歌姫と共に   作:ぶるうず

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祠の入口

山頂の手前に、何もなかった。

 

稜線が平らに広がっている。岩と苔と空。それだけ。建物がない。石段もない。洞窟の入口も、岩の円環もない。

水の祠には水に半分沈んだ石造りの構造があった。風の祠には暴風のカーテンに覆われた断崖の裂け目があった。地の祠には赤い巨石が環状に並んでいた。ここには——何もない。

風が吹いている。はずだった。外套の裾がわずかに揺れている。でも音はしない。完全に。足音がしない。自分の呼吸すら、意識して耳を澄まさないと聞こえない。

 

「ここ・・・? 何もないけど」

ルセの声がすぐ隣から聞こえた。すぐ隣なのに、遠い。山を登るにつれ音が薄くなっていったが、ここではもう、声が空気に溶けるように消えていく。

 

フェズは膝をついて、地面に手を触れた。

岩の感触。冷たい。指先に伝わるのは岩の温度だけ——のはずだった。

微かに、何かがある。振動ではない。音でもない。存在感。大きな何かがこの場所全体に浸透している。岩の中に、苔の中に、空気の中に。静かに、どこまでも広がっている。

 

胸元でカルンが光を揺らした。

強い反応だった。テッラ盆地を出てから、こんなに強く光ったのは初めてだ。昨日、空の精霊の気配に身じろぎした時とは比べものにならない。カルンが何かを感じている。大精霊を、感じている。

「カルン・・・分かるか」

カルンの光がもう一度揺れた。弱いが、はっきりとした反応。肯定するように。

 

フェズは立ち上がった。

「ルセ。ここだ。空の祠は——この場所全体が祠だ」

「場所全体って・・・」

ルセが周囲を見回した。岩と苔と空。何もない稜線。風のない空。

「何もないのが、祠ってこと?」

「・・・たぶん。空は虚空だから。何も持たない場所が、空の大精霊の領域なんだと思う」

ルセが口を開きかけて、閉じた。それから首を振った。

「理屈は分かんないけど、カルンが反応してるなら、ここなんでしょ」

 

---

 

稜線の縁に座った。二人並んで、山の下を見る。

テッラ盆地が遠くに広がっている。赤い土が夕日に照らされて、余計に赤い。あの盆地を横切って、この山を登ってきた。長い道だった。

足の下に雲がある。標高が高い。空気が薄い。でもそれ以上に、音がないことが不思議な圧迫感を作っている。世界から何かが抜け落ちたような、奇妙な軽さ。

 

「精神世界の試練、って言ってたよね。どういう試練か分かるの?」

ルセが膝を抱えたまま言った。風がないのに髪が揺れている。空気の流れはあるのに、音だけがない。

「分からない。ただ——心を試すらしい」

「心って。漠然としすぎでしょ」

「・・・ああ。でもたぶん、楽な試練じゃない」

水の祠は水に覆われた空間での戦闘だった。風の祠は速さと判断力の試練だった。地の祠は大精霊の圧倒的な防御を崩す戦いだった。全て、体で挑む試練だった。

ここは違う。精神世界。心の奥を映し出す。戦いではなく——直視。

 

「フェズ。あんたさ——何が怖い?」

ルセの声が、静寂の中に落ちた。

「・・・」

「精神世界でしょ? あんたの中身が見られるわけでしょ? 何が一番怖い?」

 

フェズは黙った。

答えは分かっている。テッラ盆地を歩いている時から、ずっと頭の中にあった。山を登りながらも、野盗と戦いながらも、カルンに話しかけながらも。ずっと、喉の奥に引っかかっていた。

分かっている。分かっているから——言いたくない。

 

「・・・空っぽなこと」

声が出た。自分でも驚くくらい、あっさりと。

「え?」

「俺の中身が——空っぽなこと。カルンを守る以外に、何もないこと。それが見えるのが怖い」

 

ルセが黙った。足をぶらぶらさせるのを止めた。崖の下の雲が、音もなく流れていく。

 

フェズは自分の手を見た。昼間、野盗を退けた手。トルニオに教わった位置取りと受け流しで戦い切った手。共鳴なしの、ただの手。

「カルンがいなかったら、俺は何だ。剣は振れる。トルニオの教えは体に残ってる。でもそれだけだ。カルンを守るために強くなった。カルンを守るために祠を巡ってる。全部——カルンが理由だ」

「・・・」

「精神世界で、それが見えるんだろ。俺の中にカルン以外、何もないってことが。空っぽの——ただの器だってことが」

 

ルセが何か言おうとした。口を開いて、閉じた。もう一度開いた。

「空っぽなら、空っぽって分かればいいじゃん」

フェズが顔を上げた。

ルセはまっすぐ前を見ていた。テッラ盆地の赤い地平線を見ている。

「空っぽだって分かったら、埋め方は後から考えればいい。何が入ってないか分からないまま走るより、中身見て、足りないもの確認して、それから集めた方が早いでしょ」

 

乱暴だった。ルセらしい。でも——

フェズは少し笑った。口の端が持ち上がった。

「・・・ルセ。それ、全然慰めになってないぞ」

「慰めてないもん。事実を言ってるの」

ルセが鼻を鳴らした。「怖いのは分かったけど、怖いからってやめるわけにいかないんでしょ。だったら怖がってる暇ないじゃん」

 

正解ではない。フェズの恐怖を消す言葉ではない。でも——心が少しだけ軽くなった。空っぽであることを、ルセは否定しなかった。否定せずに、「それなら次どうするか考えろ」と言った。乱暴で、即物的で、ルセらしい。

「・・・ありがとう」

「お礼言うとこじゃないでしょ、これ」

ルセが呆れた顔をした。フェズはもう一度笑った。今度はちゃんと笑えた気がした。

 

---

 

夜になった。

 

空に星が散っている。明瞭に、くっきりと。空気が薄いせいか、星がやけに近い。手を伸ばせば触れそうなほど。

風の音はしない。虫の声もない。焚き火すら音がほとんどない。炎は見える。橙色の光が岩と苔を照らしている。でも音がない。世界で一番静かな夜だった。

 

フェズはカルンを手のひらに乗せた。

弱い光。でも三日前より確かに安定している。明滅のリズムが穏やかだ。消えかけていた頃の、不安定な点滅ではない。

 

「明日、試練に入る。一人で」

ルセが焚き火の向こうから顔を上げた。

「分かってる。巡祠の試練は一人でって、あんたが決めたんでしょ」

少し不満そうだった。口が尖っている。

「・・・うん。でも、カルンは連れていく。大精霊に核を治してもらうためだから」

「当たり前でしょ。カルン置いてくとか言ったら殴ってたわ」

 

フェズは手のひらのカルンを見た。光が揺れている。フェズの声を聞いている。言葉は分からなくても、声は届いているのだと、昨日の夜に分かった。

 

「ルセ。もし俺が戻ってこなかったら——」

「は? 何言ってんの」

ルセが身を乗り出した。焚き火の光が顔を照らす。怒っている。

「戻ってきなさいよ。精神世界に入って出てこないとか、冗談でも言わないで」

「・・・うん。戻ってくる」

「約束ね。破ったらぶん殴るから」

 

フェズは頷いた。約束。あの時も約束した。カルンを取り返すと。そして暴走して、カルンを壊しかけて、ルセに心配をかけた。約束は守れた。でも守り方が間違っていた。

今度こそ。

「・・・破らない」

「当然」

 

ルセが腕を組んだ。それから——少しだけ表情を緩めた。怒りが引いて、その下にある心配が見えた。

「それと——カルンにちゃんと向き合いなよ。逃げないで」

 

フェズの胸が痛んだ。

ルセは分かっている。精神世界の試練で、フェズが何と向き合わなければならないか。空っぽの自分と——カルンとの関係。守ると言いながら壊してきた、歪んだ関係。

「あんた、さっき空っぽだって言ったじゃん。空っぽの中身見るのが怖いって。でも——カルンはあんたの中にいるんでしょ。空っぽだったとしても、カルンはそこにいる。だったらちゃんと向き合いなよ。カルンがあんたに何を思ってるか、聞きなよ」

 

フェズは手のひらのカルンを見た。弱い光。温もり。微かに揺れている。

ルセの言葉が胸に刺さっている。「あの子を道具にしてるの分かってる?」——テッラ盆地で言われた言葉が、まだ消えていない。あの言葉の続きが、今ここにある。向き合え。逃げるな。

 

「・・・分かった」

「ほんとに?」

「・・・分かった、って言った」

「言っただけじゃなくて、やりなよ」

フェズは苦笑した。ルセは容赦がない。でもそれが——今は、ありがたかった。

 

カルンの光が揺れた。フェズの手の上で、小さく、温かく。フェズとルセの会話を聞いているのだろう。言葉は分からなくても、声の調子で何かは伝わっているはずだ。

「カルン」

フェズはカルンに小さく声をかけた。

「明日——一緒に行こう」

カルンの光が、一瞬だけ強くなった。

 

ルセがそれを見て、少しだけ笑った。「行けるといいね」とは言わなかった。ルセらしかった。

 

焚き火の炎が揺れている。音はない。星が降るように光っている。音はない。世界から音が消えた夜に、三人がいる。

フェズはカルンをそっと胸元に戻した。心臓の音が聞こえる場所に。明日、この心臓の音だけを連れて、自分の中に入る。

 

空っぽの自分と、声のないカルンと。

 

——逃げ場はない。

 

フェズは目を閉じた。星だけが光る無音の夜が、静かに更けていく。明日が来る。逃げられない明日が、もうすぐそこに。

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