山を降りた先に待っていたのは、平穏ではなかった。
アリア山脈を降りきるのに二日かかった。沈黙の峰を出て、音が戻った世界を歩き、針葉樹の森を抜けて、岩場が草地に変わるところまで来た。空の精霊の領域を抜けると世界が急に騒がしくなった。虫の声、鳥の声、風が草を撫でる音。当たり前の音が全部ある。
肩の上で、カルンが光を揺らしている。
弱い光だ。核の回復はまだ途上で、精神世界の前と比べれば安定しているが、力はない。でも——目が開いている。フェズと同じ景色を見ている。時々、短い旋律を紡いで「右の道の方が歩きやすい」とか「あの木の下に水がある」とか教えてくれる。
共鳴ではない。ただの合図。カルンが自分の意志で、フェズに伝えている。
麓の宿場街が見えたのは、二日目の午後だった。
石造りの建物が十軒ほど。小さな市場。街道沿いの小さな宿場で、名前は知らない。巡祠者が通る道からは外れているのか、祠巡りの匂いがしない。ただの旅人と商人が行き来する、何の変哲もない街だった。
ルセが伸びをした。肩のピカが揺られてふわりと浮き、すぐに戻った。
「やっと山降りた。もう岩場はいいよ。足の裏が砂利の形になってる気がする」
「・・・二日間ずっと下りだったからな」
「登りよりマシだけどね。——宿取る?」
フェズは頷いた。カルンの回復にも休息が必要だ。自分の体もまだ精神世界の疲労を引きずっている。膝と腰が重い。
宿場街の入口を歩いていると、すれ違う旅人が何人かフェズの方を見た。正確には、フェズの肩の上を。
精霊を肩に乗せて歩く巡祠者は珍しいらしい。普通、精霊使いは精霊を体の中に引き込んでいるか、近くを飛ばせていてもある程度距離を取る。肩の上にちょこんと座らせて歩くのは——まあ、変だろう。
フェズは気にしなかった。カルンが肩の上にいたいなら、そこにいればいい。
宿の戸を開けた。石壁の小さな宿屋だ。カウンターの向こうに立っている主人が、フェズとルセを見て、それからフェズの肩の上を見た。
「・・・その精霊、おたくの?」
「ああ」
「肩に乗っけて歩くのか。珍しいな」
「はい」
それ以上は聞かれなかった。宿の主人は首を傾げながらも、部屋の鍵を二つ出した。ルセが銅貨を数えてカウンターに置く。
「二人、二泊。ご飯つきで」
「食堂は一階だ。夕飯はもうすぐだよ」
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食堂は小さかった。木のテーブルが五つ。壁に蝋燭が灯っている。旅人が四、五人と、商人が二人ほど。皆、疲れた顔をして食事をしていた。
フェズとルセが席についた。カルンはフェズの肩の上にいる。テーブルの端に移動して、小さな体を丸くしている。蝋燭の光に照らされて、淡い光がゆらゆらと揺れている。
スープと硬いパンが出てきた。温かい。山を降りてきた体に染みた。
フェズがスープを啜っていると——隣のテーブルから声が漏れ聞こえてきた。
「西の街道で黒斑病が出たって。精霊が三体も暴走したらしい」
「三体? 一度に?」
「ああ。水紋の谷の近くでも出たって話だぜ。商人が言ってた」
フェズの手が止まった。
「ここ数日で急に増えたんだよ。先月まではたまに聞く程度だったのに」
「嫌な風が吹いてるねえ。精霊使いじゃなくても分かるよ、空気がおかしい」
黒斑病。
フェズはその名前を知っている。トルニオの下で修行していた頃、初めて遭遇した。精霊が正気を失い、暴走する病。目が黒く濁り、体に黒い斑点が浮かぶ。あの時は一体だけだった。トルニオが一人で制圧したが、暴走する精霊の凄まじさは目に焼きついている。
それが——各地で、同時に増えている。
肩の上で、カルンの光が小さくなった。体を縮めるように、フェズの肩に身を寄せている。
「・・・カルン」
フェズはカルンに手を添えた。小さな体が震えている——いや、震えとは違う。遠くの何かを感じ取っているような、不安の色。黒斑病の精霊の気配を、精霊であるカルンは感じるのかもしれない。
ルセがスープの皿を置いた。
「聞いた?」
「・・・ああ」
「前からちょくちょく見かけたけど・・・こんなに一気に増えたの、初めてじゃない?」
フェズは頷いた。旅の中で、黒斑病の精霊には何度か遭遇した。セルペ高原で一体。テッラ盆地で一体。その度に、単発の不幸な出来事だと思っていた。
でも——ここ数日で急に増えた。各地で同時に。それは単発ではない。何かが起きている。
「・・・何かが、おかしい」
「うん。あたしもそう思う」
ルセの声がいつもより低かった。ルセも感じている。漠然とした、しかし確実な不穏。
フェズはもう一度、隣のテーブルの会話に耳を傾けた。
「商売にならねえよ。街道に黒斑病の精霊がいたら、荷馬車なんか出せないだろ」
「伝令ギルドの連中も困ってるらしい。風の精霊を飛ばすのが怖いってさ」
「いつ収まるんだろうな」
「さあな。お上がなんとかするんじゃないのか」
誰も答えを持っていなかった。フェズも持っていない。ただ——嫌な予感だけが、胸の底に沈んでいた。
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夜になった。
宿の部屋は小さい。木枠のベッドが二つと、窓が一つ。ルセが先にベッドに倒れ込んで、「あー、布団」と呻いている。山の上で岩場に寝ていたから、柔らかいベッドが天国に感じるのだろう。
フェズは窓辺に座った。窓から夜風が入ってくる。涼しい。麓の空気は山の上よりずっと温かくて、湿っていて、生き物の匂いがする。
カルンが膝の上にいた。
小さな体が丸くなっている。光は弱い。でも安定している。穏やかに揺れる光が、薄暗い部屋の中で蝋燭のようにちらちらと壁を照らしている。
フェズは——気づいたら鼻歌を歌っていた。
何の曲でもない。調子外れの、メロディとも呼べない旋律。歌がうまいわけではない。音程が怪しい。リズムも適当だ。でも——口から音が出ていた。無意識に。
カルンが反応した。
膝の上で光が揺れる。フェズの鼻歌に合わせるように——いや、合わせているのではない。カルンが自分の旋律を返している。フェズの調子外れの音に、微かな音色を重ねている。
共鳴ではなかった。
精神世界の試練以降、こういう瞬間が増えた。フェズが音を出す。カルンが応える。カルンが旋律を紡ぐ。フェズが聴く。力を引き出すためでも、魔法を使うためでもない。ただの——一緒にいる時間。
カルンの光がゆっくりと膨らんだ。嬉しいのだ。フェズが音を出しているのが。
ベッドの方から声が飛んできた。
「・・・あんた歌下手だね」
ルセだ。枕に顔を埋めたまま、くぐもった声で言っている。
「知ってる」
「音痴とかのレベルじゃなくて、そもそも何の曲か分かんない」
「何の曲でもない」
「最悪じゃん」
ルセが枕から顔を上げた。目が半分閉じている。眠いのだろう。でもフェズの膝の上のカルンを見て——少し表情が緩んだ。
「でも、カルン嬉しそう」
カルンの光がぽんと跳ねた。図星だったのか、光が一瞬明るくなって、すぐに照れたように縮んだ。
フェズは小さく笑った。
「・・・そうみたいだ」
「歌下手でも精霊が喜ぶなら、まあいいんじゃない」
ルセが再び枕に顔を埋めた。しばらくして、寝息が聞こえ始めた。切り替えが早い。疲れていたのだろう。
フェズは窓の外を見た。夜空に星が出ている。月は細い。風が穏やかに吹いている。
「ルセ」
返事がない。もう寝ている。フェズは声を落とした。
「・・・明日どうする、って話、してなかったな」
独り言だった。カルンが膝の上で顔を上げる。小さな瞳がフェズを見ている。
火の祠。このまま西に行けば、グラーヴェ市に向かえる。トルニオの祠。最後の祠印。旅の目的は変わっていない。祠巡りを終えて、巡祠の覇者の称号を得る。カルンを守るために。
でも——。
黒斑病が急に増えている。各地で、同時に。それはフェズの知っている世界の常識から外れている。何かが起きようとしている。その予感が、胸の底でざわざわと鳴り止まない。
「・・・もう少し情報を集めてから決めよう」
カルンに向かって言った。カルンの光がゆっくりと揺れた。不安の色がある。カルンも感じている。精霊として——同族が狂わされている気配を。
フェズはカルンの頭を指先でそっと撫でた。引き出さない。守り込まない。ただ触れるだけ。
「大丈夫だ。・・・たぶん」
カルンの光が少し安定した。フェズの言葉を信じたのか、フェズの体温に安心したのか。小さな体が膝の上で丸くなり直して、目を閉じた。
フェズも目を閉じた。
黒斑病の急増。嫌な風。商人たちの不安そうな声。——全部が何かの前触れのような気がしていた。でも今夜は考えても分からない。明日、もう少し情報を集める。それから決める。
窓の外で風が鳴った。遠くで犬が吠えている。夜の音だ。普通の夜の音だ。
でもどこか——空気が重かった。
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翌朝。
フェズは早くに目が覚めた。窓から朝の光が差し込んでいる。ルセはまだ寝ている。カルンは膝の上から動かず、フェズの腿の上で丸くなったまま寝息を立てている。精霊に寝息があるのかは分からないが、光が規則正しく明滅しているのは、たぶん眠っている証だ。
宿の食堂で朝食を取った。硬いパンと干し肉と、薄いスープ。昨日と同じだ。
ルセが干し肉を噛みちぎりながら言った。
「で、どうする? 西に行く?」
「もう少しここで情報を——」
言いかけた時だった。
食堂の扉が勢いよく開いた。旅人が一人、息を切らして飛び込んできた。顔が青い。汗をかいている。走ってきたのだろう。
「——街道に! 街道に精霊が!」
食堂の空気が凍った。
「黒斑病だ! 精霊が暴走してる! 街道の東の方——すぐそこだ!」
椅子を蹴って立ち上がる音が複数。商人たちが顔を見合わせている。宿の主人がカウンターの向こうで固まっている。
フェズの耳が、それを拾った。
遠い。でも——聞こえる。
精霊の悲鳴だ。
甲高い、歪んだ音。正気を失った精霊が発する、壊れた旋律。フェズはその音を知っている。修行時代に聞いた。街道で何度か聞いた。でも今の音は——近い。この宿場街のすぐ外だ。
カルンが肩の上で身を硬くした。光が縮む。怯えではない。同族の悲鳴を聞いている。精霊として——それを無視できない顔をしている。
フェズはルセを見た。ルセはもう立ち上がっていた。腰の剣に手をかけている。
目が合った。
「行くでしょ」
ルセの声に迷いがなかった。フェズは頷いた。
「・・・ああ。行く」
朝食を残して、二人は宿を飛び出した。
街道の東。朝靄の向こうから——精霊の悲鳴が、聞こえている。