた。右足が苔の上を滑って、体が傾ぐ。咄嗟に左手をついた。岩の角が掌を擦る。痛い。
共鳴の探知があれば——地面の状態が音で分かった。苔の湿り具合、岩の安定度、一歩先の傾斜。全部が旋律として聞こえていた。探知の音が「ここは危ない」と教えてくれた。
今はない。目で見て、足裏で感じるしかない。
ルセが手を差し出した。
「足元見なよ。ぼーっとしてると落ちるよ」
「・・・ああ。すまない」
「だから謝んないでって。見て歩けばいいだけでしょ」
フェズはルセの手を取って立ち上がった。掌に小石が食い込んだ跡がついている。痛みが残っている。現実の痛みだ。共鳴の向こう側にある、ぼやけた感覚ではない。
意識して足元を見た。
岩の色。灰色の中にも濃淡がある。苔がついている場所は暗い。水分を含んでいる。滑る。乾いた岩は白っぽい。そっちを踏む。傾斜がきつい場所は、岩の角を靴の縁に引っかけて体重を支える。
——知っていたはずだ。
トルニオに叩き込まれた基本。あの修行の日々。グラーヴェ市の近郊で、何度も同じ岩場を登らされた。「自分の体で感じろ」とトルニオは言った。「目で見ろ。耳で聞け。足裏で読め。お前の体が最初の道具だ」
いつからそれを忘れたのだろう。
カルンと共鳴するようになってから——世界が音で溢れてからだ。探知が全部教えてくれた。地面の状態も、風向きも、敵の気配も。自分の感覚を使う必要がなくなった。便利だった。楽だった。そして——いつのまにか、自分の目と耳と足裏を信じることをやめていた。
フェズは一歩ずつ、岩場を登った。
遅い。ルセの半分の速度もない。ルセは身軽に岩を跳んでいく。振り返って、フェズを待つ。何も言わない。ただ待っている。
「ルセ」
「何」
「先に行ってくれていい。俺が遅いから——」
「馬鹿言わないで。一人で行ってどうすんの。あんたが転んで動けなくなったら誰が助けるの」
フェズは口を閉じた。反論できなかった。
ルセが腰に手を当てて、フェズを見下ろしている。少し高い位置の岩の上から。逆光で表情が見えにくい。でも声の調子で分かった。呆れているが、怒ってはいない。
「いい? フェズ。あんたは今、ただの人間なの。カルンがいなくて、共鳴もできなくて、探知もなくて。ただの剣士。それを分かった上で歩きなさい」
「・・・分かってる」
「分かってるなら、できないことを恥ずかしがらないで。遅いのは遅いでいいの。遅いなりに歩けばいいの」
ルセはそう言って、また前を向いた。歩き出す。フェズより少しだけ速い歩幅で。でもさっきよりは遅い。合わせてくれている。
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夜になった。
低木林の中の、少し開けた場所で野営を張った。焚き火を起こすのに手間取った。共鳴があった頃は、カルンの探知で乾いた枝の場所がすぐ分かった。今は手探りだ。薄暗い林の中を歩き回って、折れた枝を集める。湿ったものを掴んでしまう。やり直す。
ルセが黙って火打ち石を貸してくれた。フェズの火打ちは脇腹の傷に響いて上手く打てなかった。
焚き火が燃え始めた。ぱちぱちと音がする。小さな火が枝を舐めて、橙色の光が二人の顔を照らす。
フェズは焚き火の向かい側に座って、カルンを膝の上に乗せた。外套の内側から、そっと出す。
カルンの光が焚き火の光に負けている。ほとんど見えない。目を閉じたまま、フェズの膝の上で動かない。
ルセが火の向こうからカルンを見ている。
「あと何日くらい? 空の祠まで」
「アリア山脈の中腹だと聞いた。ここからなら・・・四、五日か」
「カルンは——持つの? それまで」
フェズがカルンを見た。
光が弱い。でも消えてはいない。三日前よりも——微かに安定している気がした。明滅のリズムが、少しだけ穏やかになっている。あの出発の朝に見た、痙攣のような点滅とは違う。呼吸に似た、ゆるやかな波。
共鳴を止めたことで、消耗が止まったのかもしれない。カルンの核に負荷をかけなくなったことで、これ以上の悪化だけは——止まった。
「・・・分からない。でも、共鳴しない限りはこれ以上悪くならないはずだ」
「そう」
短い返事だった。でも声に少し安堵が混じっているのを、フェズは聞き取った。ルセもカルンのことを心配してくれている。口には出さないが。
沈黙が降りた。焚き火がぱちぱちと鳴る。風が低木を揺らす。葉擦れの音が、夜の空気に溶けていく。
静かだった。
共鳴していた頃の夜は違った。焚き火の中に火の精霊の残滓が歌っていた。風の中に夜行性の精霊が囁いていた。森全体が一つの楽団のように鳴っていた。フェズはその音の中で眠りについた。守られているような気がした。
今は——ただの夜だ。焚き火の音。風の音。虫の声。ルセの呼吸。それだけ。
でも。
「ねえ、フェズ」
「何」
ルセが焚き火の向こうで、膝を抱えている。炎の光がルセの顔を照らして、影を揺らしている。
「あんた、カルンがいなくてもちゃんと歩けてるじゃん」
フェズが顔を上げた。
「遅いけど」
褒めているのか馬鹿にしているのか分からなかった。ルセの口調はいつも通りで、表情は焚き火の影に半分隠れている。
でも——ルセなりの励ましだと、フェズには分かった。
カルンがいなくても歩けている。遅いけど。転ぶけど。探知がなくて不便だけど。それでも三日間、倒れずに歩いてきた。
「・・・ルセが一緒だから」
「は? あたしは何もしてないけど」
「してる。道を見てくれてる。火を起こしてくれた。歩幅を合わせてくれてる」
ルセが黙った。火を見ている。耳が赤い。焚き火のせいか、それとも——
「・・・あんたね、恥ずかしいこと言わないでよ。当たり前のことでしょ」
「当たり前じゃない」
「当たり前なの。仲間でしょ。仲間が助け合うの、当たり前でしょ」
フェズは何か言おうとして、やめた。ルセの「当たり前」は、フェズにとっては当たり前ではなかった。でもそれを言うと話が長くなる。今はいい。ルセが「当たり前」だと言ってくれることが、ただ嬉しかった。
「・・・うん。ありがとう」
「だからお礼もいいって。——寝なよ。明日も歩くんでしょ」
ルセがそう言って、自分の毛布にくるまった。背中を向ける。会話の終わりの合図だ。
フェズは焚き火を見つめた。膝の上のカルンに目を落とす。微かな光。閉じた目。動かない小さな体。でも——温かい。フェズの膝の上で、ほんの少しだけ温かい。
「カルン」
小さく呼んだ。返事はない。共鳴ではない。ただの声。
「・・・明日も歩くよ。もう少しで山に入る」
返事がないと分かっている。でも声をかけずにはいられなかった。カルンが聞こえているか分からない。でも——温もりは伝わっているかもしれない。声の温度くらいは。
カルンの光が、一瞬だけ揺れた。
——気のせいかもしれない。焚き火の光が反射しただけかもしれない。でもフェズは、聞こえていると思うことにした。
カルンをそっと外套の内側に戻した。胸元に。温もりが近い。心臓の音が聞こえる場所に。
静かな夜だった。音楽のない夜だった。精霊の歌が聞こえない、初めての夜ではなくなった三日目の夜。
でも焚き火の音がある。ぱちぱちと、小さく弾ける音。風が低木を揺らす、かさかさという音。向こう側でルセが寝返りを打つ、衣擦れの音。そして胸元の、カルンの微かな温もり。
世界は音楽がなくても、完全に無音ではなかった。
フェズは目を閉じた。明日も歩く。自分の足で。自分の目で道を見て。自分の耳で風を聞いて。
——遅くても、歩ける。