歌姫と共に   作:ぶるうず

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精神世界

目を閉じて、開けた時——世界が変わっていた。

 

ルセがいない。山がない。岩も苔も空も、あの無音の稜線も。全部消えている。

あるのは白い霧と、自分の足音だけ。

 

フェズは目を瞬いた。朝日の中で目を閉じたはずだった。カルンを胸に抱いて、祠の中央——何もない稜線の真ん中に立って、意識を沈めた。落ちていく感覚があった。体が消えていく感覚。地面が溶けて、自分がどこかに吸い込まれていくような。

そして目を開けたら——ここだ。

 

白い。

地面はある。足の裏に硬い感触がある。でも見下ろしても白い。境界がない。空も壁もない。方角がない。右も左も上も下も、全部同じ白。歩いてみた。足音が響く。自分の足音だけが、どこまでも白い空間に落ちていく。

 

「ルセ」

声を出した。返事はない。声が白い霧に吸い込まれて、消えた。

「・・・ルセ!」

返事はない。当たり前だ。試練は一人で挑むと決めた。ルセは稜線の端で待っている。ここにいるのは自分だけだ。

 

胸元に手を当てた。カルンがいる。外套の内側に、小さな体が収まっている。いる。いるのに——光がない。

外の世界でも弱かった。テッラ盆地を出てから、カルンの光はずっと弱かった。でもここでは更に弱い。光がほとんど見えない。手のひらに乗せてみた。温もりはある。生きている。でも光が——消えかけている。

「カルン・・・」

カルンが微かに身じろぎした。フェズの声に応えるように。でもそれだけだ。目を開けない。光が灯らない。

 

精神世界だからだ、とフェズは思った。ここは心の中の世界だ。カルンの物理的な体は意味を持たない。ここにあるのは——カルンとの繋がりだけ。カルンという存在とフェズの間にある、目に見えない糸だけ。

カルンを胸元に戻した。心臓の音が聞こえる場所に。心臓は動いている。自分は生きている。カルンもいる。

 

——それだけを頼りに、歩き始めた。

 

白い霧の中を歩いた。どれくらい歩いたか分からない。時間の感覚がない。足音だけが続く。景色が変わらない。どこまでも白い。

不安が這い上がってくる。ここはどこだ。出口はあるのか。戻れるのか。ルセに約束した。戻ると。破ったらぶん殴ると言われた。

 

——戻れるのか、ここから。

 

足が止まりかけた。その時だった。

 

---

 

声が聞こえた。

声というより——空間が震えた。白い霧全体が揺れて、振動が体の芯まで通り抜けた。

 

「巡祠者よ」

どこから聞こえているのか分からなかった。右か左か前か後ろか。全方向から来ている。声が空間そのものから染み出している。

「ここに何を求めに来た」

 

フェズは声の方向を探した。首を回す。目を凝らす。白い霧しかない。姿がない。水の大精霊は巨大な水の塊だった。地の大精霊は岩盤と一体化した巨亀だった。風の大精霊は——空間を切り裂く暴風そのものだった。

ここには何もいない。声だけだ。空の大精霊は声だけで存在している。空とは虚。何も持たない。姿すら持たない。

 

「精霊の核を——治してほしい」

フェズの声が白い空間に落ちた。

「俺の精霊の核が傷ついている。共鳴の負荷で・・・核が損傷してる。治す方法があるなら——」

 

沈黙が返ってきた。長い沈黙だった。白い霧が揺れている。呼吸の音だけが聞こえる。自分の呼吸。

 

それから——声が来た。

「傷つけたのは誰だ」

 

フェズの足が止まった。

分かっている。答えは分かっている。ずっと前から分かっていた。テッラ盆地でルセに言われた時に、もう分かっていた。

「・・・俺だ」

声が出た。掠れていた。でも出た。

 

精神世界では嘘がつけないのかもしれない。そう思った。あるいは——もう嘘をつく気力がなかったのかもしれない。ルセに「空っぽだ」と言えた夜を越えて、嘘が一枚ずつ剥がれている。

 

大精霊の声が空間に満ちた。

「知っているか。空とは虚だ。全てを受け入れる器であり、何も持たぬ場所」

白い霧が揺れた。フェズの周りを、大きな何かが巡っている。見えない。感じるだけだ。巨大な意志が、この空間全体に充満している。

「——お前の中にも空がある。見る覚悟はあるか」

 

お前の中の空。空っぽ。何もない場所。

昨夜、ルセに言った。空っぽなことが怖いと。カルンを守る以外に何もない自分を見るのが怖いと。ルセは言った。空っぽなら空っぽって分かればいい。埋め方は後から考えろ、と。

 

フェズは息を吸った。白い空気が肺を満たした。

「・・・ある」

声が震えていた。覚悟があるとは言い切れない。怖い。怖いが——逃げ場がない。最初からそうだった。この試練に入った時点で、逃げるという選択肢は消えていた。

 

見るしかない。自分の中にある空を。

 

白い霧が——割れた。

左右に引き裂かれるように、霧が開いていく。その奥に——色が見えた。灰色と茶色と、薄い緑。見覚えのある色だった。

風景が現れた。フェズの記憶の風景。

 

---

 

リトルネッロ村だった。

 

灰色の石壁。茶色の木柵。畑の緑。細い路地に干してある洗濯物。小さな村。辺境の、何もない村。

 

フェズは呼吸を止めた。

ここだ。自分が育った場所。自分が——何者でもなかった場所。

 

風景の中に、子供がいた。小さな子供。痩せていて、背が低くて、髪がぼさぼさで。村の端にある小さな家の前に立っている。養父母の家。追い出されはしない。でも——歓迎もされない。朝の食卓で、一つ少ない椀。畑仕事を多めに振られても、誰もありがとうと言わない。いてもいなくても同じ。

 

子供のフェズが村を歩いている。

路地を抜ける。井戸端で話している女たちの横を通る。誰も声をかけない。誰も顔を上げない。フェズが前を通り過ぎても、会話の流れが途切れすらしない。

市場で荷を運んでいる男たちの間を通る。誰も目を合わせない。水汲みの帰り、重い桶を両手で抱えてよろめいている。すぐ横を村人が通り過ぎる。手を貸す人はいない。

同年代の子供たちが広場で遊んでいる。棒きれを剣に見立てて、英雄戦争ごっこ。「俺が勇者な!」「ずるい、さっきもそう言ったじゃん!」。フェズの方を見ない。仲間に入れないのではない。そもそも見えていないかのように。

 

透明人間だ。

そこにいるのに、いないのと同じ。村の人口に数えられてはいる。食卓に椀は並ぶ。でも——誰かの記憶に残る存在ではない。消えても、たぶん三日は気づかれない。

 

フェズはその光景を見ていた。今のフェズが——大人になったフェズが、過去の自分を見ている。精神世界の外側から、記憶の中の自分を。

胸が痛かった。懐かしいとは思わなかった。帰りたいとも思わなかった。ただ——痛かった。あの頃の自分が何を感じていたか、全部覚えている。全部覚えていて、今もまだ消えていない。

 

子供のフェズが畑から帰ってくる。泥だらけの手。日が暮れかけている。養父母の家の戸を開ける。食事は冷めている。一人分。養父母はもう食べ終わっていた。

「ただいま」と言う。返事はない。

子供のフェズは食事をする。冷めた芋と硬いパン。噛む音だけが響く部屋。食べ終わったら、皿を洗って、薪を割って、水を汲んで。やることはたくさんある。やっても褒められない。やらなくても怒られない。やってもやらなくても同じ。

 

——誰にも必要とされていない。

 

子供のフェズが、寝床に横になる。天井を見ている。木の天井。隙間から星が見える。あの夜の星は綺麗だったか。覚えていない。覚えているのは——空っぽだったということだけ。

何もなかった。何の役にも立たない。何者でもない。存在する理由がない。毎朝起きて、畑に行って、飯を食って、寝る。それだけだ。それだけの日々が、ずっと続くのだと思っていた。明日も明後日も来年も、同じ畑と同じ沈黙と同じ冷めた飯。終わりがないのではなく——始まりがない。何も始まらない日々。

 

フェズは自分の手を見た。今の手。剣を握って、野盗を退けて、カルンを抱いてきた手。

あの頃の自分には——この手は何も掴んでいなかった。

 

大精霊の声が降ってきた。空間全体を震わせる、姿のない声。

「これがお前の根だ」

リトルネッロ村の風景が薄れていく。色が褪せる。灰色の石壁が白に溶ける。茶色の木柵が白に消える。子供のフェズの姿が——最後に一瞬だけフェズを見た気がした。何も映していない目。空っぽの目。

「空虚。何者でもない自分」

村が消えていく。記憶が崩れていく。白い霧が戻ってくる。

「——ここから始めよ」

 

大精霊の声が遠くなった。白い霧が再びフェズを包む。村は消えた。子供の自分は消えた。でも——胸の奥に残っている。あの空っぽさが。何者でもなかった自分が。消えてはいない。消えるものではない。

 

フェズは白い地面に膝をついた。

息が荒い。体を動かしてもいないのに、心臓が叩いている。汗が顔を伝っている。精神世界だから汗なんてかかないはずなのに——体が覚えている。あの頃の感覚を。

胸元のカルンが微かに温もりを伝えてきた。弱い。弱いけど——いる。ここにいる。

 

精神世界の最初の層は「空虚」だった。フェズの原点。何もなかった頃の自分。誰にも必要とされず、何者でもなく、空っぽの器のように生きていた日々。

 

——ここに、カルンが来た。

 

白い霧の向こうに、新しい色が滲み始めている。光の色。温かい色。見覚えがある。忘れるはずがない。

 

次の記憶は——あの日だ。

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