歌姫と共に   作:ぶるうず

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山路

アリア山脈に入った。空気が変わった。薄くなったのではない——静かになった。

 

山道を登り始めて二日目の朝だった。針葉樹の森を抜けて、岩場が増え始めている。足元の土が灰色の礫から剥き出しの岩に変わった。靴底が岩を踏む感触が硬い。

 

フェズは足を止めて、耳を澄ませた。

風が吹いている。木々の枝が揺れている。それは目で見れば分かる。でも——音が、遠い。風の音がすぐ隣にあるはずなのに、壁一枚隔てたように遠い。自分の足音も薄い。岩を踏んだ硬い音が、立ち上がる前に空気に吸い込まれていく。

「ルセ」

声を出した。自分の声が、喉から出た瞬間に萎んだ。

 

前を歩いていたルセが振り返った。

「・・・声が通らない。何これ」

ルセの声も近いのに遠い。三歩先にいるのに、十歩先から話しかけられているように聞こえる。

「空の精霊の領域だと思う。標高が上がるにつれて・・・音が薄くなっていく」

「音が薄くなるって、そんなこと」

ルセが手を叩いた。ぱん、と鳴るはずの音が、ぱ、くらいで消えた。ルセが目を丸くする。

「・・・本当だ。吸い込まれてる」

 

空の精霊の領域。空は虚空——音を含む全てのものを薄めていく。空の精霊が多く棲む山域では、音の伝播が弱まる。テッラ盆地の東端でフェズが聞いた話の通りだった。

フェズにとって、これは二重の喪失だった。カルンの旋律がない。その上、世界の音までが消えていく。共鳴を止めてから五日。ようやく「ただの音」に慣れ始めていたのに、その「ただの音」すら奪われていく。

 

外套の内側で、カルンが微かに身じろぎした。

フェズは足を止めた。胸元に手を当てる。カルンの光が一瞬だけ揺れた。弱い。弱いが——反応している。眠り続けていたカルンが、空の精霊の気配を感じて身じろぎした。

「カルン。・・・大丈夫か」

返事はない。光が揺れただけ。でもそれは、三日前まではなかった反応だった。

 

ルセがフェズの様子を見ていた。

「カルン、動いた?」

「・・・少しだけ。空の精霊を感じてるのかもしれない」

「ふうん。精霊って、同類の気配は分かるもんなの?」

「たぶん。カルンが元気な時は、近くに他の精霊がいると光の色が変わってた」

ルセの肩でピカも落ち着きなく明滅していた。空の精霊の気配を感じているのかもしれない。

「へえ」

ルセはそれだけ言って、また前を向いた。歩き出す。フェズもついていく。

 

岩場が続いた。針葉樹の森はもう下の方にある。見上げると、灰色の岩肌が空に向かって連なっている。道らしい道はない。巡祠者が踏み固めた跡が、岩の間を縫うように続いているだけだ。

音が、さらに薄くなっていく。風の音がほとんど聞こえない。自分の呼吸が妙に近く感じるのは、他の音が消えているからだ。

 

---

 

山道の狭い場所だった。左手が岩壁、右手が急斜面。二人がようやく並んで歩けるくらいの幅しかない。

 

前方に人影が見えた。

二人組。岩壁に背を預けるようにして立っている。旅装ではない。革鎧に短剣。山賊の身なりだ。

フェズとルセが足を止めた。

 

「金と装備を置いていけ。怪我したくないだろう」

男の声が、音の減衰のせいでくぐもって聞こえた。それでも言葉の意味は分かった。山賊だ。巡祠者を狙う類の。

もう一人が腰の短剣に手をかけている。大した装備ではない。鍛えた体つきでもない。だが——場所が悪い。狭い山道、背後は崖。逃げ場がない。

 

ルセが剣の柄に手を伸ばした。

「フェズ」

「・・・ああ」

フェズも剣を抜いた。共鳴なし。探知なし。相手の力量を音で測ることもできない。目で見るしかない。

 

男たちが動いた。

近い方の男がフェズに向かってきた。短剣を横薙ぎに振る。狭い道では大振りの剣より短剣の方が小回りが利く。フェズは半歩下がって剣を立てた。短剣の刃が剣身に当たる。金属音が——鳴るはずが、やけに小さい。空の精霊の領域が音を吸い込んでいる。

 

遅い。自分の反応が遅い。共鳴があれば、相手の動きが音で読めた。筋肉の緊張が低い振動として伝わり、踏み込みの方向が足音で分かった。今は——目で見て、判断して、体を動かすしかない。その一つ一つに時間がかかる。

 

男が踏み込んできた。フェズは体を捌いた。岩壁を背にする。壁があれば、背後を取られない。

 

——位置取りだ。

 

トルニオの声が頭に響いた。あの修行で、何度も何度も叩き込まれた言葉。

「剣術の基本は力ではなく位置取りだ」

 

男が短剣を突いてくる。フェズは体を横にずらして避けた。狭い道が、今度はこちらに有利に働く。相手も大きく動けない。岩壁を利用して、男の動きを制限する。

左に岩壁。右に自分の剣。男の退路を塞ぐ。

男が焦った。もう一度短剣を振る。今度は大振りだ。フェズは剣で受けた。衝撃が腕に伝わる。重い。腕力で押し返す力はない。

だから——受け流した。剣を斜めにして、短剣の力を横に逃がす。男の体勢が崩れる。重心が前に出る。

フェズが剣の柄頭で男の手首を叩いた。短剣が手から離れて岩の上に落ちる。音がしない。正確には——すぐに消えた。

 

男が後ずさる。武器を失って、目が泳いでいる。

視界の端で、ルセがもう一人を制圧しているのが見えた。速い。ルセの動きは無駄がない。短剣を弾き、脚を払い、相手が転んだところで剣先を突きつけている。あっという間だ。

フェズの相手の男が、仲間の様子を見て顔色を変えた。

 

「——っ、退くぞ!」

二人組が崖側の細い道を走って逃げていく。大した相手ではなかった。

 

フェズは剣を鞘に収めた。手が震えている。汗が額を伝って、顎から落ちた。息が上がっている。

大した相手ではなかった。共鳴があれば一瞬で片付く程度の、ただの山賊だった。それに——ここまで苦労した。

 

ルセが剣を収めて、フェズの方を見た。

「・・・やれるじゃん」

少し驚いた顔をしていた。フェズが共鳴なしで戦い切ったことに、本当に驚いているらしい。

「かろうじて」

「かろうじてでも、やれたでしょ。カルンなしで」

 

フェズは手の震えを見た。汗だくの掌。力なく握られた剣の柄の跡が掌に残っている。

「・・・トルニオの教えが体に残ってた。位置取りと受け流しだけで、なんとか」

「それ、自分の力でしょ」

ルセがそう言って、先に歩き出した。当たり前のように。「ほら、行くよ。日が暮れる前にもう少し登っておきたい」

 

フェズは一つ息を吐いて、ルセの後を追った。

 

---

 

夕方になった。

 

山の中腹に、平らな岩場が広がっている場所を見つけた。野営にちょうどいい。岩壁が風を遮ってくれる。もっとも、風の音はほとんど聞こえないのだが。

焚き火を起こした。枝を折る音が小さい。火がつく音も小さい。全てが綿を詰めたように吸い込まれていく。焚き火の炎は見えるが、ぱちぱちという音がやけに遠い。目の前で燃えているのに、隣の部屋から聞こえてくるようだ。

空気が薄い。呼吸が少し浅くなる。山の中腹まで来た。明日か明後日には、沈黙の峰——空の祠の場所に着くはずだ。

 

フェズはカルンを外套の内側から出した。手のひらに乗せる。

光が——ほんの少しだけ、三日前より強くなっている。

フェズは息を呑んだ。見間違いかと思って目を凝らした。カルンの光。明滅のリズム。ゆるやかで、穏やかで。テッラ盆地を出た時より、確かに安定している。明るさも、ほんの少しだけ増している。

 

回復が始まっているのかもしれない。

共鳴を止めたことで消耗が止まり、カルンの核が自然に回復し始めている。まだ微かだ。まだ弱い。でも——方向が、正しい方に向いている。

 

「カルン。・・・聞こえてるか」

カルンが微かに光を揺らした。聞こえている。でも応える力がない。光が揺れただけ。言葉にならない、小さな反応。

 

フェズは静かにカルンに話しかけた。共鳴ではなく、ただの声で。

「明日か明後日には祠に着く。大精霊がお前の核を治してくれるか分からない。でも——行くしかない」

カルンの光が一瞬だけ強くなった。

フェズの声に応えるように。言葉は分からなくても、声の温度は伝わるのだろう。そう信じたかった。

 

「・・・俺は今日、共鳴なしで戦った。山賊だったけど。遅かったし、下手だったけど・・・勝てた。トルニオに教わったことが、まだ体に残ってた」

カルンに話しかけている。返事がないと分かっていて。でも声を出すことが、今のフェズにできる唯一のことだった。共鳴はできない。旋律は届かない。ただの声。ただの言葉。それでも——何かは伝わると、信じている。

「だから・・・大丈夫だ。俺は歩ける。お前を連れていける」

カルンの光が、もう一度揺れた。今度は少しだけ長く。温もりが微かに増した気がした。

 

ルセが毛布にくるまりながら、焚き火の向こうで目を閉じている。眠ったふりをしているのか、本当に眠いのか分からない。でも——フェズがカルンに話しかけているのを、邪魔しなかった。静かに、そこにいた。

 

焚き火の炎が揺れている。音は小さい。空の精霊の領域が、炎の音すら吸い込んでいる。でも光は見える。橙色の光が岩壁を照らし、三人の影を揺らしている。

 

山を登るほど音が消えていく。明日はもっと静かになるだろう。明後日にはもっと。

世界で一番静かな場所に向かっている。世界で一番沈黙した精霊を連れて。

 

——皮肉だな、とフェズは思った。

 

カルンをそっと外套の内側に戻した。胸元に。心臓の音が聞こえる場所に。この音だけは、空の精霊にも消せないだろう。

 

フェズは目を閉じた。明日も登る。もう少しで、祠に着く。

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