カルンと出会った日の記憶。あの日、空っぽの手に初めて光が宿った。
白い霧の向こうから滲んできた色は、見覚えのあるものだった。リトルネッロ村の外れ。街道に面した雑木林。夏の終わり、木漏れ日が地面に斑をつくっていた午後。
フェズは息を呑んだ。
忘れるはずがない。何もなかった日々が——終わった日だ。
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記憶が再構成されていく。白い空間の中に、あの日の風景が立ち上がる。木の幹、草の匂い、蝉の声。全部覚えている。体が覚えている。
子供のフェズが走っていた。
村の使いでグラーヴェ市に向かう途中だった。街道を外れて雑木林を抜ける近道。いつも通る道。いつもと同じ日になるはずだった。
音が聞こえた。
金属が鳴るような——いや、違う。もっと高い。もっと澄んでいる。何かが悲鳴を上げているような、でも悲鳴にしては綺麗すぎる音。
木立の向こうに光が見えた。小さな光。揺れている。逃げている。
追いかけているのは三人の男だった。革鎧を着て、網と縄を持っている。精霊ハンターだ。子供のフェズにもそれは分かった。村で何度か見たことがある。精霊を捕まえて売る連中。
光が木の根に引っかかった。転がった。小さな体が地面に落ちて、羽が泥にまみれた。
「やっと捕まえた。おとなしくしろよ」
男の一人が網を構えた。光が弱々しく明滅する。怯えている。逃げようとして、でも体が動かない。
子供のフェズが——立っていた。
木立の陰から飛び出して、光と男たちの間に立った。両手を広げて。武器なんかない。剣も持てない。細い腕と、痩せた体と、何もない手。
「どけ、ガキ」
男に突き飛ばされた。地面に転がった。膝を擦りむいた。それでも立ち上がった。もう一度、光の前に立った。
「どけって言ってんだ」
殴られた。頬が熱くなった。口の中に血の味が広がった。立ち上がった。また立った。
今のフェズが——その場面を見ている。精神世界の外側から、あの日の自分を見ている。
小さい。弱い。何もできない。それでも立っている。
なぜだ。なぜあの時、立ったんだ。
大精霊の声が、空間の全方向から降ってきた。
「なぜ立った。その時、お前は何を求めていた」
フェズは答えようとした。守りたかったから。あの光を守りたかったから。それが答えだ。ずっとそう思っていた。
でも——精神世界では嘘がつけない。
記憶の中に入っていく。あの日の自分の心が——そのまま流れ込んでくる。体の芯に、子供のフェズの感情が注ぎ込まれる。
怖かった。殴られて怖かった。痛くて、泣きそうで、逃げたかった。でも——足が動かなかった。逃げられなかったのは勇気じゃない。
あの光が——自分を見ていた。
初めてだった。誰かに見られるのが。リトルネッロ村では透明人間だった。誰もフェズを見なかった。誰もフェズの存在に気づかなかった。でもあの光は——震えながら、怯えながら、フェズを見ていた。
この子を守れたら。
この子の役に立てたら。
自分に価値が生まれる。初めて——誰かのために存在する理由ができる。
「・・・守りたかったのは、本当だ」
フェズの声が白い空間に落ちた。掠れていた。
「でも・・・それだけじゃなかった」
記憶の中の子供のフェズが、三度目に立ち上がる。血が頬を伝っている。足が震えている。それでも光の前に立っている。
「必要とされたかった。あの子を守ることで——自分が必要な存在になれると思った。空っぽの自分を・・・埋めたかった」
守りたかったのは本当だ。あの光を守りたいと思った気持ちは嘘じゃない。
でも「守ることで自分を埋めたかった」のも本当だ。
どちらかが嘘なんじゃない。両方が——最初から混じっていた。
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記憶が進む。
白い空間の中に、次の風景が立ち上がった。トルニオの修行場。グラーヴェ市の郊外。木剣を振る日々。カルンがフェズの肩の上にいる。小さな光が、フェズの動きに合わせて揺れている。
旅の日々。カルンと二人で歩いた道。水紋の谷。セルペ高原。焚き火を囲む夜。
カルンがフェズの手のひらで眠っている。温かい。小さな光が、ゆっくり明滅する。寝息のように。フェズがその光を見ている。見ているだけで、胸の空っぽな場所が——少し埋まる。
共鳴が深まるたびに、それは強くなった。
カルンの旋律がフェズの中に流れ込むたびに。カルンの光がフェズの剣を導くたびに。カルンがフェズの呼びかけに応えるたびに。
——俺は必要とされている。この子には俺が必要だ。
その実感が、フェズの空虚を埋めていた。カルンの光が、フェズの存在理由だった。
でもそれは——カルンを「存在理由にした」ということだ。
カルンがいなければ、フェズはまた空っぽに戻る。何者でもない、誰にも必要とされない、リトルネッロ村のあの子供に戻る。だからカルンを手放せない。だから共鳴を止められない。どれだけカルンが消耗しても、どれだけ無理をさせても——手放したら自分が消える。
記憶の中で、声が再生された。聞き覚えのある声。穏やかで、冷たくて、どこか哀しい声。
ヴェーノの声だ。
「あなたも同じことをしている」
セルペ高原の記憶。初めてヴェーノと剣を交えた後、ヴェーノが言った言葉。
「あの子に頼りすぎている。いつか壊す」
あの時は怒りで聞けなかった。お前に何が分かる、と思った。お前はカルンを奪おうとしている側だろう。お前に言われる筋合いはない、と。
でも今——精神世界の中では嘘がつけない。
ヴェーノは正しかった。
精霊を失った男が、精霊に依存する少年を見抜いていた。ヴェーノ自身がかつて精霊に依存していたから——分かったのだろう。鏡だった。あの男は最初から、フェズの鏡だった。
「・・・分かってた」
フェズの膝が震えている。白い地面の上で、立っているのが辛い。
「ずっと分かってた。でも——認めたくなかった」
認めたら、全部崩れる。カルンを守ることが自分の存在理由で、それが「正しいこと」で、だから自分はここにいていいのだと——そう信じていなければ、立っていられなかった。
大精霊の声が、空間を満たした。姿のない声。全方向から染み出す振動。
「お前はあの子を守っていたのではない」
フェズの心臓が止まりかけた。
「あの子に守られていたのだ」
白い世界が揺れる。
「——自分の空虚から」
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記憶が飛んだ。
白い空間の中に、あの夜の記憶が立ち上がる。テッラ盆地。スコルダの廃砦。ヴェーノに奪われたカルンを取り戻しに行った夜。
フェズは——見たくなかった。この記憶だけは見たくなかった。
でも精神世界では逃げられない。
記憶が再生される。あの夜の全てが。
共鳴を再開した瞬間の記憶。カルンを取り戻して、胸に抱いて、共鳴を繋いだ。力が溢れた。暴走的な力。制御なんかできなかった。カルンの旋律が叫びに変わる。光が点滅する。カルンの体が熱を持つ。熱すぎる。壊れかけている。
それでも止められなかった。
止めなかった。
カルンを取り戻すために。ヴェーノを退けるために。もう二度と奪われないために。カルンの力を——搾り取った。
精神世界の中で、あの瞬間を再体験する。カルンの旋律が叫びに変わった音が、白い空間に響く。光が点滅する感触が手のひらに蘇る。そして——カルンの悲鳴。言葉を持たない精霊の、それでも紛れもない悲鳴。
フェズの膝が崩れた。白い地面に倒れた。手をついた。指が震えている。
カルンの記憶が——痛みが——流れ込んでくる。精神世界だから。ここでは繋がりが剥き出しになる。カルンがあの時感じていた痛みが、フェズの体を貫く。
熱い。熱くて、苦しくて、怖い。自分の中から何かが引き剥がされていく感覚。核が軋む音。自分という存在の根っこが、千切れていく。
別の声が響いた。大精霊の声ではない。もっと古い。もっと深い。地の底から聞こえるような——地の大精霊の問い。
「その歌は、代わりに何を削っているか、知っているか」
地の祠で問われた言葉だ。テッラ盆地で、地の大精霊がフェズに投げかけた問い。あの時は答えられなかった。
今なら——答えが分かった。
削っていたのはカルンの命だ。
カルンの核。カルンの存在そのもの。共鳴のたびにカルンの命を削って、その力で戦って、カルンを守ると言いながら——カルンを壊していた。
あの暴走は「共鳴」なんかじゃなかった。搾取だ。カルンの力を引き出したんじゃない。搾り取ったんだ。自分の空虚を埋めるための道具にして——カルンを削り続けた。
「俺は——カルンを」
言葉にならない。言葉にしたくない。口が動かない。体が拒否している。
でも精神世界では逃げられない。嘘がつけない。目を背けられない。
あの子の悲鳴が、まだ耳の奥で鳴っている。
「——壊した」
声が出た。掠れて、震えて、折れかけた声。
「俺が。守ると言いながら。壊したのは・・・俺だ」
白い世界が震えた。フェズの告白が、空間全体に響いた。反響して、消えなかった。何度も何度も返ってきた。「壊したのは俺だ」が、白い空間の中をいつまでも巡った。
大精霊は何も言わなかった。沈黙だけがあった。それが——何よりも重かった。
フェズは白い地面の上で動けなかった。手をついたまま、頭を垂れていた。涙が出ているのか分からなかった。精神世界だから涙なんかないのかもしれない。でも顔が濡れている気がした。あの子の悲鳴が——まだ、鳴り止まない。
空虚を埋めるためにカルンを使い、守ると偽って壊した。
それが事実だった。
胸元のカルンが——精神世界でほとんど光を失ったカルンが——微かに温もりを伝えてきた。弱い。弱すぎる。でもそこにいる。フェズが壊したのに、まだそこにいる。
なぜだ。なぜまだ、ここにいてくれるんだ。
答えは返ってこなかった。カルンには言葉がない。光すら、今はほとんどない。
フェズは白い地面の上で動けなかった。