歌姫と共に   作:ぶるうず

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祠印

光が晴れた時、フェズは山の上にいた。空が青かった。——音が、戻っていた。

 

白い世界が溶けるように消えていく。精神世界の霧が薄れて、代わりに冷たい岩の感触が膝に返ってくる。体がある。重さがある。風が吹いている——そして、風の音がする。

フェズはゆっくりと目を開けた。

 

稜線の岩場。朝の光が斜めに差している。空気が薄い。アリア山脈の、沈黙の峰。入った時も朝だった。どれくらい経ったのか分からない。でも——空は晴れていて、風は穏やかで、世界にはちゃんと音があった。

鳥の声が遠くから聞こえる。風が岩肌を撫でる音。自分の呼吸。精神世界の中では失われていた、当たり前の音が全部ある。

 

手のひらを見た。

 

カルンがいた。

 

小さな体が手のひらの上で丸くなっている。光が——変わっていた。精神世界に入る前のカルンは、ほとんど光を失っていた。明滅する微かな灯火がかろうじて命を示しているだけだった。

今は違う。弱い。まだ弱い。でも安定している。ちらつきがない。穏やかな光が、カルンの体を包んでいる。核の回復が——始まっている。

 

カルンの目が開いた。

フェズを見上げている。小さな瞳に朝の光が映り込んでいる。精神世界ではなく、現実の光だ。

カルンの光が揺れた。怯えではない。安堵でもない。もっと——軽い。

 

笑っている。光で笑っている。

 

フェズの胸が熱くなった。何日ぶりだろう。カルンのこの光を見たのは。怯えでも、我慢でも、必死の応答でもない。ただ嬉しくて光っている。

 

「・・・おかえり、カルン」

声が掠れた。泣きすぎて喉がやられている。精神世界で体はないはずなのに、現実に戻ったら涙の痕跡がしっかり残っていた。

カルンの光がぽんと跳ねた。おかえり、じゃない。フェズの方が帰ってきたのに。でもカルンは——ああ、嬉しいんだ。フェズが笑って自分を見ていることが。

 

フェズも笑い返した。目尻がまだ濡れている。でも——笑えた。精神世界の中であれだけ泣いて、あれだけ向き合って、もう何も残っていないはずなのに。笑える。カルンが光っているから。それだけで、笑える。

 

手のひらに視線を落とす。カルンの体の横に——何かがある。

金属片。透明な金属片。空気のように軽い。持ち上げても重さを感じない。光に透かすと、向こう側の景色がわずかに歪んで見える。

 

祠印だった。4つ目。空の祠印。

 

大精霊の声は聞こえない。姿もない。でも——この場所全体が祠だった。空の大精霊は、フェズの答えを認めた。

 

---

 

「フェズ!」

声が聞こえた。遠い——いや、近い。音がまだ少し減衰している。沈黙の峰の名残だ。でも確かにルセの声だった。

稜線の端から走ってくる姿が見える。ルセだ。髪が乱れている。目の下に深い隈がある。外套が汚れている。

 

「——何時間経ったと思ってんの! 丸一日よ!」

ルセがフェズの前で止まった。息が荒い。走ってきたのだろう。足元の岩場が不安定なのに、気にしていない。

「・・・丸一日?」

フェズは自分の声が掠れているのを聞いた。

「昨日の朝入って、今朝よ! あんたが動かないまま座ってるから——死んだかと思ったじゃん!」

ルセの声が裏返った。怒っている。怒っているのに——目が赤い。

 

「すまない。・・・そんなに経ってたのか」

精神世界では時間の感覚がなかった。カルンの記憶が流れ込んで、向き合って、泣いて、約束して、共鳴して——あの全部が、外の世界では丸一日分だったのか。

ルセがフェズの肩を叩いた。力が強い。痛い。でも——こういう時のルセは、安堵している時だ。

 

「心配したんだから。ばか」

最後の一言が小さかった。フェズは少し申し訳なくなった。

「・・・ごめん」

「謝んないで。無事ならいいの」

 

ルセの視線がフェズの手のひらに移った。カルンがいる。光っている。弱いが、安定した光。

ルセの目が大きく見開かれた。

 

「——光。光が戻ってる」

 

カルンがルセの方を向いた。小さな体がふわりと浮き上がる——力がないから、ほんの少しだけ。でもルセに向かって光を揺らした。挨拶するように。ぽん、ぽん、と二回跳ねる光。

ルセが口を開けたまま固まった。

 

「あの子・・・笑ってる?」

「・・・ああ。たぶん」

フェズはカルンを見た。カルンはルセに向かって光を揺らし続けている。精神世界の前のカルンは、眠ったまま動かなかった。目を開けることすらできなかった。それが今——浮き上がって、光って、ルセに挨拶している。

 

ルセが鼻をすすった。

泣いてはいない。でも——目の端が光っている。

 

「よかった」

ルセの声が震えた。

「・・・ほんとに、よかった」

 

ルセが顔をそむけた。手の甲で目元を拭う仕草が見えたが、フェズは気づかないふりをした。ルセはこういう時、見られるのが嫌いだ。

 

カルンがルセに向かって飛んでいこうとした。が、力が足りなくてすぐにフェズの手のひらに戻ってきた。まだ無理だ。でもその仕草を見て、ルセが小さく笑った。

「あんたのとこ戻りなよ、カルン。まだ飛べる状態じゃないでしょ」

カルンの光がしゅんと少し縮んだ。でもすぐに——ぽん、と跳ねた。ルセに怒られるのも、嫌いじゃないみたいだった。

 

---

 

山を降り始めた。

 

フェズの足取りは、登りの時よりも軽かった。体力が回復したわけではない。精神世界で丸一日座り続けた体は、むしろ悲鳴を上げている。膝が痛い。腰が張る。肩が固まっている。

 

でも——足が前に出る。

 

カルンがフェズの肩の上にいた。

胸の中ではなく。外套の内側に隠されるのでもなく。フェズの右肩に、ちょこんと座っている。風を受けて、弱い光を揺らしている。

ルセがそれを見た。何か言いかけて——やめた。代わりに、小さく口元を緩めた。

 

フェズは自分でも気づいていた。今まで、カルンは胸の中にいた。戦闘の時は外套に隠した。危ない時は背中で庇った。安全な場所に押し込めていた。守るために。

今、カルンは肩の上にいる。風を受けている。フェズと同じ景色を見ている。隣に——いる。

 

山道を下りながら、フェズは自然と周囲を見ていた。岩の色。苔の具合。風の方向。足元の砂利の滑りやすさ。自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の足裏で感じる。共鳴の探知ではなく。

トルニオに叩き込まれた基本。あの拠点での修行で体に染み込んだ感覚。共鳴に頼る前の自分の力。それが——ちゃんとある。鈍っているが、消えてはいない。

 

肩の上で、カルンが微かに旋律を紡いだ。

共鳴ではない。フェズの体を強化する音でもない。もっと小さくて、もっと何気ない音。

 

フェズは一瞬足を止めた。カルンの旋律を聴く。短い音。方向を示すような——

「・・・あっちに水があるのか」

カルンの光がぽんと跳ねた。そう。左の斜面を少し降りたところに、水の流れがある。カルンには分かる。精霊だから。自然の気配を——まだ弱いけれど——感じ取れる。

 

共鳴ではなかった。ただの合図。カルンが自分の意志で、フェズに教えてくれている。

 

「ありがとう」

フェズは小さく言った。当たり前のように。カルンの光がまたぽんと跳ねた。

 

しばらく歩いた。空気が少しずつ濃くなっていく。標高が下がるにつれて、音が戻ってくる。風の音。虫の声。木の葉が擦れる音。沈黙の峰から離れるにつれて、世界が音を取り戻していく。

 

カルンがまた旋律を紡いだ。今度は少し長い。フェズは聴いた。風の方向が変わった——ということらしい。

「ルセ、風が変わるって。少し北に寄ろう」

ルセが振り返った。「え? ・・・カルンが言ってるの?」

「たぶん」

 

ルセが目を細めた。何か考えている顔だ。

「ねえ、フェズ。なんか変わった? あんたたち」

 

フェズは足を止めた。変わった。変わったかと聞かれれば——

カルンを見た。肩の上のカルンがフェズを見返している。光が揺れる。穏やかに。怯えがない。我慢がない。

「・・・変わった。たぶん」

「良い方に?」

 

フェズはもう一度カルンを見た。カルンの瞳がまっすぐにフェズを見ている。小さな体から放たれる光は弱い。まだ回復の途上だ。核の傷は深い。でも——光は安定していて、穏やかで、自分の意志で光っている。

 

「・・・うん。良い方に」

 

「ふーん」

ルセの返事は素っ気なかった。でも——口元が緩んでいた。隠すのが下手だな、とフェズは思った。ルセはこういう時、嬉しいのを隠そうとして隠しきれない。

 

ルセが前を向いて歩き出した。「じゃ、さっさと降りるよ。こんな山の上で野営するの、もう勘弁」

「・・・一晩待っててくれたのに」

「だから勘弁だって言ってんの。寒いし、空気薄いし、音しないし。あんたが動かないから寝られないし」

ルセの声が少し早口になっている。照れているのだ。フェズは小さく笑った。

 

「ルセ。ありがとう」

ルセの足が一瞬止まった。振り返らない。

「・・・当たり前でしょ。約束したんだから。戻ってこなかったらぶん殴るって」

「ぶん殴られなくてよかった」

「まだ分かんないよ。心配させた分、後で請求するから」

 

ルセが歩き出す。フェズもついていく。肩の上でカルンが小さく光を揺らしている。風が気持ちいいのかもしれない。

 

---

 

山を半分ほど降りた頃、フェズはふと足を止めた。

外套の内ポケットに手を入れる。祠印が四つ。水、風、地、そして——空。

 

手のひらに並べてみた。四つの金属片。それぞれ質感が違う。水の祠印は滑らかで冷たい。風の祠印は表面に細かな溝がある。地の祠印はずしりと重い。空の祠印は——透明で、重さがほとんどない。

四つ目。残るは火の祠印だけだ。トルニオの祠。グラーヴェ市。旅の始まりの場所。

 

「残り一つだね」

ルセが隣から覗き込んできた。

「・・・ああ。火の祠だけだ」

「トルニオさんの祠でしょ。大変じゃないの? あの人、容赦ないんでしょ?」

 

フェズは少し笑った。容赦ない。確かにそうだ。トルニオの拳も、蹴りも、あの厳しい目も——全部覚えている。修行時代の記憶が精神世界で蘇って、改めて思い知った。トルニオに叩き込まれた全てが、今の自分の土台になっている。

 

「大変だと思う。でも——」

フェズは祠印をポケットに戻した。カルンが肩の上から手のひらを覗き込んでいた。祠印に興味があるのか、光がきょろきょろと揺れている。

「でも、今はまだ先のことだ。まずはこの山を降りないと」

「それはそう」

ルセが頷いた。

 

カルンがまた短い旋律を紡いだ。フェズは聴いた。前方の道が少し崩れている。右に迂回した方がいい。

「右に回ろう。道が崩れてるらしい」

ルセが目を丸くした。「・・・ほんとに便利になったね、あんたたち」

「便利じゃない。カルンが教えてくれてるだけだ」

カルンの光がぽんと跳ねた。得意げに見える。

「それを便利って言うんだけど」

ルセが呆れたように言ったが、その声はどこか温かかった。

 

フェズは歩きながら、空を見上げた。青い空。雲が少し流れている。風の音がする。鳥の声がする。

 

4つ目の祠印を得た。カルンの光が戻り始めた。核はまだ傷ついている。回復には時間がかかるだろう。でも——もう消えかけてはいない。

 

肩の上で、カルンが小さな旋律を紡いでいる。何かを伝えているのではない。ただ——歌いたいから、歌っている。弱い音。掠れた音。でもそこに、カルンの意志がある。

フェズはその旋律を聴きながら歩いた。引き出そうとしない。ただ聴く。カルンの音を。カルンの声を。

 

搾取じゃない。対話だ。

 

その音はまだ小さい。傷ついた精霊の掠れた歌と、まだ不器用な少年の歩み。壮大な交響曲なんかじゃない。でも——確かに鳴っている。二人の間に、新しい音が流れている。

 

山を降りる足音と、風の音と、カルンの旋律。それだけの、静かな午後だった。

 

でもフェズは——今、この音が好きだった。

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