白い世界に、音が流れた。
旋律ではない。もっと深い——記憶の音。カルンの記憶。
フェズは白い地面の上で崩れたまま、顔を上げた。動けなかった。体が重い。心が重い。自分が壊した。守ると言いながら壊した。その事実が、鉛のように全身にのしかかっている。
音が——流れている。
どこからだ。大精霊の声ではない。もっと近い。もっと——温かい。
胸元のカルンだった。光をほとんど失ったカルンが、微かに震えている。震えるたびに、何かが溢れ出してくる。音ではない。言葉でもない。もっと直接的な——感情の奔流。
カルンの記憶が、フェズの中に流れ込んできた。
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暗い。暗くて、狭くて、怖い。
最初に流れ込んできたのは——恐怖だった。
カルンの最も古い記憶。人間に見つかった日。森の奥で光っていた自分に、人間の手が伸びてきた。
「綺麗だ」
その言葉が怖かった。「綺麗だ」は「欲しい」と同じだった。手が伸びてくる。掴もうとする手。網を投げる手。縄で縛ろうとする手。
逃げた。必死で逃げた。羽を広げて、光を消して、夜の闇に溶け込んで。
でもまた見つかった。
「珍しい精霊がいるぞ」
「概念の精霊だ。高く売れる」
走った。飛んだ。隠れた。何日も。何週間も。人間の街を避けて、森を渡り、山を越えて。でも——どこにいても見つかった。光るから。歌ってしまうから。自分を消すことができなかった。
カルンの恐怖がフェズの体を駆け巡る。心臓が締め付けられる。息ができない。これがカルンの日常だった。毎日が逃走。毎日が恐怖。人間の手が、人間の目が、人間の声が——全部怖かった。
「欲しい」「珍しい」「捕まえろ」
言葉はいつも、所有の道具だった。名前を呼ぶ声ですら、支配の響きを帯びていた。
記憶が次々と流れ込む。金持ちの邸宅に閉じ込められた日。鉄の檻。冷たい床。綺麗な箱に入れられて、客に見せ物にされた。「歌え」と命じられた。歌わなかった。歌いたくなかった。殴られた。精霊の体は小さい。人間の拳ひとつで地面に叩きつけられる。
逃げ出した。檻の隙間から。夜中に。羽が千切れかけた。それでも飛んだ。
また別の人間に見つかった。また逃げた。また見つかった。何度も。何度も何度も。
フェズの頬を涙が伝っていた。精神世界に涙なんかないはずだった。でも——流れている。カルンの恐怖が、そのままフェズの涙になっている。
「・・・ずっと、こうだったのか」
声が震えた。カルンの記憶の中に、安息がない。一日として安心できた日がない。眠るときも片目を開けていた。人間の足音が聞こえたら、すぐに逃げられるように。
精霊が言葉を持たない理由が、今なら分かる。
言葉は怖いものだった。カルンにとって、人間の言葉はいつも——何かを奪うための道具だった。
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記憶が変わった。暗い恐怖の色が、ふいに途切れた。
明るい。木漏れ日。夏の匂い。蝉の声。
リトルネッロ村の外れ。雑木林。カルンの記憶の中の、あの日。
さっきフェズ自身の記憶で見た場面と——同じ場面だ。でも、視点が違う。カルンの目から見た、あの日。
精霊ハンターに追われていた。三人の男。網と縄。もう逃げられなかった。羽が疲れ切っていた。何日も飛び続けて、体が限界だった。木の根に引っかかって、地面に落ちた。泥にまみれた。
終わりだ、と思った。
また捕まる。また檻に入れられる。また「歌え」と言われる。また——。
人間の子供が飛び出してきた。
小さい。細い。弱そう。男たちの半分もない体で、カルンと男たちの間に立った。両手を広げて。
何をしている。逃げろ。お前まで殴られる。
殴られた。転がった。立ち上がった。また殴られた。また立ち上がった。
血が流れていた。頬から。口から。それでも——その子供は動かなかった。カルンの前から。
カルンの記憶が温度を変えた。恐怖が——別の何かに変わっていく。
その子供は、「欲しい」と言わなかった。「綺麗だ」とも言わなかった。「珍しい」とも「捕まえろ」とも。
ただ——立っていた。カルンの前に。血を流しながら。
初めてだった。
人間が、自分を「手に入れる」ためではなく——自分の「ために」何かをしてくれたのは。
カルンの記憶の中で、世界の色が変わった。暗い灰色ばかりだった世界に、光が差した。その子供の背中が——小さくて、震えていて、血だらけで、それでも——温かかった。
だから——ついていった。
この人間の隣にいたいと思った。初めて——安全だと思える場所を見つけた。この子の隣にいれば、怖くない。この子の隣にいれば、「欲しい」と言われない。この子は——自分を「もの」として見ない。
フェズの目から涙が溢れた。止められなかった。
カルンが自分を選んだ理由。初めて知った。言葉にならない感謝が、精霊の記憶として直接流れ込んでくる。ありがとう、という感情の塊。言葉を持たないから言えなかった。でもずっと——ずっと思っていた。
あの日、立ってくれて、ありがとう。
「カルン・・・」
フェズの声が掠れた。答えは返ってこない。カルンの記憶が、ただ流れ続けている。
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記憶は止まらなかった。
次に流れ込んできたのは——旅の日々だった。
トルニオの修行場。グラーヴェ市の郊外。フェズが木剣を振っている。カルンはフェズの肩の上にいる。風が気持ちいい。フェズの体温が伝わってくる。揺れるたびに、フェズの首筋に羽が触れる。くすぐったそうにフェズが笑う。
カルンはフェズの隣にいるのが好きだった。
肩の上。手のひらの中。外套の内側。どこでもいい。フェズの温もりが感じられる場所なら。フェズが歩くたびに揺れる。フェズが笑うと光が跳ねる。フェズが眠ると、カルンも安心して目を閉じられる。
旅路の記憶。水紋の谷を歩いた日。セルペ高原の風。テッラ盆地の赤い土。焚き火を囲んだ夜。ルセの笑い声。フェズの不器用な優しさ。
全部好きだった。全部、大切だった。
でも——フェズが変わっていった。
記憶の中の感情が、少しずつ曇っていく。
「守る」が強くなった。フェズの中で、「カルンを守る」が何よりも大きくなっていった。それ自体は嬉しかった。守ってもらえるのは嬉しかった。でも——。
戦いの時、フェズはカルンを隠すようになった。「危ないから」と外套の中に入れた。背中の後ろに庇った。カルンの視界から、フェズの背中しか見えなくなった。
隣にいたかった。
フェズの後ろではなく。守られる対象ではなく。フェズの横で、一緒に風を感じたかった。一緒に前を見たかった。フェズが戦うなら、隣で力を合わせたかった。道具としてではなく——仲間として。
でも言えなかった。
言葉がないから——じゃない。
フェズが「守ること」で自分を支えているのが、分かっていたからだ。
カルンの記憶の中に、フェズの顔がある。カルンを胸に抱いて眠るフェズの顔。安心している顔。「俺がこの子を守っている」という実感が、フェズの空虚を埋めているのが——カルンには分かっていた。
精霊には言葉がない。でも共鳴がある。共鳴のたびに、フェズの感情はカルンに流れ込んでいた。フェズの空虚も。フェズの渇望も。「必要とされたい」という叫びも。全部、聴こえていた。
カルンが「守らなくていい」と言ったら——フェズの居場所が崩れてしまう。
だから黙っていた。
求められるまま力を出した。共鳴を求められれば応えた。旋律を引き出されれば歌った。体が軋んでも。核が痛んでも。フェズが「もっと」と求めるなら——応えた。
フェズの目から涙が落ちた。白い地面に吸い込まれて消えた。
「お前も・・・我慢してたのか」
カルンの記憶が答える。言葉ではない。感情の震えが、そのまま伝わってくる。
我慢していた。でも——それだけじゃなかった。
フェズに必要とされることが、カルンの居場所だった。
追われ続けた日々。誰にも必要とされなかった日々。「欲しい」と言われるのは怖かった。でも「必要だ」と言われるのは——温かかった。フェズが「お前がいないとだめだ」と思ってくれている。その実感が、カルンの恐怖を和らげていた。
フェズに必要とされなくなったら——また独りになる。また追われる。また暗い日々に戻る。
だから応え続けた。壊れそうになっても。フェズの「必要」に応えていれば、ここにいていい。この人の隣にいていい。
「・・・俺たち」
フェズの声が震えた。
「同じだったんだな」
お互いに依存していた。フェズはカルンに「存在理由」を求め、カルンはフェズに「居場所」を求めていた。フェズだけが悪いんじゃなかった。カルンも——同じだった。お互いに、相手を必要とすることで自分を支えていた。お互いに、関係を変えることを恐れていた。
ルセが言った言葉が蘇る。「あんた、あの子を道具にしてるの分かってる?」
道具にしていた——のはフェズだけじゃなかった。カルンもまた、フェズの「守りたい」を利用していた。自分から差し出していた。壊れても構わないと——そう決めて。
スコルダの廃砦の記憶が流れ込んでくる。カルンの側から見た、あの夜。
核が軋む痛み。力が搾り取られていく恐怖。体が壊れていく感覚。
怖かった。痛かった。叫んだ。
でも——フェズの手の中にいたかった。
光を失っても。力がなくなっても。核が砕けても。この人の隣がいい。この人の温もりの中にいたい。他の場所なんかいらない。
フェズの手の中で死ねるなら——それでもいいと、思った。
「・・・カルン」
フェズの声が割れた。
「そんなこと——」
そんなこと思うなよ。死んでいいわけないだろう。お前が壊れていいわけないだろう。
でも——カルンの記憶は嘘をつかない。精神世界では全てが透けている。カルンは本気でそう思っていた。フェズの隣で消えるなら、それでいいと。
フェズの拳が白い地面を叩いた。
「ふざけるなよ・・・」
自分に言っているのか、カルンに言っているのか、分からなかった。たぶん——両方に。
ふざけるな。お互いに壊し合って、それを「絆」だと思っていたなんて。お互いに依存し合って、それを「必要としている」と呼んでいたなんて。
でも——。
カルンの最後の記憶が流れ込んできた。全部の底に沈んでいた、一番深い感情。
隣にいたい。
守られたいんじゃない。
一緒に歩きたい。あなたの横で。
同じ風を感じたい。同じ景色を見たい。あなたが笑うとき、隣で一緒に笑いたい。あなたが泣くとき、隣にいたい。
後ろじゃなくて。中じゃなくて。隣に。
ただそれだけ。
言葉を持たないカルンの——一番シンプルな願い。
フェズの涙が白い地面に落ちた。落ちて、光った。カルンの想いが涙に混じって、白い空間にぽつりと光の粒を落とした。
「・・・聴こえたよ、カルン」
フェズの声は掠れていた。震えていた。でも——折れてはいなかった。
「聴こえた。全部」
胸元のカルンが、微かに光を揺らした。弱い。弱すぎる光。でも——温かい。ずっと温かい。
カルンの声が聴こえた。言葉ではない。言葉よりもっと確かな——想い。
「隣にいたい」。
ただそれだけの、シンプルな願い。
フェズは白い地面の上で、その光を胸に抱いた。壊したのは自分だ。でもカルンも——自分から壊れにきていた。お互いに間違えていた。お互いに、怖くて、正直になれなかった。
でも今——聴こえた。
なら、次は——応え方を変えなければならない。